第百十一話「故郷での生活開始」
地球圏、白雷ジム直営の繁殖センター。
冬の終わりを告げる冷たい風が、丘陵に立つ広大な施設のガラス窓を震わせていた。
トレーラーから降り立ったフリアノンは、静かに周囲を見渡した。
遠くには山並み。澄んだ空気。街の喧騒もなく、ただ小鳥の囀りと風の音が聞こえる。
(……ここが……わたしの……これからの場所……)
案内役のスタッフが微笑み、フリアノンを迎え入れる。
「こちらです。今日からこの部屋で生活していただきます」
通されたのは、白を基調とした明るい個室だった。
窓が大きく作られ、日の光がたっぷりと差し込んでいる。
部屋の奥には人間用と変わらないシングルベッドが置かれ、脇には木製の小机と椅子、備え付けのクローゼットがあった。
壁には大きな姿見が掛けられている。
まるで、ビジネスホテルのようだった。
でも、その清潔さや暖かさは、フリアノンの胸を余計に締め付けた。
(……部屋……じゃない……檻だ……)
スタッフが優しく声をかける。
「食事は朝昼晩、こちらのカフェテリアで人間スタッフと同じものをご用意します。まだ移送疲れが残っていると思いますので、今日はゆっくりお休みください」
「……ありがとうございます……」
フリアノンは小さく頭を下げた。
そして、スタッフが出て行くと、室内はしんと静まり返った。
窓の外には、同じように繁殖入りした女子サイドールたちが歩いているのが見えた。
皆、静かに談笑したり、屋外ベンチで読書したり、運動場で軽く体操している。
穏やかな風景。
だけど――
(……わたしも……ああなるんだ……)
ベッドの縁に腰を下ろす。
スプリングが柔らかく沈み、身体を支えてくれる。
でも、その優しさが恐ろしく感じた。
視界の先、壁に掛かった鏡には、見慣れない自分の姿が映っていた。
短く切られたまま伸びきらない白い髪。少しやつれた頬。
どこか虚ろで、光を失った瞳。
(……母さん……)
思わず母、エポナのことを思い出す。
この故郷で生まれ、わたしを産んだ後、すぐに命を落とした母。
(……わたし……ここで……母さんと同じように……)
肩が震える。
涙が零れ落ちそうになるのを、必死に堪えた。
(……走りたい……)
あのトレーニング場を駆けた日々が思い出される。
春風に乗ってスピードを上げた朝練。
夏の雨を弾きながら全力で駆けた午後練。
ミオと一緒に喜びを分かち合った勝利の夜。
全てが、もう二度と戻らない景色になっていく。
「……っ……」
震える声が漏れた。
胸が痛い。
呼吸が浅くなる。
(……わたし……もう……いらないんだ……)
誰にも聞こえない声で呟いた瞬間、涙が溢れた。
声を殺しながら、嗚咽が止まらなかった。
外から、春を告げる鳥の声が聞こえた。
遠くで女子サイドールたちの穏やかな笑い声が響いていた。
穏やかで、優しくて、変わらない景色。
でも、フリアノンの中の何かは、取り返しがつかないほど壊れてしまっていた。
(……走りたい……走りたい……)
その小さな願いだけが、胸の奥で何度も木霊していた。




