第三十話:ジュピターニュースカップ編
ジュピターニュースカップ当日。
木星圏のレース場は朝から重々しい雲に覆われ、演出装置によって細かな粒子が雨のように舞い、路面に艶やかな光を落としていた。
これは観客向けの視覚演出――実際に雨が降っているわけではない。だが視界は微かに滲み、レースに緊張感を加えていた。
マーメルスはスタートゲート裏の待機エリアで、目を閉じて静かに息を整えていた。
(……ふん。雨? そんなの、関係ないわ。)
ツインテール状に束ねられた淡い銀髪が微かに揺れる。
彼女の周囲には、他のサイドールたちが緊張した面持ちで佇んでいたが、マーメルスだけは違った。
(今日は負けられない。絶対に――。)
◇
「調子はどう?」
ナビゲーターシートに座るユリウスが、モニター越しに柔らかく微笑む。
相変わらず飄々としていて、その笑顔にはどこか余裕があった。
「調子は最高に決まってるでしょ。私を誰だと思ってるの?」
「そりゃ、木星圏最強のロイヤルブラットのお姫様だよ。」
「ふふ……分かってるじゃない。」
マーメルスはわずかに頬を赤らめて視線を外す。
このナビゲーターはいつだって彼女の心を読み取ってしまう。
「今日は先行策で行く。最終コーナーで一気に抜け出すよ。」
「言われなくても分かってるわ。」
気圧が下がり、空気が重くなる。
スタート時刻が迫っていた。
◇
『各機、スタンバイ……3、2、1……スタート!』
金属音とともにゲートが開き、サイドールたちが一斉に飛び出した。
推進ユニットが唸りを上げ、火花のような光が視覚演出の雨粒を弾き飛ばす。
「――っ!」
マーメルスは一瞬でトップ争いに加わると、そのまま先行集団の外側に付けた。
『いい位置取りだよ、マーメルス。そのままリズム崩さずに。』
(分かってるっての……!)
演出の霧雨で視界が滲む。
だがその奥で、何度も自分を突き放してきたスレイプニルや、フリアノンの顔が浮かんだ。
(あんたたちには……絶対に負けない……!)
◇
中盤、レースはスローペースで進んでいた。
マーメルスは内心苛立ちを覚えていた。
(誰がペース落としてるのよ……このままだと切れ味勝負になるじゃない……!)
だがユリウスの声が飛ぶ。
『焦らないで。ペースは向こうが作ってる。仕掛けは最終コーナーでいい。』
(……チッ。)
舌打ちしながらも、彼女は素直に従った。
今まで幾度もこのナビゲーターに救われてきたからだ。
◇
そして――最終コーナー。
『今だ、行けっ!』
「――っ!」
マーメルスは全身の念動力を解放した。
推進ユニットが火を吹き、機体が跳ねるように前に飛び出す。
(私が……私こそが……最強よっ!!)
◇
直線に入った時、後続との差は三馬身あった。
だが、演出とはいえ視覚効果の「雨」が濡らした路面が、マーメルスの脚を奪う。
(くっ……重い……!?)
残り半分。
後方から黒い機体が迫ってくるのが見えた。
(……誰よ……!?)
焦りが胸を締め付ける。
脚が重い。息が上がる。視界が滲む。
(……負けない……! 負けられない!!)
◇
残りわずか。
最後の力を振り絞り、念動力をさらに解放する。
「――ッッ!!!」
そして――ゴール。
『ジュピターニュースカップ、勝ったのはマーメルスッ!!』
実況が絶叫する。
しかしその声も、マーメルスの耳には遠く霞んでいた。
(……勝った……? 私が……?)
◇
パドックに戻ると、ユリウスがいつもの笑顔で迎えてくれた。
「お疲れ様、マーメルス。ギリギリだったね。」
「……余計なお世話よ。」
そう言いながらも、マーメルスの頬には安堵の笑みが浮かんでいた。
(ふん……これで……私は、オータムフラワーでも……。)
視覚演出の雨が止み、木星の雲間から人工太陽の光が差し込む。
その光はまるで、彼女の未来を祝福しているようだった。




