或る愛と自由の結末
西瓜を食べながら、何となく思いついて書いた短編。
法律や社会システムは、架空のこの話の世界のこの国のものです。
アメリア・スペードは眼の前に差し出された書類の目的に、衝撃のあまり瞠目したまま動作を止めてしまった。
アメリアは今年21歳になる高名な魔道具開発者であり、実業家でもある。
世間的には少々薹が立っていると見られるが、業界内では最年少の若手であり、しかも実家は貴族家で本人は評判の美人だ。
彼女の眼前に書類を突き付けたのは、彼女の婚約者であるライナス・キーレン。
アメリアの4歳年上の彼は、やはり貴族家の出で、婚約は十年前に両家の父親の間で結ばれていた。
父親同士の都合で結ばれた婚約ではあるが、アメリアとライナスの関係は非常に良く、相思相愛の熱愛関係と言っても過言では無いほどだった筈。
好奇心と知識欲が強く活動的なアメリアと、物静かで穏やかなライナスの相性は、初対面から意外なほどに良かった。
頑固で自分の感情に素直で気が強いアメリアは、友人になれる人間とは親友にまでなれるが、それは極々僅かな人数で、彼女の評価はその才能と美貌と家柄に集約されるのが常である。
要は、魔道具開発者や実業家としては魅力溢れる人物だが、単なる人間としては、あまり他人から好かれる性格や言動はしていない。
尤も、18歳で学園を卒業し、「大人」として周囲に見做されるようになってからは、性格も言動も変えていないのに、異性からは随分と好かれるようにはなっていたが。
「ライナス、これはどういうこと?」
強張る表情、震える声で詰問するアメリアに、ライナスは普段通りの穏やかな顔と口調で答える。
「見たままだよ。私達の婚約解消の為の書類だ」
ライナスの瞳は凪いでいる。
そこに、迷いも苦悩も激情も無い。
実際は、そんなものは既に通り過ぎているだけなのだが。
けれど、それにアメリアは思い至れない。
だからこその、ライナスから行動しての婚約解消なのだ。
「どうして・・・私達上手くいっていたじゃない。何も問題無く。仲だって他所の婚約者達よりずっと睦まじかったわ。一体何が不満だと言うの!?」
強い口調で責めるアメリアに、ライナスは困ったように眉を下げるが、その瞳は凪いだままだ。
かつては在った、アメリアに向けられていた熱も慈しみも、鎮火したように失われている。
それでも何かしらの感情を探して見詰めれば、微かに漂っているのは哀れみと呼ぶものだろう。
ショックで口を噤むアメリアに、ライナスは溜め息を吐く。
続く説明は淡々としたものだった。
「こうなるまでに、私は何度も君へ願った筈だ。話し合いも求めたし、擦り合せを行おうともした。歩み寄る努力もしたし、耐えることも。どれも方策や視点を変えながら、専門家へも相談して様々なやり方で試みて来た。けれど、君はいつでも、どこまでも、変わらぬ君だった。このまま夫婦となっても双方の利益は見込めない。だから互いの父親に報告と相談をしていた」
「なっ! 父親にですって⁉️ 何か不満があるなら、どうして私に直接言う前に父親に話を持って行くの⁉️」
「だから、君にも直接何度も願った筈だと言っているだろう。君は常に聞き流し、真に受けずにいたけれど、まさか、私の言葉は全て、冗談か口説き文句の一種だとでも思っていたのかい?」
激昂していたアメリアはライナスの切り返しに口籠る。
図星を指されたからだ。
思い返せば、確かにライナスは何度も言っていた。
学園を卒業したアメリアが、大人の男性達から好意的に親しげに迎え入れられ、交友関係を広げた頃からずっと、何度も。
男性と二人きりになる状況を作らないでくれと。
けれど、アメリアはそれを重く受け留めることは無かった。
だって、仕事上の機密を話し合う場に第三者の耳目は不要だし排除すべきと思ったし、自分には下心も疚しい気持ちも無いのだし、別に密室で二人きりになっても猥褻行為に及ぶ訳でも無く、せいぜいが偶然に手が触れたり、狭い馬車の中だったら、馬車が揺れたら身体が接触したり抱きとめられたりするくらいだった。
ライナスが凄くアメリアを好きなことは知っていたし、アメリアだってライナスが好きなのだ。
裏切る気は毛頭無かったし、確かに男性達はアメリアを口説いたけれど、アメリアは彼らを受け入れていない。
だから、責められる謂れなど無いのだ。
思い返しながら、結局「自分は悪くないじゃない」という結論に落ち着いたアメリアは、はたと思う。
アメリアを好き過ぎるライナスが、いつものヤキモチで婚約解消の書類なんか用意して気を引こうとしているんじゃない?
