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サイドライブ  作者: 碗古田わん


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第百十四話「春、交配のあとで」

 薄暗い繁殖ルームの天井を、フリアノンはぼんやりと見つめていた。


 まだ身体の奥には余韻が残っている。

 鼓動は落ち着かず、全身が重く火照っているようだった。


(……わたし……終わったんだ……)


 羞恥と安堵と……そして、静かな悲しみが混ざり合っていた。

 人として育てられ、人として生きてきた。

 だけど結局、自分はサイドールとして、こうして繁殖のために生きる運命にあるのだと、身体の奥深くに刻み込まれたような感覚があった。


 その横で、リュミエルがシーツの上に腰掛け、黙って髪を撫でてくれていた。

 優しく、指先で梳かすように。

 交配前もそうだった。

 いつも彼は、戦う前にフリアノンの髪を撫でてくれた。

 その仕草に、安心をもらっていた。


「……大丈夫?」


 静かな声。

 耳に優しく届く、落ち着いたトーンだった。


「……はい……」


 フリアノンは小さく頷く。

 でも、涙は止まらなかった。


「怖かった?」


「……はい……でも……優しかったです……リュミエルさん……」


 震える声でそう言うと、リュミエルは微笑み、小さく首を振った。


「……そうか。君が相手で、よかったよ」


 その言葉に、フリアノンの胸が痛んだ。

 リュミエルにとって、繁殖はこれが初めてではない。

 既に何度も交配を経験し、いくつもの血を残してきた。

 それでも、優しく声をかけてくれるその姿が、かえって切なさを増幅させた。


(……わたし……もう、レースには戻れないんだ……)


 リハビリをしても、日常生活に戻れるだけ。

 走ることは許されない。

 サイドールとして、走るために生まれてきた自分が――

 走れない身体になってしまった。


 それでも、こうして繁殖として役割を果たしていけるなら、まだ生かされる。

 そう思うと同時に、絶望的な無力感が胸を満たした。


「リュミエルさんは……平気、なんですか……? 走れなくなって……」


 絞り出すように問うと、リュミエルはしばらく黙ったあと、ふっと微笑んだ。


「……悔しいよ。そりゃあ……悔しいさ。走って、勝って、歓声を浴びることが、僕たちにとっての生きる証だったから……」


 静かな声だった。

 その微笑みには、深い悲しみと諦めと、そしてわずかな誇りが混ざっていた。


「でも……君の子供が、またあのコースを走る日が来る。そう思うと……少し救われるんだ」


 フリアノンは瞳を伏せた。


 自分の子供。

 自分の血を継ぐ存在が、再びあの大舞台を駆け抜ける。

 それはきっと誇らしいことなのだろう。


 だけど。


(……わたしは……わたし自身が、まだ走りたかった……)


 心の奥底で、絞り出すようにそう思った。


「泣かないで、フリアノン」


 リュミエルがもう一度髪を撫でる。

 その手は優しくて、暖かくて――

 涙が止まらなかった。


 窓の外では、雨上がりの春の日差しが差し込み始めていた。

 桜の花びらが、淡い風に乗って舞っている。


 フリアノンはそっと目を閉じた。

 そして、小さく、声にならない祈りを呟いた。


(……生まれてくる子が、幸せでありますように……)


 その祈りだけが、今の彼女をかろうじて支えていた。

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