第39話 『終止符』
目の前にはユリシアがいた。
「……ユリシア?」
その呼びかけと共に、彼女の顔に浮かんでいた怯えが、ほっとした表情に変わった。
瞬く間に彼女はその場に崩れるようにうずくまった。
顔を歪め、苦しげに肩を震わせている。
さらに傷を負っていた様子だった。
「ユリシア! 大丈夫ですか!?」
焦りが込み上げる。
すぐに彼女の傍に駆け寄ろうとする。
「……大丈夫です」
あからさまに大丈夫ではない。
だが、彼女がそう言うのであれば。
その言葉を信じよう。
辺りを見渡す。
光景は先ほどまでとはまるで違う。
壁も床も無残に崩れている。
あちこちにひどく殴られた形跡がある。
深い亀裂、砕けた瓦礫――まるで巨獣が暴れたかのよう。
いったい誰がこんなことを?
俺は自分の体を見下ろす。
ゴツゴツの黒い皮膚。
まだ、ガルムンの姿のままだ。
体の重さ。
力の満ち溢れた感覚。
全てがそれを告げている。
――それより、兜の男はどうなった?
どこだ?
どこかに隠れてるのか。
「だから……言ったろう」
頭上から突如として、声が降ってきた。
見上げると、やはり奴がいた。
ただ、言葉の意図が読めない。
「お前が……これをやったんだ――」
「え……?」
再び、辺りを見回す。
壁も床も、砕け散った瓦礫の山。
この破壊の跡が……俺の仕業?
つまり、暴走したってことか?
ただ幸運なことに、誰も……傷つけていないはずだ……。
ちょっと、待てよ。
ユリシアの傷……。
俺がやったのか?
いや、違うはずだ。
「お前は暴走していた……。そこの女が……お前に声を掛けるまでは……」
ユリシアのことか?
確かに、あの呼び声は彼女だった。
彼女が俺を呼び止めてくれたのか。
だから、暴走が止まった。
「そうか……ユリシアのおかげで止まったんだな」
俺は心の底からほっとした。
彼女がいなければ、もっとひどいことになっていたかもしれない。
「……良かった」
自然とその言葉が漏れた。
……だが、そんなことは今、別にどうだっていい。
問題は、目の前にいるこいつだ。
視線を再び兜の男に向ける。
こいつを生かしておくわけにはいかない。
俺に暴走が再発する前に……確実に排除する必要がある。
俺は一気に駆け出した。
瞬く間に距離を詰める。
圧倒的な巨体が大地を震わせた。
足元に伝わる衝撃が、さらなる勢いを俺に与え、前へ、さらに前へと駆り立てた。
「いま、ここで全てを終わらせてやる……!」
決意を固めた。
以前、ゾルラードから教わったガルムンの必勝技があったはずだ。
それを使えば……。
時間がない――また暴走する前に、終わらせるしかない。
「我が手に集いし混沌の力を纏い、全てを焼き尽くす灼熱の炎へと変じよ――」
詠唱を始めた。
その刹那、兜の男は一瞬の迷いもなく刀を振り下ろした。
「――聖避――!!」
鋭い刃が俺に向かって迫る。
避ける暇すら与えない――まさに一撃必殺の狙い。
だが、その時。
「ラディエントエクスプロージョン!」
遠くから、かすかにユリシアの声が響いた。
彼女はまだうずくまり、明らかに苦しんでいる。
それでも、必死に光の魔法を放ってくれた。
次の瞬間、眩い光の矢が飛び、兜の男の一撃を直撃寸前で弾き返す。
彼の刀がキン、と甲高い音を立てた。
放たれた攻撃の軌道が狂う。
ユリシアの光が俺をギリギリだが、確かに守った。
「……ユリシア!」
感謝する、ユリシア。
君がいなければ、この瞬間はなかった。
詠唱も――。
戦いも――。
そして俺自身も存在しなかっただろう。
君の光が俺を守った。
その勇敢な行動が、いまこの瞬間、俺たちを勝者へと導いたはずだ。
「燃え盛る炎よ、我が望みを叶えん! 『炎魔獄――覇断』!!!」
詠唱が終えた。
俺の巨大な腕を雷鳴のような轟音と共に振り下ろす。
同時に地面が激しく震えた。
まるで世界そのものを割り裂くほどに。
大地に叩きつけられた拳から、猛々しい炎の断層が一瞬で広がる。
大地を裂き、その瞬間、巨大な炎の柱が次々と噴き上がる。
炎の嵐は狂乱のごとく巻き起こる。
すべてを無差別に焼き尽くす破壊的なエネルギー。
空高く舞い上がった。
周囲の空間はひび割れた。
崩壊するかのごとく空間が歪む。