そう、思い至って、アメリアは呆れたように嘆息した。
「ちょっとライナス。ヤキモチでこんな書類を用意するだなんて、やり過ぎよ? 確かに私を好きな貴方を不安にさせたかもしれないわ。そこは謝る。でもね? 私には何一つ瑕疵は無いの。疚しいことなんてしてないもの。だから、貴方にも反省して欲しいわ。口説くなら、もっとストレートに私の喜ぶ言葉か贈り物をちょうだい?」
アメリアの嘆息と言葉へのライナスの返答は、心の底から呆れたような、深く重い溜め息だった。
「本当に、君は変われないね。この書類を出しても君が変われないなら、君のサインは必要無い。双方の父親のサインのみで、私達の婚約が君の有責で破棄されるよう手続きすると、君の御父上から言われている。だから、もう私にはこの場に用は無い。さようならスペード嬢」
冷たい失望の視線を向けながら、それでも品のある所作で綺麗に立ち上がったライナスが、何を言われたのか理解が追いつかないアメリアを気に掛ける事無く退室しようとする。
「ちょ、ちょっと待って! どういうことなのライナス! 貴方、私のことが物凄く好きでしょ⁉️ 本気なの⁉️ 絶対後悔するわよ! 嘘でしょ? 冗談なのよね⁉️ 悪い冗談はよして!」
扉を開ける前にソファから飛び出すように立ち上がってライナスに縋り付き、叫ぶアメリア。
だが、そっと縋り付かれた腕を外すライナスの言葉はにべもない。
「本気だし冗談でもない。それから、君のことは物凄く好きだった。過去形だ。勘違いしないでくれ」
「ライナス・・・貴方、浮気してるの? 貴方が私を好きじゃなくなるなんて有り得ないじゃない。浮気なのね。私のことを散々責めたけど、私が男性達と仕事の為に二人きりになることが多いのを利用して、私に瑕疵があるように冤罪をかけて私有責で婚約破棄だなんて、浮気した貴方が許されると思ってるの⁉️」
必死になって捲し立てるアメリアを見下ろすライナスの目が、見たことも無いくらい冷えていくのが感じられ、アメリアは思わず一歩退いた。
「いい加減にしてくれ。君じゃあるまいし。私は相対した本人からも第三者からも誤解を受けるような状況を作ったことは無い。当然、私には醜聞も無い。
君は実業家でもあるんだろう? もう少し振る舞いや自身に関する世間の情報に気を遣った方が良い。これが十年間婚約者だった情で最後に贈る『忠告』という名のプレゼントだ。これで君への情もすっかり消失した。では失礼」
呆然と佇むアメリアへ、もう一瞥もくれずライナスは出て行く。
アメリアは暫く頭が真っ白になって何も考えられなかった。
だが、ハッとする。
父親が婚約破棄の書類を提出してしまう前に、止めなくてはならない。
そう、考えた。
だって、何か誤解があるようだけど、アメリアはライナスが今だって大好きなのだから。
しかし、急ぎ実家へ戻って父親との面会に漕ぎ着けたアメリアを待っていたのは、父からの失望の眼差しと、覆る可能性の無い現実だった。
「お前の才能は、確かに天才と呼んで差し支え無いものだろう。だからと言って、好きにさせ過ぎたことを後悔している。ライナス君には本当に申し訳無いことをしたし、キーレン家にも顔向け出来ない」
婚約破棄の書類は、既に提出され、何故か国王陛下にまで既に正式に認められていた。
という事は、この話は大分前から、この結果になるように用意されていたのだ。
アメリアは、人としては問題が多いかもしれないが、魔道具開発者や実業家としての才覚は高い評価を得ている。
法手続に関する知識も当然、豊富だ。
だから、現状から、これまでの動きの予想がついた。
アメリアとライナスの婚約破棄について、正式な手続きは既に整っていて、陛下からの仮認定まで得られていたのだ。
婚約の解消や破棄に於いて、事前申請からの陛下の仮認定までが許されるのは、特殊な事情がある場合のみ。
第一に、双方が貴族または国家の有力者に連なる者であること。
第二に、婚約の解消や破棄が拗れて長引くことが国家の損失になると認められること。
第三に、客観的または公的視点で見た際に「婚約の解消または破棄も已む無し」とされる事情が明白であること。
