第百九話「病院編」
重い瞼をゆっくりと開くと、眩しい蛍光灯の光が滲んで見えた。
(……ここ……病院……?)
視界がぼやけている。天井の白い板目模様を、しばらく無言で見つめていた。
右側から、すすり泣くような声が聞こえる。
顔を横に向けると、椅子に座ったまま、ミオが俯いて泣いていた。
「……ミ……オ……さん……?」
声にならないほどかすれた声が口から漏れた。
その瞬間、ミオが勢いよく顔を上げる。
「ノンちゃん……!? ノンちゃん!!」
泣き腫らした目を大きく見開き、ミオは慌てて立ち上がった。
「先生呼んでくるからな! ちょっと待っとって!!」
そう言うと、泣き顔のまま病室を飛び出していった。
(……また……倒れたんだ……わたし……)
重い頭でそう考えると、薄暗い不安が胸の奥を締め付けた。
ほどなくして、白衣を着た中年医師と看護師、そしてミオが戻ってきた。
「フリアノンさん、聞こえますか?」
「……はい……」
医師が瞳孔を確認し、手足を軽く動かさせる。
「頭痛はありますか?」
「……少し……」
「そうですか……無理はしないでくださいね」
医師はカルテに何かを書き込み、静かな声で告げた。
「今回の症状は……脳障害です。ただ、命に別状はありません。リハビリを行えば、日常生活に支障がない程度までは回復できるでしょう」
フリアノンの胸に、重い鉄球が落ちてきたような感覚があった。
けれど、必死に息を整えて震える声を絞り出す。
「……レース……には……」
医師は無言で視線を伏せた。
ミオが代わりに答える。
「……無理やて……。オーナーとも相談した。……もう、ノンちゃんには走らせられへん……」
その声は、泣きそうに震えていた。
(……ああ……もう……走れないんだ……)
現実がゆっくりと、しかし確実にフリアノンを飲み込んでいった。
走るために生まれてきた。
走ることで、皆に認められ、ミオに喜んでもらえることが全てだった。
なのに――
「……これからは……繁殖入りやって……」
ミオが絞り出すように言った。
繁殖。血を残す。それがサイドールの最終的な使命。
でも――
(……わたしは……まだ……走りたかった……)
呼吸が詰まるようだった。
これからは、走れない身体でただ生かされるだけ。
何もかもが灰色に見えた。
涙が頬を伝って、シーツに落ちる。
ミオが泣きながら、フリアノンの手を握った。
「ごめんな……ノンちゃん……。ほんまに……ごめんな……」
その言葉さえも、遠く、薄く響いた。
(……スレイ……マーメルス……リュミエル……クロエ……みんな……先に行っちゃった……わたしも……もう……)
閉じた瞼の奥に、ゴール板が近づく光景が浮かんだ。
もう二度と届かない、あの眩しいゴールが。
そのことが――
何よりも、何よりも、苦しかった。




