第百三話「クイーンズカップ本戦」
冬の木星圏、ジュピター競技場は冷たく張りつめた空気に包まれていた。
女子限定D1長距離戦――クイーンズカップ。
パドックには、歴代の名牝たちの名を刻む優勝プレートが並ぶ。その前を歩きながら、クロエは目を細めた。
(あの頂点に、わたしも……)
ヴェルナーがクロエの横を歩きながら口を開く。
「気負うな、クロエ。今日は君が勝つ日だ」
「……はい」
スターティングゲートに収まると、フリアノンの白い姿が視界の端に映った。
最後尾に位置取り、静かに目を閉じるフリアノン。その横にミオの声が響いた。
「ノンちゃん、いつも通りでええ。後ろから、冷静に流れを見て。直線で仕掛けるんやで」
「……はい……ミオさん……」
レースが始まった。
ゲートが開くと、サイドールたちは一斉に走り出した。
クロエは中団に位置取り、フリアノンを常に視界の端で捉えていた。
「ヴェルナー、今日はいつ仕掛けるの?」
「フリアノンが動いたときだ。それまで待て」
ヴェルナーの声は落ち着いていた。
一方、後方でじっと脚を溜めるフリアノンの耳にはミオの声が届く。
「ノンちゃん、まだや。まだ仕掛けたらあかんで……」
冷たい木星圏の風がフリアノンの髪を揺らす。
最終コーナーに差しかかる頃、先行勢の一角、クエロが抜け出した。
「クエロが行ったか……ノンちゃん、いくで!」
「……はいっ!」
フリアノンが加速を始める。それを見たヴェルナーは、すかさずクロエに指示を出した。
「今だ、クロエ! フリアノンに合わせろ!」
「了解っ!」
クロエもスパートを掛ける。二機のサイドールがほぼ同時に加速し、ゴール前の長い直線を駆け抜けていく。
「フリアノン、クエロとの差を詰めるんや!」
ミオの声が震える。
(クエロ……強い……去年よりも……全然……!)
必死に脚を伸ばすフリアノン。しかし差はなかなか縮まらない。
焦りが胸を突き上げる。
(届く……? 届かない……?)
そのときだった。
「……ッ……あ……」
クロエが小さく呻いた。頭が割れるように痛い。視界が白く霞む。
脚に力が入らない。身体が痺れる。
「クロエッ!? どうした!」
ヴェルナーの声が響くが、クロエは答えられなかった。
脚がもつれ、速度が落ちる。
一方、フリアノンは必死に脚を回し続けた。
「あと……少し……!」
ようやくクエロの背中が目の前に迫る。フリアノンは一気に差し切り、そのままゴール板を駆け抜けた。
一着――フリアノン。
二着――クロエ。
ゴール後、ミオは歓喜の声を上げた。
「ノンちゃん! やったで! 二連覇や!!」
しかし、フリアノンは喜びの中にいなかった。
振り返った先に、立ち上がれずにいるクロエの姿があった。
担架に乗せられ、トラックから運ばれるクロエ。
ヴェルナーが真っ青な顔で付き添っている。
(クロエ……どうして……?)
数時間後、控室に戻ったフリアノンとミオの元に、ヴェルナーから連絡が入った。
「クロエは……もう、走れない。頭部血管の損傷で……予後不良と診断された。今、安楽死の処置がとられた」
ミオは絶句し、フリアノンは全身の力が抜けて崩れ落ちそうになった。
「……クロエ……」
震える声が部屋に響いた。
勝利の喜びよりも、深い悲しみが胸を支配していた。
あれほど憎らしく、追い続けた存在が、もういない。
(クロエ……あなたは……わたしの……)
涙は流れなかった。ただ、胸の奥が冷たく痛んだ。




