第五十五話 「見舞い」
村瀬調教師の言葉に、フリアノンはうつむいた。
ジムの会議室。
そこには、ミオも同席していた。
「せや。お前の体はまだ万全やない。今無理してレースに出て、取り返しのつかんことになったら元も子もあらへん」
ミオの言葉は厳しいが、優しさを含んでいる。
「……でも……」
「気持ちはわかる。でもな、ノンちゃん。命あっての走りや。焦ってもええことない」
村瀬も穏やかな口調で続けた。
「今は……今はとにかく、リハビリに集中しよう。秋にはきっと復帰できる。今はそのときに備えるんだ」
フリアノンは唇を噛み締めた。
(……わかってる……でも……)
胸の奥が、焦りと悔しさでざわつく。
だけど、二人の言葉が正しいこともわかっていた。
「……はい……わかりました……」
絞り出すように返事をすると、村瀬もミオもほっとしたように笑った。
「よう言うたな。ほな、今日は軽めのリハビリだけや」
「……うん……」
リハビリルームに戻ると、いつものトレッドミルが待っていた。
ゆっくりと歩く。
少しずつ、少しずつ、筋肉と感覚を取り戻していく作業。
(……走りたい……早く……でも……今は我慢……我慢……)
そんな日々が続いたある日。
◆
「……ノンちゃん」
声をかけられて振り向くと、そこには見慣れた赤い髪の少女が立っていた。
「……マーちゃん……」
マーメルスだった。
レースの時とは違い、今日は私服姿。
淡いピンクのトップスに白いショートパンツがよく似合っていた。
「何ぼーっとしてんのよ。ちょっとは元気出しなさいよ」
相変わらず棘のある言い方だったが、その瞳には優しさが宿っていた。
「……どうして……ここに……?」
「……別に、見舞いよ。あんたがリハビリ漬けで腐ってるって聞いたから」
「……腐って……ない……」
「ふん。まあいいけどさ」
そう言いながら、マーメルスは差し出した袋をフリアノンの膝に置いた。
「これ、差し入れ。病院の売店で売ってたプリン。甘いものでも食べて元気出しなさいよ」
「……ありがとう……マーちゃん……」
小さく笑うと、マーメルスはそっぽを向いた。
「別に、あんたのためとかじゃないんだから。ただ、あたしが走る距離じゃ一緒のレースには出られないけど……それでも、あんたがレースに戻らないと張り合いないでしょ」
「……うん……ごめんね……」
「謝ることないでしょ。……でも、あんたなら大丈夫よ。ちゃんと復活して、またあたしの前に立ちなさい」
その言葉に、フリアノンの胸が熱くなる。
「……マーちゃん……」
「まったく……泣かないでよね。ほら、プリン食べなさいよ」
「……うん……」
フリアノンは蓋を開け、小さなスプーンですくった。
口に入れると、甘く柔らかな味が広がる。
「……おいしい……」
「でしょ。……ま、あんたが美味しそうに食べてるの見てたら、買ってきた甲斐もあったわ」
そう言って、マーメルスはふっと笑った。
普段は高飛車でツンツンしている彼女の、その柔らかな笑顔を見て、フリアノンも微笑み返した。
(……わたし……がんばる……)
「マーちゃん……ありがとう……わたし……絶対に……戻るから……」
「当たり前でしょ。……あたしだって、あんたが走る姿を見ていたいんだから」
そう言うと、マーメルスは立ち上がった。
「じゃあね。また来るわ」
「……うん……ばいばい……」
手を振って去っていくマーメルスの背中を見つめながら、フリアノンは心の奥で小さく拳を握った。
(……絶対に……絶対に戻る……そして……あんたに胸を張って会えるように……)
病室の窓から見える夏の青空が、眩しく輝いていた。




