第五十一話 「ジュピターカップ前夜」
「……ふぅ……」
夜。
木星圏のジュピターカップ開催地近くにある宿舎の廊下で、フリアノンはひとり静かに深呼吸していた。
(……明日……いよいよジュピターカップ……)
D1の中距離戦。
ファン投票で一位に選ばれたプレッシャーは、今もずっしりと胸にのしかかっている。
廊下の先で人影が動いた。
「おーい、ノン!」
軽快な声で手を振りながら近づいてきたのはラディウスだった。
爽やかな笑顔を浮かべた彼は、いつも通りリラックスした雰囲気だ。
「こんな時間に散歩? 緊張して寝れないの?」
「……ラディウスくんこそ……」
「俺? 俺は……まぁ寝る前の体ほぐしってやつ」
ラディウスは首を回し、肩をぐるぐると回転させる。
「明日はお互い頑張ろうな。……あ、でもできればゴール前で隣に並ばないでくれると嬉しいんだけど」
「……なんで……?」
「だって、ノンちゃんが来ると……全力出さなきゃいけなくなるじゃん。疲れるんだよ~」
おどけた笑顔を見せるラディウスに、フリアノンは小さく笑った。
「……そんなこと……」
「じゃ、俺はもう寝るわ。明日、楽しもうな」
軽やかに手を振って去っていくラディウス。
その背中を見送ったとき、今度は別方向から重い足音が響いてきた。
「おう、フリアノン」
無骨な声で現れたのはガルディアス。
血管が浮き出るほど鍛え上げられた腕を組み、仁王立ちしている。
「こんな夜に何してやがんだ?」
「……ちょっと……」
「まぁいい。お前も明日は気張れよ。俺様は、今回は根性だけじゃ勝てねえって思ってる」
「……え?」
「お前とリュミエルがいるからな」
ガルディアスは口元を吊り上げた。
「でもよ、俺様は絶対に負けねぇからな!あいつ(シグマ)にデータじゃねえ、魂の走りを見せてやる!」
「ガルディアス……」
「じゃあな!夜更かしすんなよ!根性見せろ!」
どかどかと足音を響かせ、ガルディアスは廊下を去っていった。
その姿を見送っていると、今度は背後から静かな気配を感じた。
「……こんな夜更けに散歩かい?」
ふっと微笑みながら現れたのはリュミエルだった。
その瞳は、相変わらず夢見心地のように柔らかく光っている。
「……リュミエルくん……」
「明日は……走るんだよね。風のように……月のように……」
「……え?」
「ふふ……明日、楽しみにしてるよ。君の走り……見てみたいから……」
そう言うと、リュミエルはゆっくりと踵を返し、まるで幻のように廊下の向こうへと消えていった。
◆ ◆ ◆
翌朝に備え、自室に戻ったフリアノンは、静かに窓の外を見つめた。
星々が煌めき、木星の淡い光が宿舎を包んでいる。
(……みんな……強い……)
ラディウスの天真爛漫さ。
ガルディアスの根性。
リュミエルの圧倒的な才能。
(……でも……わたしも……負けたくない……)
スレイプニルの夢。
母・エポナの無念。
ファンの声援。
そして何より、自分自身のために。
(……絶対に……明日は……)
布団に入ると、ミオの声がふと脳裏に蘇った。
『ノンちゃん。楽しんでおいでや』
(……うん……楽しむ……)
小さく呟くと、フリアノンは瞳を閉じた。
明日。
ジュピターカップ。
ファン投票一位の名に恥じぬ走りを――。




