第百十六話「母性の芽生え」
夏の終わり、蝉の声が静かになり始めた頃――
フリアノンのお腹は、少しずつ膨らみ始めていた。
鏡に映る自分の姿を見ながら、彼女はそっとその膨らみに触れる。
(……大きく……なってる……)
冷たい指先が、柔らかい肌に触れたとき、小さな命の重みが確かにそこにあった。
つわりは三か月を過ぎる頃には落ち着き、今は毎日しっかり食べられるようになった。
センターの栄養士が考えてくれるバランスの良い食事メニューを見ていると、「赤ちゃんのため」と言われるたびに、胸の奥がきゅっと温かくなる。
ある日の昼下がり。
担当スタッフに連れられ、センター内の庭園を散歩していた。
夏の強い光は和らぎ、心地よい秋風が木々を揺らしていた。
「今日は風が気持ちいいですね、フリアノンさん」
「……はい……」
穏やかに微笑み返しながらも、フリアノンは歩くたびに感じるお腹の重さに驚いていた。
(……こんなに……重いんだ……)
けれど不思議だった。
今までなら、この体の変化も、自分の未来を奪うもののように感じて怖くて仕方なかったはずなのに――
(……怖くない……)
小さな命が、確かに自分の中にいるという実感。
それは、これまで味わったことのない種類の安心感を与えてくれた。
ある夜。
個室のベッドで眠れずにいると、お腹の奥で微かな動きを感じた。
(……?)
驚いて目を開ける。
もう一度、そっとお腹に手を当てると、今度ははっきりとわかった。
(……動いてる……この子……動いてる……!)
胸の奥が熱くなる。
涙が零れ落ちた。
(……大丈夫だよ……ここにいるから……)
今まで、自分は守られるばかりの存在だと思っていた。
レースではナビゲーターに守られ、ジムに守られ、仲間に守られ――
けれど、今は違う。
(……わたしが……守るんだ……)
お腹を撫でながら、フリアノンは初めて「母親」という言葉を自分に当てはめてみた。
母親――
エポナ。
自分を産み、命を落とした母。
会ったこともない母親の面影を思い浮かべる。
(……わたしは……ちゃんと……この子を……)
守りたい。
生きていてほしい。
そして、もしこの子が走ることを選ぶなら、精一杯背中を押してやりたい。
選ばないなら、それもまた尊いと教えてやりたい。
自分がレースばかりを強いられた日々を思い出す。
あの恐怖と孤独を、この子には味わわせたくないと思った。
翌朝、検診を終えて部屋に戻ると、廊下で他の妊娠中の女子サイドールたちが談笑している声が聞こえた。
「昨日胎動あったんだー」
「わたしもわたしも! びっくりするよね」
彼女たちの笑顔を見て、フリアノンはふと足を止めた。
今までなら、その輪に入れない自分を惨めに思っただろう。
けれど今日は違った。
(……わたしも……この子と……一緒……だから……)
ひとりぼっちじゃない。
お腹の中で、小さな命が呼吸している。
それが、何よりも心強かった。
その夜、ベッドに横たわり、薄暗い天井を見つめながらそっと呟いた。
「……ありがとう……」
自分の中に宿ってくれた命に。
そして、母としての覚悟を芽生えさせてくれたこの子に。
(……わたし……頑張るね……)
小さな命は、彼女の体の奥で、ゆっくりと眠っていた。




