第四話:追い込みの走り
木星圏コロニー《オルトラ》。
未勝利戦で最下位に沈んでから数日後、フリアノンは再びスタートゲートの前に立っていた。
「ふぅ……」
深く息を吐く。
胸の奥に巣食う恐怖心は、簡単には消えない。
けれど、今日は違った。
隣には、いつもの体育会系ナビ――ガイ・マシラではなく、飄々とした笑顔の男がいる。
「大丈夫だよ、フリアノンさん。」
ユリウス・フェイダー。
太陽系にその名を轟かせる天才ナビゲーター。
彼は落ち着いた様子で操縦席に座り、モニターを指で弾く。
「今日は追い込みで行くからね。スタートは無理に出なくていい。君のタイミングでアクセルを開けるんだ。」
「……で、でも……。」
「僕を信じて。」
柔らかい声と微笑みに、フリアノンは小さく頷いた。
心臓が早鐘を打つ。
怖さと同時に、ほんの少しだけ心が温かくなる。
◇
ピット上階の観覧デッキでは、白雷ジムの面々がモニターを見つめていた。
「……よりによってユリウスか。」
腕を組むガイ・マシラの隣で、スレイプニル――スレイが不安そうにモニターを覗き込む。
「ノンちゃん……大丈夫かな……?」
「奴のことだ。何か考えがあって乗るんだろう。」
ガイは短く呟き、モニター越しにフリアノンを見据えた。
◇
カウントダウンが始まる。
《3…2…1…》
『スタート!』
爆音とともに各機が飛び出す中、フリアノンだけが一拍遅れてアクセルを開けた。
(こ、怖くない……怖くない……!)
彼女の機体は後方で加速し、最後尾に位置取りする。
「いいよ、そのまま。周りを気にしなくていい。」
ユリウスの声は穏やかで、まるで子守唄のように心を落ち着けてくれた。
「最終コーナーまで、前の集団を見失わないように付いていこう。」
「……はい。」
◇
中盤、他のサイドールたちは先行争いで位置取りを変え、コースは混沌としていった。
だが、最後尾のフリアノンだけは別世界にいるようだった。
(怖くない……周りがいないから……怖くない……!)
その安堵は、彼女の集中力を研ぎ澄ませる。
「そろそろだ。最終コーナーに入ったら……全開で加速するんだ。」
「……っ!」
胸の奥が震える。
恐怖と期待が入り混じった感覚。
(やれる……やってみせる……!)
◇
最終コーナーに差し掛かる。
「――今だ、フリアノン!」
ユリウスの指示と同時に、彼女はアクセルレバーを全開まで押し込んだ。
機体が悲鳴を上げる。
重力制御フィールドが限界まで圧縮され、機体が浮き上がった。
(速い……速い……!)
機体が風を切り裂く。
視界に映る景色が、次々と後ろへ流れ去っていく。
(こんな……速さ……わたし……初めて……!)
眼前に広がるコースには、次々と他のサイドールが現れる。
前を走る機体を、恐怖心を抱く暇もなく、ただ抜いていった。
「いいよ、そのまま――抜け!」
ユリウスの声は、もはや歓喜を含んでいた。
◇
ゴールラインを切った瞬間、
フリアノンは息を荒げ、ただ呆然と前を見つめていた。
――1着。
最下位から、一気に全機を抜き去り、初勝利を収めたのだ。
◇
「お疲れ様、フリアノンさん。」
ピットに戻ると、ユリウスが柔らかく笑いかけた。
「すごいじゃないか。あれが君の走りだよ。」
「わ、わたし……わたし……。」
言葉にならない喜びが、胸いっぱいに広がった。
「次も勝とう。君ならできる。」
その微笑みに、フリアノンの頬が赤く染まる。
(……だめ……こんな気持ち……だめなのに……)
サイドールと人間の交配は禁止。
それでも、どうしようもなく胸が熱くなる。
◇
観覧デッキでは、ガイが腕を組み直した。
「ふん……あいつらしい戦法だ。」
隣でスレイが嬉しそうに笑う。
「ノンちゃん、すごい!きっとこれからだね!」
(……フリアノン……次はもっと上へ……!)
◇
こうして、
追い込みという新たな可能性を得たフリアノンは、ついに勝利の味を知ったのだった。