第25話 『ガイドのバカ』
ベルタとルーファスは、散乱する本の山を見渡しながら、同時に呟いた。
「ゾルラード、既に来ているようだな」
ただ、幸運なことに、全種族辞典が保管されているとされる扉はまだ開かれていない。
ふと安堵の息が漏れたその瞬間だ。
背後に漂う異様な気配が全員の背筋を凍らせた。
反射的に振り返った俺たちの前に
――ゾルラードが姿を現した。
その姿は人間離れした恐怖そのものだった。
身長は三メートルを優に超える。
威圧的に迫る巨体。
筋肉が鋼のように張り詰め、
肌は冷たく青黒い色を帯びていた。
だが、それは単なる体調の悪さを示すものではない。
まるで腐敗した金属が月明かりに染まる色彩。
冷ややかに光るかのような、不気味な青さだった。
ゾルラードの手足は異常に長く、指はまるで鉤爪のように鋭く尖っていた。
その一方で、彼の肉体は極限まで鍛え上げられており、全体が異常なまでの力強さを感じさせる。
オークとして《外見変化》した時の俺の姿でさえ、彼の前ではまるで影を潜めるように感じられた。
だが、最も不気味で異様だったのは、彼の目だった。
いや、正確にはその目を覆い隠すもの――荒い黒い布のようなもので目を完全に覆っているのだ。
それにもかかわらず、ゾルラードは正確にこちらを見つめているかのように感じた。
あの冷たい視線は、ただ静かに、しかし逃れられない圧迫感を持って俺たちに突き刺さった。
彼は微動だにせず、その場に立ち尽くす。
その沈黙には底知れぬ力が宿り、まるで嵐の前の静けさが場を包み込んでいるかのようだった。
彼の全身から放たれる圧倒的な威圧感は、空気を凍りつかせ、俺たちの動きを封じ込めていた。
それはまるで、深海から現れた異形の怪物が、暗闇の中で獲物をじっと見つめている様子。
ひとつひとつその動きを見逃さぬように品定めしているかのよう
背後にはもう逃げ道などない。
ゾルラードの圧倒的な存在感が俺たちを絡め取り、逃れる術など与えてはくれない。
そして突然、その静寂を破るように、奴は口を開いた。
「この臭いは…ルーファスとベルタだな」
目隠しをしたまま、まるで何かを確かめるかのように言い放つ。
その声は重く、低く、まるで地の底から響いてくるようだった。
目が見えぬというのに、臭いだけで目の前に誰がいるのかを察知するとは……
まさに異常なまでの感覚の鋭さだ。
それはもはや野生の勘と呼ぶにはあまりにも超越している。
「それと……イシアに似た女の臭い。もしや……奴の娘か」
俺の全身が凍りつくような恐怖に襲われた。
俺だけじゃない。
隣にいるユリシアも明らかに震えていた。
ゾルラードがユリシアの存在を知っているはずがない。
にもかかわらず、彼女の母親であるイシアの名を口にし、見事に彼女を当てたのだ。
その異様な直感力に、俺たちはさらなる恐怖を感じずにはいられなかった。
「三人……でロックスの作った迷宮を攻略するつもりか」
三人?
おいおい。
俺は入っていないのか?
ゾルラードは俺様の存在を無視しているのか?
いや、俺を軽んじているのか?
そのどちらにしても、奴の言葉が心に引っかかる。
そして、どうしようもない苛立ちがこみ上げてきた。
「お前が言うな」
ベルタが鋭く言い放った。
その瞬間、空気が一変した。
彼女の声には先ほどとはまるで違う。
張り詰めた殺気が滲んでいた。
俺はその圧力に飲み込まれ、吐き気を覚えたが、それでも動くことができなかった。
ゾルラードから溢れ出す計り知れない殺気。
それが俺の全身を凍りつかせ、立ちすくませた。
「仲良くしようぜ……俺はお前らと喧嘩しに来たわけじゃねぇんだ」
その言葉には微笑みを浮かべたような軽さがあったが、その実、殺気は治まるどころかさらに増していく一方だった。
言葉とは裏腹に、ゾルラードの底知れぬ敵意が、ますます濃密に周囲の空気を染め上げていく。
「馴れ馴れしくするな……俺はまだお前のしたことを許したわけじゃない」
ルーファスの冷ややかな声が場の静寂を破った。
その声には、ベルタと同様に恐怖の欠片も見受けられないが、目には冷徹な憤怒が宿っていた。
「許してない? 何のことだっけ?」
ゾルラードが不遜な口調で問い返す。
その表情には淡々とした冷酷さが漂い、明らかに相手の怒りを嘲笑うかのようだった。
「……ッ! クソ野郎ッ!!」
ルーファスの怒りが爆発する。
声が振るえている
拳が握りしめられる。
だが、ゾルラードの冷徹な視線は一瞬たりとも外れることはない。
「そう言うなら俺も許してねえよ。お前は焔鯨のことを何も分かってない」
ゾルラードの言葉には深い憎しみが込められていた。
確か、二人は焔鯨の時期リーダーで争っていた。
ルーファスから事前に聞いていた話にはゾルラードの怒りを買うようなことは何も知らされなかった。
色々と複雑らしい。
「分かってないのはお前の方だろ!」
ゾルラードの冷ややかな声に反応するルーファス。
