第六十二話 邂逅、ヴェルナー・クロイツ
皇帝杯(秋)を制してから数日後、白雷ジムの調教ルームは静かな熱気に包まれていた。フリアノンはいつものように念動推進シミュレーターの座席に座り、目を閉じて深い呼吸を繰り返している。春秋制覇という快挙を成し遂げた後も、浮かれることはなかった。
(……スレイ……今、私、少しだけ、君に近づけた気がするよ)
そのとき、隣で調教プランを確認していたミオが、ぱっと顔を上げた。
「ノンちゃん、ちょっと待って。あの人、まさか……!」
ミオの視線の先には、静かにこちらへ歩み寄ってくる一人の男性がいた。スーツの上からでも分かる、鍛え抜かれた無駄のない身体。そして、落ち着いた雰囲気を纏いながらも、どこか張り詰めた鋭い気配を感じさせる。
「……ヴェルナー・クロイツさん……」
ジムスタッフがざわつく。彼は、名だたるサイドールたちを勝利に導いてきた伝説的フリーのナビゲーター。四十代後半に差しかかる今も、その眼光は衰えていなかった。
「失礼するよ。フリアノン君、少し時間をもらえるかな?」
低く穏やかな声だった。フリアノンは一瞬戸惑ったが、ミオが小さく頷くのを見て、ゆっくりとシミュレーターから降り立った。
「ヴェルナーさん、今日はどうされたんですか……?」
「君に、直接伝えたいことがあってね。」
そう言うと、ヴェルナーは隣のミオにも軽く会釈した後、フリアノンと視線を合わせた。その瞳には、氷のような静謐さと、奥底に燃える赤熱が同居している。
「皇帝杯(秋)、見せてもらったよ。素晴らしい追い込みだった。あの走りは、ナビゲーターがどうこうできる領域を超えている。君自身の力だ。」
「え……あ、ありがとうございます……」
フリアノンは思わず目を伏せた。褒められているのに、胸がざわつく。彼の目はあまりに真っ直ぐで、こちらの弱さまで見透かされそうだった。
「けれどね、フリアノン君。君の走りには、まだ足りないものがある。」
「……!」
フリアノンは顔を上げた。ヴェルナーは一歩、彼女に近づく。
「君は感情の乱高下で力を爆発させる。その特性は武器でもあるが、同時に毒にもなる。スレイプニル……いや、彼女の最期を見ただろう?」
スレイの名前が出た瞬間、胸が締め付けられるように痛んだ。
「君は彼女のようになってはいけない。君にはまだ、走り続ける責任がある。」
「……責任……?」
「そうだ。君が皇帝杯を勝ったことで、多くのサイドールたちに希望が生まれた。だが、もし君がここで燃え尽きてしまったら、その希望も潰えてしまう。だからこそ、感情ではなく、理論と制御で勝つことを学ばねばならない。」
静かで厳しい声だった。フリアノンは言葉を返せず、ただ唇を噛んだ。
「でも……私、感情でしか……」
「そう思っているうちは限界が来る。君にはまだ伸び代がある。ナビゲーターが導くだけでは足りない。君自身が、自分の力を制御し、研ぎ澄ます意思を持たなければ。」
その瞳が、フリアノンの奥底まで射抜くように輝いていた。
「わ、私……」
「ヴェルナーさん!」
そこへミオが口を挟んだ。いつもの柔らかな関西弁とは違い、真剣な声色だった。
「ノンちゃんはまだ四歳になったばかりです。いきなりそんなこと言われても……!」
ヴェルナーはミオを見やり、少しだけ笑った。
「心配はいらない。これは君への期待だよ。焦る必要はない。ただ……覚えておいてほしい。」
再びフリアノンへ視線を戻す。
「君の走りは、美しい。だからこそ、その美しさを守り続けるためにも、感情に溺れない走りを身につけてほしい。いつか……君と共に戦える日が来ると、私は信じている。」
そして、彼は静かに背を向けた。スタッフたちに一礼し、去っていくその背中は、やはり大きかった。
「ノンちゃん……大丈夫?」
ミオが心配そうに声をかける。フリアノンは目を伏せ、強く握りしめた両拳を見つめた。
(感情に……溺れない……。私に……できるのかな……。)
それでも、その奥で小さな炎が灯るのを感じた。スレイのように消えるのではなく、彼女の夢を叶え続けるために――。
「……やってみるよ、ミオさん。私……もっと強くなりたい。」
顔を上げたフリアノンの瞳は、少し赤く潤んでいたが、その奥には確かな決意が光っていた。




