第三話:追い込みの可能性
木星圏コロニー《オルトラ》。
未勝利戦で最下位に沈んだ翌日、フリアノンはジムの一角で静かに立ち尽くしていた。
(……また、負けた……)
真新しいトレーニングスーツの袖口をぎゅっと握りしめる。
胸の奥が、まだじんわりと痛かった。
「ノンちゃん!」
振り返ると、スレイプニル――スレイが駆け寄ってきた。
「今日は自主練? あんまり無理しないでよ?」
スレイはいつものように元気で、そして優しい笑顔を見せる。
その笑顔に救われるたび、自分の弱さが浮き彫りになる気がして、フリアノンは目を伏せた。
「……うん。ありがとう、スレイ。」
「じゃあ、また後でね!」
スレイは軽く手を振って去っていった。
彼女の背中を見送りながら、フリアノンは深呼吸する。
(……わたしも……ちゃんと……走れるようにならなきゃ……)
◇
その日の午後、
白雷ジムの調教コースには見慣れない男が立っていた。
黒のナビスーツを軽やかに着こなし、
銀髪混じりの長い前髪を耳にかけた青年。
端整な顔立ちに、薄く柔らかな笑みを浮かべている。
「へぇ……ここが白雷ジムか。」
彼――ユリウス・フェイダーは、周囲のサイドールやナビゲーターたちから、好奇と敬意を入り混じった視線を浴びていた。
《天才ナビゲーター、ユリウス・フェイダー》
ジムに所属せず、あらゆるチームと契約するフリーランスのナビ。
その実力は全太陽系に轟いていた。
◇
「なるほど……あれが、フリアノンか。」
ユリウスは調教コースの隅で、黙々とスタート練習を繰り返す少女を見つけた。
背はスレイより少し高い程度。
淡い水色の髪が、光を浴びて微かに揺れる。
細い肩と伏し目がちな目元からは、内向的で気弱な性格が滲み出ていた。
「さて……」
ユリウスは歩み寄り、壁にもたれて微笑んだ。
「こんにちは、フリアノンさん。」
「えっ……?」
突然声をかけられ、フリアノンは慌てて振り返る。
目の前に立つ男を見上げ、思わず息を呑んだ。
(……綺麗な人……)
整った輪郭、切れ長の瞳、そしてどこか掴みどころのない柔らかい微笑み。
見た瞬間、胸の奥がふわりと揺れた。
「ごめんね。驚かせちゃったかな?」
「あ、あの……ど、どなた……ですか……?」
「自己紹介が遅れたね。僕はユリウス・フェイダー。フリーのナビゲーターだよ。」
その名前を聞いた瞬間、背後にいたスタッフ達がざわめいた。
「ユリウス!?」「本物か……?」
フリアノンもその名を知らないはずがなかった。
同じジム所属ではないが、太陽系全域のレース中継で何度も実況に呼ばれる天才ナビゲーターだ。
「ど、どうして……ここに……?」
ユリウスは穏やかに笑い、彼女の機体をゆっくりと一瞥する。
「実はね、少し前から君の走りを見ていたんだ。」
「え……わたし……の……?」
「そう。昨日の未勝利戦もね。」
言葉を失った。
恥ずかしさと恐怖が同時に込み上げ、フリアノンの頬が熱を帯びる。
(あんな……最下位だったレース……見られてた……)
「君は……人混みが苦手だろう?」
フリアノンは小さく目を見開く。
核心を突かれ、返事もできない。
「周囲に機体が密集すると、恐怖心で加速できなくなる。だけど――」
ユリウスは少しだけ笑みを深め、彼女を真っ直ぐに見つめた。
「最後尾から追い込みをかけるなら、君の集中力は活きると思う。」
「お、追い込み……?」
「うん。前に機体が密集していない分、風圧も視界も楽になる。そして、最終局面で一気に加速する。君の恐怖心を逆手に取る戦法だよ。」
フリアノンは呆然としたまま、ユリウスの言葉を聞いていた。
(……そんな……戦い方……あるの……?)
「どうかな。僕がナビに乗れば、君の走りはもっと変わると思うよ。」
「え……わ、わたしの……?」
「フリアノンさん。」
ユリウスは柔らかく微笑んだ。
「君と一緒に走ってみたい。僕にナビを任せてくれないかな?」
◇
その瞬間、フリアノンの心臓が跳ね上がった。
(……わたしと……走りたい……?)
胸の奥が熱くなる。
息が苦しくなるほどの鼓動を感じながら、震える唇で答えた。
「……はい……。」
気付けば頬に、微かな涙が滲んでいた。
ユリウスはそんな彼女を優しく見守り、言った。
「決まりだね。じゃあ……よろしく、フリアノン。」
その笑顔は、太陽系で最も強く、そして優しい光に見えた。
◇
しかし――
彼女の淡い恋心は、叶わない。
人間とサイドールの交配は、固く禁じられている。
それでも。
このとき、フリアノンは確かに思った。
(……この人となら……もっと速く、もっと遠くへ……走れるかもしれない……)
そして、彼女の新たな物語が動き始めた。