第三十二話 オータムフラワー前夜戦
オータムフラワー前夜。
アンダームジムの木星圏宿舎は、レース前特有の張り詰めた空気に包まれていた。
マーメルスは一人、広い部屋の窓際に立っていた。
夜の木星は静かで、美しくて、そして恐ろしく冷たかった。
(……ふん。結局みんな、わたしが勝つと思ってるんでしょ)
そう思い、彼女は鼻を鳴らす。
確かに、チェリーブロッサムカップも優駿女子も制覇してきた。
このオータムフラワーを獲れば、女子クラシック三冠。
サイドール界でも数えるほどしかいない名馬の仲間入りだ。
(当たり前よ……わたしが負けるはずないんだから)
そう思った。思おうとした。
でも――
(……でも……もし……)
小さく震える指先を見つめる。
嫌になる。
なんで自分がこんな弱気にならなくちゃいけないのか。
「はぁ……」
無意識にため息が漏れた。
「おや? マーメルスがため息なんて珍しいね」
ドア越しに聞こえた声に、彼女は思わず背筋を伸ばした。
「……入っていいわよ」
静かにドアが開くと、いつも通り優雅に微笑むユリウスが現れた。
彼はマーメルスのナビゲーターであり、世界で唯一彼女が背中を預けられる男だった。
「どうしたんだい? 明日のレース前なのに」
「べ、別に……ただ、少し空気が重いだけよ」
ツンと顔をそむける。
するとユリウスは柔らかく笑った。
「そうか。……でも、空気を重くしてるのは君自身かもしれないよ」
「っ……な、何よそれ……!」
カッと顔が熱くなる。
なんでそんなことを言うのか。
なんでいつも、彼女の心を見透かしたようなことを言うのか。
「だって、君は三冠を獲れるサイドールだろう?」
「当たり前でしょ!」
即座に言い返す。
でも、その言葉に自信が乗り切らなかったことは、彼女自身が一番わかっていた。
「マーメルス」
ユリウスがゆっくり歩み寄り、彼女の頭に手を置いた。
その手は大きくて、暖かくて――悔しいほど安心してしまう。
「君がどんなに強がったっていい。でも……怖いなら怖いって言っていいんだよ」
「……っ……」
悔しい。
泣きたくなんかないのに。
この人の前だと、全部見透かされてしまう。
「べ、別に怖くなんかないわよ……!」
「そうかい?」
「……少しだけ……少しだけ……」
言った瞬間、涙が頬を伝った。
「っ……!」
慌てて拭うが、ユリウスは何も言わず、その手をそっと重ねてくれた。
「大丈夫。君は明日、必ず勝てる。……でももし負けても、君の価値は変わらない。僕はそう思ってるよ」
「っ……な、なに言ってるのよ……!」
「本当のことさ。……でも、僕としては君の勝つ姿が見たいな」
「……ユリウスさんは、ずるいわよ……」
「そうかな?」
「そうよ……。でも……」
涙で潤んだ瞳を彼に向ける。
ユリウスは優しく微笑んでいた。
「……でも……明日は……勝つから……」
「うん。期待してるよ、マーメルス」
その言葉に、彼女の胸の奥で震えていた何かが静かに落ち着いていく。
(わたしは……この人と一緒に……三冠を獲るんだ……)
夜空には木星の光が冷たく瞬いていた。
でも、その光はもう怖くなかった。
彼女の中に、確かな炎が灯っている限り――。




