第百六話「アースカップ調整編」
白雷ジムの調教場には、冬特有の鋭い冷気が満ちていた。
朝日が昇る頃には霜が溶けだし、地面に白い湯気が立ち上る。
その冷たい空気の中を、フリアノンは走っていた。
「……ハァ……ハァ……」
吐く息が白く光り、額には薄く汗が滲んでいる。
冬の冷気が肌を刺すように痛い。それでも、わたしは走り続けた。
「ノンちゃん、ラスト200、上げるで!」
調教スタンドから響くミオの声。
その声に、フリアノンは無意識に背筋を伸ばし、フォームを整える。
(アースカップ……)
この一年、フリアノンは走り続けてきた。
春には皇帝杯を制し、ジュピターカップでも勝利し、秋の皇帝杯も連覇した。
そして今、年末最後の大一番・アースカップが目前に迫っている。
けれど。
(……怖い……)
心の奥底で、震える声が聞こえる。
クロエを失ったあのレース以来、フリアノンの胸には恐怖が棲みついていた。
また誰かがいなくなるのではないか。
今度は自分がいなくなるのではないか。
「ノンちゃん!」
ミオの叫び声で我に返る。
目の前には最後のコーナーが迫っていた。
(……わたしは、走る……)
恐怖で足が竦むたびに、心の奥から声が聞こえた。
(……でも、わたしは……走るんだ……)
母エポナのように。
親友スレイプニルのように。
そして――クロエのためにも。
「ハァッ……ハァッ……!」
フリアノンは身体の奥から力を絞り出し、コーナーを駆け抜けた。
冬の冷たい空気が、その白い髪を大きく揺らす。
「よっしゃ、そのまま伸ばしていけー!」
ミオの声が追い風のように背中を押した。
(わたしは……強くならなきゃ……)
走り終えたフリアノンは、肩で息をしながら調教スタンドを見上げた。
そこには、いつものように鋭い目で時計を見つめるミオと、腕を組んで黙って佇む村瀬の姿があった。
「……いい仕上がりやな」
ミオが満足げに呟く。
村瀬も小さく頷いた。
「問題ない。体調も、気持ちも乗ってきている。あとは……」
「せやな、あとは……ノンちゃん自身が、恐怖を乗り越えられるかや」
ミオの言葉に、フリアノンは小さく目を伏せた。
その表情には、決意と恐怖がない交ぜになった複雑な色が浮かんでいた。
「……わたし……走ります……」
小さな声だったが、その声音にはかすかな震えと同時に、芯の強さがあった。
村瀬はふっと微笑む。
「そうだ。お前は走るためにここにいるんだ。走れ、フリアノン。走って、お前自身を超えてみせろ」
冷たい冬の空気が、フリアノンの肺を満たした。
その瞳には、恐怖と決意が同時に宿っていた。
――わたしは、走る。
恐怖を超えて、過去を超えて、わたし自身を超えるために。




