第百七話「アースカップ前夜編」
夜の白雷ジムは静寂に包まれていた。
いつもはライトで明るい調教場も、この日ばかりは闇の中に沈んでいる。
明日は年末最大の祭典、アースカップ。
今年一年を締めくくる大舞台に、フリアノンの心は重く沈んでいた。
寮の部屋の窓から夜空を見上げる。
冷たい月の光が差し込み、白い髪を銀色に照らしている。
(……明日、走るんだ……)
ここまで、いくつものレースを勝ってきた。
でも、勝つたびに重みが増していくような気がしていた。
(……みんな……どんな気持ちで、明日を迎えてるんだろう……)
フリアノンはふと思い立ち、部屋を出た。
◇
ラディウスは、ジムの屋外ウッドチップコースを黙々と歩いていた。
白い吐息を吐きながら、額にかかる前髪を指で払う。
(……やっとここまで戻ってこれた……)
去年は思うような結果が残せなかった。
クロエのように輝けるライバルが羨ましくて、悔しくて。
でも、そのクロエもいない今。
(……もう一度、みんなに証明する……オレがここにいる意味を……)
拳を握り締めるラディウスの背中には、微かに震える影があった。
「……ラディウスさん……」
か細い声に振り返ると、そこにはフリアノンが立っていた。
月明かりに照らされた彼女の表情は、どこか影を帯びていた。
「……眠れないのか?」
「……はい……ラディウスさんも……?」
「ああ……まあな」
小さく笑ったラディウスの横顔は、どこか寂しげだった。
フリアノンは何も言えず、ただ隣に立つ。
◇
その頃。
隣町のビジネスホテルに滞在しているアスティオンは、部屋のテーブルに両肘をつき、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
遠くに見えるレース場のナイター照明が、細い光の筋となって空を照らしている。
「……明日か……」
いつも冷静沈着で、何事にも動じない彼だったが、胸の奥では淡い期待と恐怖がせめぎ合っていた。
「アスティオン」
背後から声をかけたのは、彼のナビゲーター・ユリウスだった。
優雅な笑みを浮かべたユリウスは、窓際に立つアスティオンをじっと見つめる。
「眠れないのかい?」
「……ユリウスさんこそ」
「僕は君を信じてるよ。明日、君がどんな走りをするのか……楽しみにしてる」
ユリウスのその笑顔は、どこまでも穏やかで、しかし底知れない冷たさを帯びていた。
アスティオンは小さく息を吐き、瞼を閉じた。
「……明日は勝つよ。必ず」
その声は静かだったが、確かな決意に満ちていた。
◇
白雷ジムに戻る。
フリアノンはラディウスと別れ、自室へ戻る廊下を歩いていた。
暗い廊下に響く足音。
その胸には、得体の知れない不安が渦巻いていた。
(……わたしは、勝てるのかな……)
今年一年、走り抜けてきた。
でも、そのたびに心は擦り減っていくようだった。
(……わたしは、何のために走るんだろう……)
自問するたび、答えはぼんやりとしたまま霞んでいく。
そのとき、ミオの声が背後から響いた。
「ノンちゃん」
振り返ると、ナビゲーターのミオが立っていた。
薄暗い廊下の中で、その瞳は優しく光っている。
「……眠れないんか?」
「……はい……」
「そっか……」
ミオはフリアノンの肩をそっと抱き寄せた。
その温もりに、フリアノンの目から涙が溢れそうになる。
「ノンちゃん。大丈夫やで。わたしらがついとる。ノンちゃんは、ただ全力で走ったらええ」
「……ミオさん……」
「せやから……一緒に、勝とうな」
その言葉は、フリアノンの心に小さな火を灯した。
恐怖を照らし出すように、優しく、けれど確かに燃える炎だった。
(……わたしは……走る……明日も……)
夜は深く静かに、その決意を抱きしめるように広がっていった。




