第8話 令和7年秋巡業
優勝から1週間もするとコシは稽古を再開させた。先代の元横綱時天山から言われた四股・摺り足・鉄砲をひたすら行い、土俵でとる番数は幕下の力士と10番程度。稽古で怪我をしない体を作るのがキーポイントであった。
10月に入ると直ぐに秋巡業が始まった。巡業は力士にとっての旅行ではない。この間もコシは四股・摺り足・鉄砲をこなし肉体を維持する。秋巡業が終わると番付発表まで、本格的な出稽古が始まる。越乃海のいる時津川部屋には連日の様に関取衆がが訪れて、打倒越乃海を狙う三役陣が詰めかけた。中でも注目すべきは、引退も囁かれ令和7年九州場所に進退をかける横綱貴乃富士が時津川部屋に現れた事である。横綱の胸を借りたコシはまだまだ自分の弱さを改めて気付かされた。それと共に横綱の膝の具合はあまり良くない。万全ではないと感じた。それでも一人横綱として長く角界のトップとして牽引して来た第一人者の気迫は怪我を何とも思わせない強さがあった。
「おい。越乃海!」
急に横綱に呼ばれたので、鳩が豆鉄砲を食らったかの様に「はいっ!」と思わず返事をすると、横綱は親切に寄つになってしまった時の攻略法を伝授されて、稽古場で試してみた。コシは立ち合いの圧力と突き押しで勝負する力士だと思われていた節があるが、横綱のアドバイスのお陰で右寄つでも左寄つでも組み止めて戦う事が出来れば更にパワーアップして上を目指せる様になった。九州場所は恐らく関脇で臨む事になるだろう。全勝優勝でもすれば、一気に大関と3連覇を手にするかもしれないが、そう上手くは行かないだろう。令和8年初場所に繋がるように先ずは2桁を狙うのがこの地位での仕事である。
この壁をクリア出来ずに引退して行った力士の何と多い事であるか。直近3場所で33勝(目安)が大関の目安とされている。だが、これはあくまで目安だ。上位(関脇)で力を残している力士なら、その目安に届かなくても昇進に至るケースはある。コシは2場所連続優勝している為、もし仮に3連覇を成し遂げれば17歳5ヶ月の史上最年少大関の誕生となる可能性が高い。少なくとも昇進のムードは高まるであろう。まぁ、そんな星勘定よりも、目指す3場所連続優勝に向けて毎日四股500回・摺り足250回・鉄砲100回をこなし、幕下以下の力士と20~30番とる日もあった。兄弟子の勝大や他の関取衆と相撲を取らないのは怪我を避けるためとも言われたが、番付発表が行われると、関取衆との猛稽古を再開した。
令和7年九州場所は東の関脇で臨む事になった。まずは勝ち越し。それからの上積みがどこまで出来るかが大切であった。只、世間はコシの連続優勝よりも、横綱貴乃富士の進退を気にしていた。もし仮に横綱引退となれば、横綱不在となってしまうからだ。久しぶりに誕生した日本人横綱である貴乃富士を出場するなら復活優勝して欲しい。それが大相撲ファンの願いだったのであった。もちろん、コシの様な新星の台頭は喜ばしい。とは言え越乃海にとっては越えなければならない壁である事に変わりは無かった。