第二話:未勝利戦(Nクラス)
レースコロニー《オルトラ》。
白雷ジムの調教コースに、静かな朝が訪れていた。
「ふあぁ……」
フリアノンは控室のベンチに座り、欠伸をかみ殺した。
前回のデビュー戦から一週間。
暴走してコースアウトしたあの日が、まだ鮮明に頭に残っている。
「ノンちゃん、おはよ!」
明るい声に顔を上げると、親友のスレイプニル――スレイが、いつもの笑顔で立っていた。
淡い栗色の髪を軽く結い、ジムのサポートスーツを着こなしている。
「あ……おはよう、スレイ。」
「今日、Nクラスだね。ノンちゃん、緊張してる?」
「……うん。怖い……。」
スレイは笑みを崩さず、隣に腰を下ろした。
そして、フリアノンの手を優しく握る。
「大丈夫だよ。デビュー戦よりは落ち着いて走れるって。今日の目標は完走でしょ?」
「……うん。完走……。」
スレイは小さく頷き、ぱっと立ち上がる。
「よし!じゃあ今からガイさんのとこ行こう。怒られる前に顔出ししなきゃ!」
「えっ……。」
スレイに引っ張られ、フリアノンは控室を出た。
◇
「来たか、フリアノン。」
整備ピットに立つガイ・マシラは、短く刈り込んだ黒髪を撫でつけながら、冷静な視線を彼女に向けた。
隣では整備スタッフが、今日のレース用に調整した推進ユニットを最終点検している。
「今日はNクラスだ。未勝利戦だが、相手は全部経験済みだ。デビュー戦よりも手強いぞ。」
「……はい。」
「……だが、今日の目標は完走だ。分かるな?」
「……はい。」
フリアノンの声は震えていたが、前回ほど酷くはなかった。
その変化に気付いたガイは、小さく息を吐く。
「怖いのは当たり前だ。だが、逃げることだけは考えるな。……いいな?」
「……はい。」
横で聞いていたスレイが、にこりと笑う。
「ノンちゃん、ガイさんって厳しいけど、ちゃんと分かってるよね?」
「……う、うん。」
ガイは無言でスレイを一瞥したが、否定も肯定もせずに操縦席へ歩き去った。
◇
出走ゲート前。
コース全体が薄い重力制御煙に包まれている。
(……怖い……でも……)
脳内HUDにカウントダウンが表示される。
「3」「2」「1」――
『スタート!』
ブーストの爆音が鳴り響き、フリアノンの体が前へと押し出された。
(こ、怖くない……怖くない……!)
彼女は前回よりも冷静に、加速制御レバーを押し込む。
周囲を抜ける念動力推進煙の軌跡。
それでも、前よりははっきりと前が見えていた。
「いいぞ、フリアノン。そのままついていけ!」
ガイの声が通信越しに届く。
(……ついて、いく……!)
コーナーを無難に曲がる。
暴走警告も鳴らない。
必死に恐怖を抑え込み、走り続けた。
だが。
最終コーナー、勝負所。
「仕掛けろ!!加速しろ!!」
ガイの声が鋭く響く。
だが、フリアノンの指先は動かなかった。
(こわい……抜けない……あぁ……)
周囲のサイドールが次々に加速していく。
彼女はただ、置いていかれるだけだった。
結局――
ゴールラインを切ったとき、順位表示は最下位を示していた。
◇
レース後、ピットに戻ると、ガイは彼女を見て短く言った。
「……完走は、したな。」
フリアノンは俯く。
悔しさで、視界が滲んだ。
「だが、次は……分かってるな?」
「……はい。」
涙がこぼれ落ちそうになったそのとき、スレイが駆け寄ってきた。
「ノンちゃん!」
ぱっと彼女の手を握り、笑顔を向ける。
「すごいよ!ちゃんとゴールできたじゃん!」
「……でも……最下位、だよ……。」
「最下位でも完走は完走!次は一つ順位上げようよ。それでいいじゃん!」
その言葉に、フリアノンの胸が少しだけ温かくなる。
(……うん……次は……)
彼女は小さく頷いた。
それが、サイドール・フリアノンの未勝利戦の結末だった。