この三つ、全ての条件を満たす場合に限り、事前に提出した報告書に基づいた調査と審査が行われ、事前申請が認められると、更に国王陛下直属の調査部からの調査と審査が入り、それに通過すれば陛下からの仮認定が降りる。
仮認定された内容を正式な届け出とするには、担当者へ連絡を一報入れるだけで良い。
ライナスの話から想像するに、恐らく、彼が差し出した婚約解消の書類へのアメリアの対応が決定打となり、直ぐ様担当者へ連絡が送られたのだろう。
あの時、あの部屋にはアメリアとライナスの他に数人の使用人が居り、途中で退室した侍従が一人居た気がする。
使用人の出入りなど、普段から一々気に掛けることなど無いのだから、警戒もしていなかった。
やられた、とは思うが、それでもアメリアは自分が悪いとは思えなかった。
そんな娘を、父は憐れみの視線で見る。
「お前は、勉強は出来る。頭の出来は、きっと私やお前の兄よりも良いだろう。特に、魔道具開発者としての才能は他の追随を許さず、他国まで名が轟くほどだ。それらを売る実業家としての成功も、誰もが認めるものだ。
だがな、だからと言って、お前が常に正しく間違わないということは無いのだ。だから、他者の話に耳を傾けることも時には必要だった。
そして、人の心を思い遣ることを軽んじてはならなかったのだ」
「・・・お父様が何を言っているのか理解出来ませんわ。私はライナスが好きなのです。ライナスも私を愛しています・・・いました。彼の話を無視したことなどありません。彼を大切思っていたのだから、思い遣ることを軽んじたことなどありません」
不満げに反論するアメリアへ、父親は幼子に諭すように言い聞かせる。
「真剣な話を真面目に受け止めないのは、話だけを聞いていても無視しているのと同じなんだよ。
それに、いくらお前がライナス君を大切に思っていたと言ったところで、行動が伴っていないのだから誰からも信じられない」
「そんな! 私のどこがっ!」
「お前は、学園を卒業後、周囲に集まり始めた複数の年上の男性達と、ライナス君がいくら諌めても願っても、頻回に密室で二人きりになったね。どうしてだい?」
「そんなのっ! 仕事の話だからに決まってますわ! 私に何の疚しいこともありません! 仕事上の機密だってあるのですから無関係な人間を排して会談するのは当然のことでしょう⁉️」
「・・・アメリア。よく考えてごらん。私やお前の兄が、仕事の話だからと、身内や妻以外の女性と二人きりで密室に籠もったことがあったのか」
父から低く問い掛けられて記憶を辿るが、アメリアの知る限り、父も兄も女性と二人きりになる状況を避けていた。
身分と資産があり美形でもある父と兄は、二人とも妻子ある今でも尚、社交界で女性人気の高い紳士である。誘惑は多い。
この国では女性も職位や爵位を持つことに障害が無く、事業を興すことも自由なのだから、父や兄の仕事相手には当然女性も居る。
だが、例え外部に漏らせない話をする場合でも、決して密室に二人きりにはならないようにしていた。
それをアメリアは思い出す。
父も兄も、機密を漏らさない誓約を課した専属の侍従か執事を必ず伴っていた。
もしくは、結局は後から情報を共有することになる補佐官や秘書が同席した。
相手側にも、秘書や侍従や侍女を伴うことを求めていた。
それは貴族家の当主や次期当主として当然の常識である。
「でも、私は当主でも次期当主でもなく、ライナスは私を理解してくれていましたわ」
「理解、ね」
アメリアの父は苦く呟く。
彼は知っている。
ライナスは、確かにアメリアの好奇心と知識欲が強く活動的な部分に惹かれていた。
だから、アメリアが学生の内は、好奇心や知識欲のままに暴走し、時に危険な目に遭うことがあっても、その暴走によって得られる成果をアメリアが満面の笑みで喜ぶからと、彼は心配しつつも、ずっとアメリアを支えてフォローし続けた。
成果を上げて評価されるアメリアが、暴走の過程で生んだ軋轢や被害を収めていたのは、アメリアの保護者である父や兄ではない。婚約者であるライナスだ。