その怒りは全身から溢れ出し、もはや抑えきれない。
二人の口論が次第に激化する。
言葉のやり取りが凄絶なものになっていく。
《口を……挟め》
突然、頭の中に《ガイド》の冷淡な声が響いた。
間に入って口を挟めという命令が、冷徹に響いてくる。
その理由は理解できなかった。
ただ、その命令を聞けば、この緊迫した状況がさらに悪化しそうな予感がした。
《間に……入れ》
再び、その機械的な声が耳に届いた。
言葉は淡々としているが、どこか必死な訴えが感じられる。
「俺の親を殺す意味は無かっただろッ!!」
ルーファスが叫び声を上げる。
その言葉には深い怒りと悲しみが込められていた。
ゾルラードの冷酷さがさらに際立つ。
「あ? だから、なんのことだよ。俺は死んだ奴らに興味はねえんだよ」
ゾルラードはそう言い放つ。
彼の言葉から、まるで他人事のような無関心さが漂っていた。
「ふざけんなぁぁ!!」
ルーファスの怒声が空間を引き裂く。
その殺意が周囲に広がり、次第に殺気が膨れ上がる。
《今!》
《ガイド》の声が、まるで叫ばれたように強く響く。
切迫した感情が伝わった。
その声に応じるように、俺は深呼吸をした。
そして、声を発する決意を固めた。
「……あの!」
俺の呼びかけに、ゾルラードが突然その巨躯を振り向き、辺りを見渡した。
「誰だ……?」
誰だ、とはどういう意味だ。
さっきやったみたいに本能でしっかりと俺の臭いを嗅げよ。
やはり、ルクセリオの姿だと、あまり存在感がないのか。
中沢煌だったら、多分すぐ気づかれるんだがな。
「ルクセリオと言います」
「ルクセリオ? ……こんなところで何をしている」
ゾルラードの声には冷ややかな興味が込められている。
その口調には、まるで俺がこの場にいること自体が不思議でたまらないという感情が見え隠れしていた。
「ロックス迷宮を攻略しに来たんですけ……ど……」
言葉を続けるうちに、ゾルラードの冷酷な視線が俺を刺すように感じられる。
「お前はここにいるべきじゃない」
その一言で、俺はさらに混乱した。
なぜ面識もない者が、こうも確信を持って自分の立ち位置を否定するのだろうか。
「どういうことですか、ゾルラードさん」
「ああ、だがここに来る意味はあったな」
ゾルラードは俺の言った言葉を無視して、そう言った。言葉は理解不能で、俺には何かの深い繋がりを前提に話が進んでいるように感じられた。
すると、ゾルラードは思いもよらない要求をベルタに突き付けた。
「ベルタよ、ルクセリオを俺に渡せ」
「え?」
え?
本当に「え?」という一言に尽きる。
その言葉を聞いた瞬間、俺は混乱がした。
何を言っているのだ。
渡せ、と俺を物のように扱うな。
とはいえ、ベルタがその要求を飲むことは考えられない。
「いいわよ」
いや〜、マジですか〜。
どういうことですか〜。
普通にあり得ないんですけど〜。
俺たち、師弟関係にあったじゃないですか〜。
やっぱ俺、戦力外だったんですか〜。
そうなら、はっきりそう言えばよかったじゃないですか〜。
言ってくれれば、ロックス迷宮なんか行かずに、ニレニアの街でナンパでもしたのに〜。
これだからエルフは〜。
言葉足らずなのね〜。
……あーあ。
どうやって殺されるんだろう。
絶望を感じた。
「ただし、条件として私たちに全種族辞典を譲ること。それにルークは殺さないこと。それでどうかしら?」
どうかしら? ってカッコつけちゃって〜。
そもそも、なぜこんな状況になっている。
そんな要求、このゴリラが聞くわけないじゃないの。
ゾルラードとかいうこの体育会系の頂点みたいな奴の隣に居たくないんですけど。
誰かオムツ用意してほしいんですけど。
「あ? 全種族辞典? そんなもん興味ねえっての。だがいいぜ。ルクセリオは殺さねえ」
「成立ね」
ゾルラードはそう言うと、自らの手を激しく噛み、血を流し始めた。
その光景に、俺は言いようのない恐怖と震えを覚えた。
ベルタは躊躇いもなく、その血を舐め取り、ゾルラードはこう呟いた。
「我が血をもって誓う。もしこの誓いを破るならば、我が命を捧げることを厭わぬ」
赤い光がゾルラードの血から放たれ、その光はベルタの舌に向かって飛び、小さな紋章が現れた。
「なんですか今の」
俺はルーファスに尋ねた。
「誓いだ。ゾルラードが誓いを破れば、奴も死ぬことになる」
なるほど。
そういうことか。
じゃあ、俺は死なない。
多分。
まだ信用はできないが。
「よし、ルクセリオ。こっちに来い」
ゾルラードに呼ばれて、俺は仕方なく、従った。
ベルタの意図が見えない。
彼女は平気で俺のことを捨てた。
急すぎて感情が追いつかない。
これもあのアホな《ガイド》のせいだ。
話を割って入らなければ、こうなることはなかったはずだ。
運営、マジでミュートモードのアプデ追加してくんねえかな。
そして、俺はゾルラードと手を組んだ。
というより、奴の奴隷にされたと言った方がいいかもしれない。