熱と炎の猛威が全てを飲み込んだ。
兜の男が逃げる間もなく、その圧倒的な炎の奔流が奴の体を貫く。
余すことなく、完膚なきまでに。
その場に立ち続けることすらできず、
奴は焼き尽くされ、
――即死した。
◇◇◇
「勝った……」
限界を超えた魔力量を使い果たした。
自然とガルムンからルクセリオの姿に戻った。
全身の力が抜けた。
抗うことなく、その場に崩れ落ちた。
炎の熱がまだ感じられる。
激戦の余韻と共に、俺の目の前に広がるのは、鎮まり返ったロックス迷宮、最終層の廃墟。
そこにはもう、何一つ動く影はない。
やっと、終わったんだ。
「これで……ロックス迷宮――完全攻略だ……」
その言葉を噛み締めながら、俺はまぶたを閉じた。
だが、何かを思い出すかのように、はっと目を開けた。
「ユリシア……」
瞬時に立ち上がり、彼女の姿を探した。
全種族辞典だの、ロックス迷宮攻略だの、そんなことは正直どうだっていい。
目の前にある真実はただひとつ――
俺がここにいるのは、彼女がいたからだ。
ユリシアはもうただの治癒魔法師じゃない。
彼女はもはや一人前をはるかに超えた、最高の治癒魔法師だ。
彼女の魔法がなければ、あの兜の男に倒されていたに違いない。
だが、それだけじゃない。
何より嬉しかったのは、彼女と共にこの迷宮を攻略できたこと。
力を合わせられたこと。
知恵と力を駆使して、強敵を打ち破ったこと。
これ以上の達成感、これ以上の想いは見当たらない。
本当に……感謝の気持ちでいっぱいだ、ユリシア。
胸の中でそう呟きながら、彼女の存在に感謝した。
「ユリシア! 勝ったよ!」
迷宮の角でひっそりとうずくまるユリシアの元へと駆け寄った。
もう敬語もやめた。
この戦いで、俺たちの絆は一層深まったはずだから。
もし彼女もそう感じてくれていれば、それ以上に嬉しいことはない。
「ユリシア……本当に、よく頑張ったよ。疲れたよね。俺も治癒魔法、多少は使えるようになったから、ちょっと待っててね」
声を掛けながら、彼女の元に近づく。
その姿が目に入った。
先ほどの戦闘で、彼女はひどい傷を負っていた。
今まで気づかなかった。
彼女の身体を覆う深い切り傷がはっきりと見える。
血が滲み、痛々しい。
「シャイニングヒール!」
膝をつき、治癒魔法を唱え始める。
彼女の傷が一刻も早く回復するように。
――そう心を込めて詠唱する。
しかし、彼女は微動だにせずにいる。
きっと相当疲れているのだろう。
それに、どういうわけかシャイニングヒールが上手く傷口を塞がない。
技量の問題か?
それとも俺の魔力が完全に尽きたのか?
「あれ、うまくいかない? もう一回やってみるね」
そう声を掛け、再び魔法を唱える。
「シャイニングヒール!」
しかし、やはり何も変わらない。
魔法の光が傷に届くものの、傷の治癒が進まない。
ユリシアはうずくまったまま、動かない。
「ごめんね、ユリシア。怪我しているのに申し訳ないんだけど、少しこっちを向いてくれる? 治癒魔法がうまく効かなくて……」
反応がない。
声を何度も掛けているはずだが。
彼女は微動だにしない。
もしかして、気絶しているのだろうか。
状況が状況だけに、それならば急がねばならない。
「ユリシア……ねぇ、ユリシア!」
焦りを覚え、彼女の肩を軽く揺さぶる。
目の前の彼女が、少しでも反応してくれることを願いながら、彼女の名前を繰り返し呼ぶ。
ただ、その肩に触れた瞬間――。
冷たさが伝わった。
彼女の身体が異常に冷たかった。
「…………ユリシア……?」
心配が募り、彼女の体を優しく横たえる。
……胸部に大きな窪みがあった。
深く抉れた傷。
治癒魔法の痕跡がわずかに残っている。
だが、完治にはまだ程遠い。
「……え……?」
いつ負った傷だ……?
身に覚えがない。
視線は彼女の顔に移る。
綺麗な瞳だ。
だが――もはや光がない。
俺を見つめるでもなく、
その目はただ虚ろに開かれているだけ。
目が死んでいた。
つまり、なんだ。
どういうことだ。
何が起こった。
いや、理解したくない。
考えたくない。
受け入れたくない。
けれども、目の前の現実が――
全てを物語っている。
ユリシアが死んだ。