表で成果だけを掲げて「流石天才」と評価されるアメリアの影で、「天才の下僕」と口さがない者達に陰口を叩かれようと、彼女が高い評価を得て光当たる場所にいられるように、尻拭いをしていたライナス。
それでも、当時のライナスには本当に不満は無かったのだ。
アメリアへの愛ゆえに。
当時のアメリアは、いくら好奇心や知識欲から暴走しても、彼女の情熱の向く先は「人間」でも、ましてや「異性」ではなかったから。
だが、学生時代は頭の良過ぎる変人扱いで周囲の男子学生から女の子としては嫌厭されていたアメリアは、卒業して仕事を持つ男性達に囲まれると「女性」としての立場が一変する。
若くて美人で貴族。
親も資産家の貴族で、本人も稼ぐ能力がある。
野心ある大人の男性達にとって、アメリアは、パートナーに出来れば栄達が楽になる「極上の獲物」だったのだ。
お勉強に関しては頭の出来が良く、魔道具開発者としては天才なアメリアだが、彼女の好奇心も知識欲も色恋に関しては丸っ切り向かわなかった。
何故なら、アメリアにはライナスが居たのだから。
アメリアは、色恋に関してライナス以外を必要としなかったから、自分がそういう対象になることを、頭の中から綺麗さっぱり排除していた。
だから、アメリア自身の自覚では「自分には疚しいところは無い」なのだ。
そうなのだろうと、父親は理解していたし、ライナスもそれは理解していた。
だが、年齢や立場的に自覚は必要だったし、理解しているからと言って、我慢には限界がある。
ライナスだって心を持つ人間なのだ。
彼は、様々な人間と接したことのあるアメリアの父親から見ても、非常に、物凄く、忍耐強くて理性的な人物だった。
アメリアの父も兄も、「自分ならとっくに怒鳴りつけてブチ切れて婚約破棄を突き付けている」と思うような状況も、どうにかアメリアの自覚を促して改善出来ないかと、思慮深く試行錯誤して努力していたのを、彼らは見て来たし知っている。
だから、未だに自覚も出来ず、反省さえしていない娘を憐れと思えど、アメリア有責でのライナスとの婚約破棄を覆すことも、ライナスとの仲を取り持つことも、決してしない。
「お前は何度もライナス君から、異性と二人きりになる状況を作らないように言われていただろう? 時には願い、時には説くように、時には厳しく注意するように。
けれど、お前は真面目に受け止めなかった。
どうにかお前の心まで言葉を届けようと、彼は専門家のカウンセリングまで受けて腐心していたよ」
「その専門家がライナスの浮気相手ですか」
「アメリア! 彼を侮辱することは私が許さない。黙って聞いて、私の質問にのみ答えなさい」
父親に怒鳴られたことなど無かった。
アメリアが信じられない顔で凝視しているが、父は取り合わず、厳しい態度のまま話を続けた。
もう、幼子に諭す口調も終わりだ。冷厳とした貴族家当主の態度と口調は、アメリアを上から見下ろし押さえつけるものとなった。
「私に相談してから二年もの間、彼はお前を諦めずに対話を試み、それ以前と変わらず影からお前を支え、お前のフォローと尻拭いも続けてくれていた。
彼の言葉を聞き流し、一切行動を改めないお前と対話を試みる中で、彼は例え話をしたことがあっただろう。もしも、ライナス君がお前と同じように、仕事だからと女性と密室で二人きりになる状況を繰り返していたら、お前はどういう気持になるか、と。
その時の自分の返答を覚えているか?」
暫し記憶を探り、朧げながらアメリアは答える。
「多分、私はライナスを信じている、とか。そんな感じだったと思います」
「なるほど。お前の記憶は随分とお前に都合が良いことになっている。だから反省も無く、変わることも出来なかったのだな。理解したよ。
当時のお前の返答は、こうだ。
『いやだ。私のことを大好きなライナスがそんなことをする訳無いじゃない。貴方は私が嫌がることなんかしないもの。貴方がそんな非常識で巫山戯た真似をしないって信じてるわよ。可愛い人』
報告書を読んだ私の情けなさが、お前に分かるか?
