第59話 令和12年九州場所①
横綱29場所目の越乃海は、相変わらず部屋での稽古に勤しんだ。豊山や時天山が居れば稽古相手に不足はない。時々出稽古や時津川一門の連合稽古で他部屋所属の力士と稽古する時もあったが、120%の力で研究させる暇を与えず稽古場でも圧倒していた。結婚してからも稽古量は衰えず、寧ろ増えた位である。そんな横綱越乃海に死角は無かった。
「ゆいP?本当に良いの?」
「何が?」
「こんなむさ苦しい相撲部屋での同棲生活なんて?」
「将来的におかみさんになるなら、今のうちから慣れておかないとね?」
「ゆいPがその気ならそれで良いんだけどさ。万が一って事もあるだろ?」
「言って無かったけど私、合気道と空手三段だから。柔道は黒帯だし。万が一も何も反撃能力抜群なんだから。」
「スゲェ心配。」
「もちろんそんな力士は時津川部屋にはいないと思うわ。」
「まぁ、確かに横綱の妻だからな。どんなしっぺ返しが来るかは、誰でも分かるよな?」
「それより1年納めの九州場所、準備は良いの?」
「その点に関してはさしたる問題は無い。世間の皆さんにコシひよったな?なんて思われたくないからな。」
と、その言葉通りコシは場所入りしてからも不安無く白星を重ねていた。当たり前の様に中日給金直し。順調に後半戦に入っていた。アクシデントがあったのは部屋のもう一人の横綱豊山であった。6日目の取組後に足を負傷した。詳しい検査の結果、軽い捻挫と言う事であったが、痛みが引かない為大事をとって途中休場する事になった。
「ゆたか、大丈夫か?」
「コシ関心配入りませんよ。この位の怪我すぐ治してみせますよ!」
「まぁ、強がるな。本当は靭帯までいってんだろ?」
「ど、どうしてそれを??」
「何年相撲取りやって来たと思ってる?」
「でも、医者も唯の軽い捻挫だって…。」
「表向きはそう言うだろうな。でもこの俺の目は騙せない。しっかり休め。癖になるからな捻挫は。でもそうなってしまったのはゆたかの稽古不足が招いた事なんだぞ?」
「そりゃあ自分だって最善は尽くしてますよ。」
「そうか?怪我をすると言う事はどこかで稽古不足が絡んでるんだぞ?」
「コシ、もうその辺にしてやれ。」
「時津川親方!?」
「鉄人のお前と並の横綱を比べるのは少し無理がある。」
「それは違いますよ。確かに自分は誰よりも稽古をしていると言う自負はあります。しかし、それは角界を背負う横綱と言う地位にある者の努めです。前半戦は格下相手の相撲。そこで怪我を負うなんざ稽古が足りていない証拠です。」
「まぁ、負ってしまったものはしょうが無い。コシだっていつかは怪我をしないとは言い切れないぞ?」
「弁解する気はありませんが、あの怪我があったからこそ、ここまでやって来れたんですよ。」
「ならば下手な言葉の暴力を浴びせるな。ゆたかもこの怪我をワンステップにして、上を見る稽古をしろ!いいな?これでこの話は終わり!」
「親方…。」
「コシ関ありがとうございます。しっかり治して、コシ関に勝てるレベルまで強くなります!」
「おぅ。その意気だ。」
アスリートの怪我と言うものは大抵が稽古(練習)不足によるものだ。まぁ、不運な怪我と言うものはあるが、怪我をすると言う事は弱い自分が出ているに他ならない。と、コシは言うのだが、確かに本当の強者ならば怪我をしないと言う道理も通るのである。