第百十二話「春、初めての発情」
春。
地球圏の繁殖センターにも、暖かな風が吹き込む季節がやって来た。
窓を開けると、外の桜が咲き始めていた。
淡い桃色の花びらがひらひらと舞い散り、芝生の上に降り積もっていく。
フリアノンは部屋のベッドに腰掛け、その景色を眺めていた。
桜を見るのはいつぶりだろうか。
レースの日々は常に屋内と宇宙港、そして調教場と遠征先のホテルの往復で、こうしてゆっくり春を感じる時間などなかった。
けれど――
(……あつい……)
頬に手を当てる。
微熱のように火照った感覚があった。
違う。微熱じゃない。
もっと深いところから湧き上がる、得体の知れない熱。
今まで経験したことのない、むず痒く、落ち着かない感覚。
窓から入り込む風が、肌を撫でるたびにゾクリと背筋が震えた。
息が浅くなる。胸が苦しい。
それなのに、心の奥で淡い疼きが広がっていく。
(……これが……発情期……?)
繁殖入りした女子サイドールは、春になると皆こうなると聞いたことがある。
けれど、現役時代はそんなこと一度もなかった。
調教、レース、トレーニング、リハビリ、遠征、記者会見……毎日が緊張と戦いの連続で、余計なことを考える隙間さえなかったのだ。
その時、ノック音が響いた。
「失礼します。フリアノンさん、今よろしいでしょうか?」
スタッフが部屋に入り、タブレットを確認しながら告げる。
「初回の交配相手が決まりました。リュミエルさんになります」
その瞬間――
フリアノンの胸の奥で、何かが跳ねた。
「……りゅ……リュミエル……さん……?」
声が震える。
脳障害で引退し、繁殖入りしたことは知っていた。
かつてユリウスと共に走り、無邪気な笑顔を見せていた同期の男子サイドール。
(……リュミエル……)
あの穏やかな声、ふわふわとした笑顔、でも走るときだけは鋭い眼差しに変わるその瞳。
同じ舞台で戦った日々が、鮮明に蘇る。
けれど、蘇ったのは誇らしい記憶だけじゃなかった。
(……わたし……あの人と……)
心臓が苦しくなる。
呼吸が乱れる。
身体の奥に灯った熱が、さらに強く脈打った。
「詳細は後日お伝えします。本日はこれで失礼します」
スタッフが出て行くと、部屋は再び静寂に包まれた。
桜の花びらが、窓の外でくるくると舞っている。
(……いや……だ……)
そう思った。
怖かった。
繁殖が嫌なのではない。
リュミエルが相手であることが、恐ろしくてたまらなかった。
(……こんな……こんなわたしを……見られるなんて……)
唇が震えた。
誰よりも憧れた走りを見せてくれた相手。
優しく微笑んでくれた相手。
その相手に、レースでもう勝つことはできない。
代わりに、自分は繁殖相手として選ばれるだけの存在になった。
(……いや……いやだ……いや……)
押し寄せる羞恥と屈辱と、どうしようもない切なさが胸を満たした。
だけど同時に――
身体は、抗いようのない熱で疼いていた。
(……いや……でも……どうして……わたし……)
涙が零れた。
止められない。
嗚咽が喉の奥で震えた。
窓の外には、変わらない春の空が広がっている。
だけどその景色は、フリアノンにとってどこまでも残酷で、悲しかった。