分からないだろうな。お前の世界はお前に都合の良い理屈でコーティングされ、記憶さえ改竄されるようだからな。
自分の言った言葉が、どのような意味を持って聞こえるか考えろ。言っておくが、恋人同士の睦言に額面通りの正しい意味を持ち込むな、などと言う戯言は受け付けない。
問うたライナス君は睦言でも冗談でもなく、真面目に訊いていたのだからな」
当に、そう父に反論しようとしていたアメリアは、開きかけた口を閉じた。
それを冷ややかに見下ろして父は続ける。
「お前がライナス君に放った言葉の意味は、彼の心を折るに十分な酷いものだ。
いくら婚約者から懇願されても一顧だにせず、仕事を口実に異性と二人きりの状況を作ることを止めないお前の口から出た言葉なのだから」
反論したい。アメリアにだって言い分はある。
本心からライナスを信じていたし、揺るがない愛情を確信していたから、単なるヤキモチからの睦言だと受け取ったのだ。
言わば、信頼から来る甘えであり、アメリアが甘えられるのはライナスだけだった。
甘えるのはアメリアの最大の愛情表現なのだ。
誰と密室で二人きりになろうと、口説かれようと、アメリアの心はライナスにあるのだから、何も問題は無いと考えていたし、ライナスもアメリアを信じているものだと思っていた。
信じてくれていなかったライナスに、アメリアの方が裏切られた気分さえある。
けれど、父から言われたように、何度婚約者に止めてくれと言われても異性と二人きりになっていたアメリアが、「私のことを大好きなライナスが同じ事をする訳が無い」と言ったら、それはまるで、「アメリアはライナスを大好きではない」みたいだし、それ以降の言葉は、「異性と二人きりになる状況」が、「婚約者にとって嫌なこと」であり、「非常識で巫山戯た真似」であると知った上で行っていた証拠にもなってしまう。
それは理解した。
だが、それでも言いたい。
「そんなつもりじゃなかったのに・・・」
悔しくて、苦しくて、零した言葉は父の冷笑に続きを封じられた。
「そんなつもりじゃない。たちの悪い加害者の常套句だな。まるで自分の方が被害者のような顔をして言い募るところまで、皆が同一だ」
ずっと、才能を褒められたことしか無かった父親から向けられる、失望の先の凍りつくような嫌悪に、アメリアは固まる。
「ライナス君の話を真面目に聞くように、注意や忠告は感謝して受け取るように、私もこれまで何度もお前に言ってきた筈だ。
その顔を見るに、どうやら私の言葉もライナス君の言葉同様、聞き流されていたようだがな。
それに、自身の噂を、耳心地の良い賛美だけでなく収集し、しっかり対策するようにも言った筈だ。もう子供ではないのだからとね」
自身の噂・・・そう言えば、ライナスも何やら言っていた気がする。
アメリアは、ぼんやりと思う。
酷い侮辱をされて、それから醜聞がどうとか。
経済新聞や学術研究誌とは次元の違う下品な大衆紙や、悪口ばかりに精を出して頭が空っぽな婦人や令嬢達の戯言など、気にする必要も無い雑音だと考えて来たが、まさか父は、そんなくだらない話の対応に貴重な時間を割けと言うのだろうか。
自然、眉の寄ったアメリアを、観察するように眺めていた父親の視線の温度が益々下がる。
「お前の評判は、女性として最悪で、貴族女性としては既に死んだも同然だ」
「は?」
アメリアの頭を過るのは、「天才」や「寵児」を筆頭に美辞麗句が踊る、経済新聞や学術研究誌の記事の記憶だけであり、耳が覚えているのは、周囲の男性達の敬愛に満ちた称賛だ。
どれも、女性としても貴族女性としても、プラスにしかならない内容だった。
父は、突然何を言い出したのだろう。
不思議な気持ちで首を傾げれば、父親の口から、とんでもなく下劣な文言が飛び出した。
「自分に気のある男を手当たり次第食い散らかす色狂い。男と目が合えば馬車に引きずり込む子種強請り。英雄色を好むの女版。十年来の婚約者と結婚しないのは、既に誰の子を孕んでいるか分からないから。誘いかければ誰にでも股を開く阿婆擦れ。金と才能をチラつかせて他人の男を寝取るのが趣味。あの才能は男を咥え込むことで維持されている。天賦の才の代償は貞節を持ち合わせないこと。もう何人の赤子を堕胎したか分からない」
見えないリストを読み上げるように、巷における娘の評価を諳んじた父親は、驚愕に目と口を全開にした娘に首を傾げ、「ああ、理解していないのか」と右の掌を左の拳でポンと叩き、「全て、この王都のみならず国中で言われている、お前の評判だ」と、事実を突き付けた。
「ライナス君は実に寛容だ。彼は継ぐ家のある嫡男だから、お前は彼と結婚したら当主夫人として社交に出なければならなくなるだろう?
こんな評判の女が貴族の社交界に受け入れられる訳が無い。だから、一時期は爵位を弟か従兄弟に継がせる方向でご両親とも相談していたんだ。全て、お前が自由に生きられるように。
だが、この最後の評判だけは、お前が払拭する努力もせずに保持し続けることを、絶対に彼は受け入れられなかった。
彼の職業と彼の家の主産業は、流石に覚えているだろう?
