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サイドライブ  作者: 碗古田わん


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第百十三話「春、初めての交配」

 その日、朝から雨が降っていた。


 繁殖センターの中庭に並ぶ桜の木々は、冷たい雨粒に打たれ、花びらを落としている。

 曇り空から落ちてくる雨音だけが、静まり返った廊下に響いていた。


 フリアノンは、スタッフに連れられて廊下を歩いていた。

 薄いピンク色のワンピースが、震える身体に貼り付くように感じる。


(……いや……怖い……怖い……)


 足取りは重かった。

 発情期の疼きが、身体を鈍く熱くしている。

 けれど、その奥にあるのは羞恥と恐怖だった。


(……どうして……わたし……)


 繁殖ルームの前で足が止まる。

 ドアの向こうには、今日の交配相手――リュミエルがいる。


「入ってください」


 スタッフに促される。

 フリアノンは小さく震える指でドアノブを回し、扉を開けた。


 部屋の中には、白いベッドがひとつとソファが置かれていた。

 そのソファに座っていたのは――


「……フリアノン」


 リュミエルだった。


 銀色の髪を肩で揺らし、穏やかな微笑みを浮かべている。

 以前と変わらない、優しくふわふわとした雰囲気。

 だけど、どこか大人びて見えた。


「久しぶりだね。元気そうでよかった」


 その声を聞いた瞬間、フリアノンの瞳から涙が溢れた。


「……リュミエル……さん……わたし……わたし……」


 震える声。

 言葉が続かない。

 レースで幾度となく挑み、そして越えられなかった背中。

 憧れの存在だった相手と、今、自分はこんな形で再会している。


(……いや……いやだ……こんなの……)


 頬を伝う涙を、震える手で拭った。


 その時だった。

 リュミエルがゆっくりと立ち上がり、フリアノンの前に歩み寄った。

 そして、優しくその頬に手を添える。


「泣かないで」


 その声は、優しくて温かくて――

 まるで春の雨のように静かに胸に降り注いだ。


「フリアノン……怖いよね。僕も、最初は怖かったよ。でも、大丈夫。君に恥ずかしいことなんてさせないから」


「……でも……でも……」


 涙声で震えるフリアノンを、リュミエルはそっと抱きしめた。

 大きく、温かい胸に顔を埋めると、鼻先にほのかに懐かしい香りが届いた。

 宇宙港や調教場で嗅いだ、あの石鹸のような柔らかな匂い。


「……わたし……レース……走れなくなって……今度は……こうやって……」


 言葉にならない嗚咽が喉を震わせる。

 涙が止まらなかった。


「……そうだね……君は本当に強かった。ずっと頑張ってきたもんね」


 リュミエルの手が、優しくフリアノンの髪を撫でる。

 子供をあやすように、ゆっくりと。


「僕だって、もう走れない。でも……こうやって次の命を繋いでいけるなら、それもまた、僕たちサイドールの生きる道だと思うよ」


「……リュミエルさん……」


 顔を上げると、微笑むその瞳が涙で滲んで見えた。

 優しくて、穏やかで、そしてどこまでも暖かい光を湛えている瞳。


「大丈夫。怖くないよ。……僕がいるから」


 そう言って、リュミエルはフリアノンの唇にそっと口づけた。


 ――心臓が跳ね上がった。


 羞恥、恐怖、戸惑い……その全てが、一瞬だけ、消えた。

 代わりに胸に広がったのは、温かく、そして切ない愛しさ。


(……あぁ……この人で、よかった……)


 涙が止まらないまま、フリアノンは震える腕をリュミエルの背に回した。


 窓の外では、冷たい春の雨が優しく降り続いていた。

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