ああ、答えなくていい。これさえ不正解だったら、私は親としての情けなさで憤死してしまいそうだからね。
彼は優秀な薬師であり、彼の家の主産業は製薬と薬の流通及び販売だ。陛下からも御墨付を賜っている家だ。
天才と呼ばれるお前の影に隠れていたが、ライナス君だって一般的に見て相当に優秀な人間だ。
我が国の第二王女殿下の嫁ぎ先の国で、幾度も国難を齎した風土病の特効薬を開発したくらいだからな。その功績により、彼が家督を継いだ際には陞爵される予定だ。
さて、陛下の御墨付を賜る家の嫡男であり、そんな優秀で名誉ある経歴のライナス君に、『数え切れないほど堕胎している』という噂の婚約者が居る。
堕胎のダークなイメージと薬は結び付きやすい。
国益を損なうという条件が満たされた理由は、其処だ。
決して、お前が『天才』だからではない」
「そんな・・・」
「ここで『そんな』などという言葉が出ると言う事は、国にとって重要なのはライナス君ではなく自分の方だと考えていたのだろうな。彼が申し出た婚約破棄に対し、公の裁判を行い長く人々の話題に上れば『天才魔道具開発者にして実業家のアメリア・スペード』の名に傷が付き、それが国家の損失であると」
悔しそうに俯く娘の態度が、肯定を表している。
父はその様を、鼻を鳴らして睥睨する。
「お前の名など、とうに傷にまみれている。お前に貴族としての価値は、無いどころかマイナスだ。魔道具開発者という研究者や職人としての価値は認められているが、その振る舞いは国から警戒されている。
お前は仕事の話だと言えば、身元が明らかでない者とでも簡単に密室に籠もるような人間なのだから当然だ。
いつ、他国の間諜や裏社会と繋がる者と密会し、関係を深めるか分かったものではないからな。
私もお前の兄も、身元の明るく無い人間と個人的に会うことの危険を、お前が子供の頃から繰り返し説いて来たつもりだが、それらも聞き流していたのだろうな。
お前は確かに、魔道具開発者としては国益を齎して来た。実業家として納税額も高い。
それらの功績と、国家にとって信頼に足る経歴と人品を持つライナス君が婚約者として手綱を握っていることで、お前は国から首輪を付けられる事無く自由にしていられたのだ」
「え・・・?」
「お前は学園卒業後すぐ、周囲に集まる男達と平気で密室に籠もるようになった。
ライナス君からの相談は卒業から一年後だが、私は卒業の二月後にはお前の素行を知って諌めたぞ。その時お前は笑いながら、『そんなんじゃない。仕事よ。ライナスは気にしてないわ』と言っていたな。
因みに、宰相閣下から『娘の素行』を遠回しに注意されたのは、卒業半年後だ。
宰相閣下から言われたと言う事は、陛下も把握なされているだろう。華々しく『天才』と持て囃されていたお前は、有名人だからな。その素行が注目されるのは、自覚して然るべきだ」
何だか話が大事になっている。
不穏な言葉も聞こえた。
言いようのない不安と嫌な予感に顔を上げると、父親が温度の無い眼差しで見ていた。
この部屋に入って来た時には未だあった、親子の情や憐れみさえ、その眼差しからは欠片も窺えない。
どこだ。どこから。何を間違えた。
決定的なのは、ライナスの浮気を疑う発言をした時だ。
その後からは、もう口を開く度に父からの評価が下がって行くように感じた。
けれど、それでも何がそこまで父を怒らせているのかが、アメリアには理解出来ない。
ライナスの言葉や父の言葉を聞き流し、真摯に受け止めなかったことは、あったかもしれない。
ライナスに対しては、信頼からの甘え、つまり最大の愛情表現であったのだけれど、それが間の悪いすれ違いを引き起こしてしまった。
父の話を聞き流したのだとすれば、きっと、その時は、何か新しい魔道具の案や開発計画や計算などの大切なことで頭がいっぱいだったのだろう。
やっぱり、そこまで酷く怒られるほど悪いことだとは思えない。
価値観の相違だろうか。
アメリアの思考など関係なく、父からの断罪のような通告は続く。
「ライナス君から相談があった二年前の時点で、国からは穏便な婚約解消が提案されていた」
「っ⁉️」
思考も絶たれる衝撃的な新情報に、アメリアの声無き叫びが洩れる。
「当時は巷に流れるお前の悪評も『阿婆擦れ』程度のものだった。具体性も無い悪童の悪口とも言えるレベルの内は、お前の名声を妬んでの流言だと噂の上書きも可能だった。尤も、お前が素行を改めることが絶対条件だったがな。
それでも、その時点で国から婚約解消を提案されていた理由が分かるか?
宰相閣下が、お前には更生の見込みが無いと判断されたからだ。半年間、追加調査も参考に熟考されての判断だ。私には何も言えなかったよ。
だが、お前を愛していたライナス君は、食い下がった。
お前の才能と功績、若さを理由に、猶予を賜りたいとな。
ライナス君の必死さに、陛下は条件付きで猶予を下さったのだ。
その条件は、ライナス君や私達お前の家族が、お前に事情を説明することを禁じるものだ。その条件下で、お前の行動が改められること。
期限は、ライナス君がお前を諦める、または国として看過出来ない瑕疵をお前が負うまでだった。
例え話への返答で心が折れたライナス君の、お前への愛情が擦り減り、堕胎の話を含む悪評が払拭も上書きも不可能なほどに蔓延したことで期限切れとなり、婚約は破棄された。
それでも最後の温情として、ライナス君は婚約解消の書類を持って行ったのだ。
それにお前が、自ら納得してサインをするならば、お前有責での破棄とはせずに、その解消の書類を提出し、お前の経歴に付く傷を最小限にしようとしていた。
もしも、あの書類を差し出されたことでお前が目を覚まし、心を入れ替えて素行を改善するならば、婚約者だった十年間お前を甘やかした責任を取って、世間のほとぼりが冷めるまでお前を匿い、家督の相続を放棄して平民の一薬師としてお前と生涯を共にする覚悟だった。
愛情は既に無く、身内への情のようなものだったがな。
彼の覚悟に不満を持つ資格は、お前には無いぞ。
ライナス君が引き取るのでなければ、お前は危険人物として国の管理下に置かれるのだからな」
「え、じゃあ私はどうなるのですか」
「この期に及んで、心配するのはライナス君の心の傷ではなく自分の保身とは。つくづく呆れる。
まぁ良い。教えてやろう。
これらの結果から、当然、今後お前は国の管理下に置かれる。
表向きは拘束などされないが、住むのも国が用意した施設となり、護衛の名の下で常に監視が付く。
逃亡を企てたり妙な輩と密会しようとすれば、国家反逆の意思ありと見做され、表向きも拘束される。
国家保安隊が過去二年半の間で既に、お前と接触しようとした他国の間諜を八人ばかり捕まえているそうだ。
これまで接触は未然に防いでいるが、お前があまりに緩いせいで、これ以上は野放しに出来んと陛下も仰せだ。
その才能は失うには惜しいと言う事で、お前の身命の安全は保証してくれるそうだ。
国の管理、監視の下であれば、これまで通りに好きに研究も開発もして構わんと破格の条件も頂いている。
ただし、実業家としては名を消すことになる。自由勝手に人と会うことは許されないからな。
研究開発の資金は心配せずとも良い。国で予算を組んで与えてくれる。まぁ、しっかり事前に申請して認められる必要はあるがな」
「そんな! 私を国に売るのですか⁉️ お母様は何と仰っているのです⁉️」
「・・・我が家門の名で恥ずかしい悪評を濫造するお前を、売れるものなら売り飛ばしてやりたいくらいだ。そうすれば、キーレン家との婚約破棄で被った損害の補填に充てられる。
だが、売るのではなく、引き渡しだ。罪人予備軍のな。
お前、母親といつから会っていないか気付いているか?」
罪人予備軍などと酷い言い様に反駁しようとし、続けて掛けられた問いにアメリアは止まる。
母とは、いつも優しかった母とは、いつから会っていないだろう。
そう言えば、随分と姿を見ていない。
アメリア自身、充実した毎日が飛ぶように過ぎて行き、あっという間に月日が過ぎているという感覚なのだ。
母親の姿という、刺激の無い日常風景の最後がいつだったのか、簡単に思い出すことが出来ない。
「・・・アレは優しい女だ。誰に何を何度言われても変われないお前に待つ末路を思えば耐えられず、領地にて臥せっている。もう一年以上経つぞ。
ついでに教えてやるが、お前が兄と最後に顔を合わせたのも同じ頃だ。母親を領地に送り、そのまま妻子と共に世話をしているからな」
兄のことをアメリアは思い出そうとする。
学生の頃は優しかったのに、学園卒業後は何故か、顔を合わせる度に言い合いになっていたように思う。
いつも同じような小言ばかりで生産性が無いと思っていた。
ライナスときちんと話し合えなんて、いくら兄とは言え婚約者同士の関係に口を出すのは無粋だと不愉快に感じて───。
あれは、事情を知る兄の忠告だったのか。
そして、聞き届ける気の無いアメリアに怒り、喧嘩腰の言い合いが繰り返され・・・一年以上前にアメリアを見限ったのだ。
「どうしてこんな事に・・・」
「それは私の台詞だ」
思わず零した呟きに、すかさず父親が被せる。
実に苦々しい声で。
「こうして私の口から事実説明をする時間を設けたのは、私からの親として最後の情と役割だ。
お前を売り渡さず引き渡す条件で、陛下から頂戴した時間である。
だが、お前には、どんな情も無駄だったようだな。お前には、他人の心を慮る機能が、初めから備わっていなかったのかもしれん。
ライナス君の心を傷つけ苦しめ、彼の話も願いも蔑ろにしながらも、彼の愛情だけは当たり前のものとして受け取り続け、母の祈りは意味無きものとし、兄の心配を小馬鹿にして、父の言葉を理解する気も無いのだ。
得意分野の才能を伸ばせるよう、淑女教育は最低限で自由にさせたが、一般的な常識やモラルまで教育の手を抜いたという事は無かったのだがな。
どうしてお前がこうなってしまったのか、不思議だよ。
どれほど言葉と時間と愛情を尽くしても、お前にはまるで言葉が通じない。
あれほどお前を愛していた婚約者のライナス君でさえ、お前のその『自分が満足することが最優先』で一切妥協の無い生き方に、愛情が擦り切れて消失したのだ。
親の愛情だって無条件で無限ではないのだよ。
理想論は別として、人の親だって心を持つ人間だ。
お前が『子供』の内なら、私も決して諦めなかった。
だが、お前はもう『大人』だ。法的にもとっくに成人し、学生でも無く、経済的にも独立している。
血縁上は、幾つになってもお前は私の子供かもしれないが、『大人』になったお前の責任を、私が代わりに負い続けることはしない。
したくない。
お前が、『大人』になって尚、自身の責任と向き合わず、得意なことや好きなこと以外は、放置するか『他の誰かがやること』だと投げ捨てているからだ。
『大人』になったことで発生する問題への適切な対応を学ばず、『大人』だから得られる旨みだけは享受し、『子供』の振る舞いから成長することを拒み、それによって生じる不利益や危機を周囲の人間に擦り付ける。
そんな人間が、愛され続けると思うのか?
お前は、そんな人間だ。
愛されたければ、成長しろ。
学べ。
省みろ。
もう、会うことは無いだろう。迎えが来たようだ」
父の話を聞いているのかいないのか、虚ろな瞳で佇んでいたアメリアの背後で扉が開いた。
国家保安隊の制服の男女が二名ずつ、入室する。
女性二人がアメリアの両側から腕を取り、逃さぬように扉の外へ誘導した。
アメリアは虚ろな瞳のまま、逆らうこと無く従っている。
抜け落ちた表情に、双眸だけ悲痛な色を乗せて娘を見送る父の肩を、部屋に残った男の一人が労るように叩いた。
「厳しい態度を貫きながら最後まで彼女に必要な言葉を贈った、貴方の愛情も、自身の心潰えるまで彼女の心と自由を守ろうとした、ライナス卿の深い愛も、今の彼女には伝わることは無いでしょう。
ですが、いっそ、伝わらない方が良いのかもしれません。
彼女を大切に想い、愛していた人達の心を理解出来た時、それが理解出来る人間であるならば、自身の過去も存在も許せないでしょうから。自ら命を絶ちますよ。
彼女の命を守るためには、あのまま人の心を理解出来ない人間であった方が、きっと良い」
慰めのつもりなのか、トドメを刺されたのか、非道な言葉に父親の頬が引き攣り、瞳から悲痛な色が消えた。
同僚の意図は知らないが、娘を国へ引き渡した父親が罪悪感に溺れて病む事態にはならなそうだ。
肩を叩いた方ではない男が、納得したように一つ頷き、同僚に帰還を促す。
制服の男が二人、扉の向こうに消えるのを、アメリアの父親は見送り、力無く椅子に身を投げ出した。
アメリアみたいな人って案外その辺に居るよなぁ、と思いながら書きました。