第17話 『ユリシアたんの浮気』
「またね、煌くん」
その言葉が耳に届いた瞬間。
思考が止まった。
次の日――。
薄暗い部屋の片隅。
宿の硬いベッドにも慣れてきた。
俺はぼんやりとしてた。
天井を見上げて、ふと思い出した。
ユリシアに治療してもらったけど、それでも今日は休むようにと言われた。
だから今日は朝から横たわってる。
それにしても驚いた。
この異世界で、まさか本名を呼ばれるとは。
いや、それ以前の話だ。
「煌くん」なんて呼んでいた人間がそもそもいただろうか。
学生時代に一人だけいた気がする。
誰だったっけ。
俺は女の顔も名前も覚えない。
迷宮で会ったあの若い少女。
親しい関係だった記憶もない。
それに、正直タイプでもなかった。
だから、別に気にすることもない。
ただの聞き間違いだろう。
◇◇◇
窓の外に星が煌めいてるのが見えた。
静かな夜だ。
遠くから微かに酒場の喧騒が聞こえる。
そろそろ起きよう。
俺は部屋を見回した。
キィィーー……。
古びた木の床が軋んだ。
錆びついたランプが弱々しく光ってる。
ボロボロな宿だ。
金はあるんだが、ニレニアには良い宿がない。
隣の部屋にはユリシアがいる。
ユリシアといえば、今日の夜八時に彼女と酒場で待ち合わせをしてた。
疲れた俺のことを気遣ってくれてるんだな。
優しい。
優しくて、可愛い。
最強じゃないか。
ってあれ、もう時間じゃないか。
慌てて立ち上がった。
錆びた扉を開けて、階段を駆け抜ける。
外に出たすぐだ。
夜の活気に包まれてた。
冒険者が増えてきたんだな。
街灯の下を急ぎ足で進む俺の影が、石畳の上に長く伸びていた。
ユリシアに会いたいという気持ちが表に出ちゃってるようで恥ずかしい。
◇◇◇
ユリシアが店の前で待ってた。
それにしてもやっぱり可愛い。
最近はお姉さんっぽい雰囲気が出てきて、おっちゃんも嬉しいよ。
遅刻したの怒っていないといいけど。
そう思いながら、足早に近づいた。
だが、ふと足が止まった。
よく見ると誰かと話してる。
若い男だ。
そして、何より――イケメン。
嫌な予感が広がった。
ただ単に道を聞かれたわけでは無さそうだ。
彼女はその男に向けて、満面の笑みを浮かべているから。
(クッ!! 俺という男がいながら、他の男にそんな顔をするとは!)
これは浮気か?
いや、確実に浮気だろ!
《違います》
いや、違うわけないわーい!
どう見ても浮気だぞ!
《浮気じゃないです》
いやいや、ガイドさんよ。
考えが甘いんだよ。
これが浮気じゃなくてどれが浮気だって言うんだ?
男だから分かるんだ。
ユリシアにその気がなくとも、あの男は間違いなくそういう下心を持っているということを!
男なんて皆、そうだ!
ユリシアたん!
騙されないで〜!!
男のペースに引き込まれたら、終わりなんだ。
鉄壁ガードを誇るユリシアだって逃げられやしない。
これは俺が落ちた落とし穴よりも、だいぶ厄介なトラップだ。
――いや、待て待て。
最高の展開が浮かんだ。
思えばこの世界に来てから、どこか自信を失ってた。
何かと闘いに出て、ユリシアにかっこいいところを見せようと必死だった。
それでも自信は取り戻せなかった。
結局は無意味だったのだ。
だが、俺は忘れてた。
俺の二十七年の人生で学んだ、もっと大事な教訓があったはずだ。
そうだ。
思い出せ。
世の中で一番大切なのは――顔だということを。
『イケメンはイケメンで追い返せ』ということわざがあったじゃないか。
《ありません》
ある。
《ありません》
ある。
《ありません》
「《ガイド》、ミュートモーーードっ!」
《そのような機能はございません》
ったく、《ガイド》の扱いにも困ったもんだ。
今思えば、自信を無くしていた原因は見た目にあった。
ルクセリオとか言うガキの顔で自信を持てるわけがない。
俺はアルフとの実験で《外見変化: 中沢煌》を習得したんだ。
それを使えば自信なんてまた戻ってくる。
つまり、俺はこの世界で無双できる。
女たちとの夢のような日々。
そんな毎日はすぐそこにある。
なぜ、こんな名案を今の今まで思いつけなかったんだ。
まあ、いい。
これからでも遅くない。
無双できる。
「目を閉じてごらん、ユリシア」
小さく詠唱を囁いた。
閉まっていた店の窓ガラスに映る自分の姿を確認した。
俺は中沢煌になった。
洗練された顔立ち。
自信に満ちた表情。
まさにイケメンだ。
これに勝る顔立ちを今まで見たことがない。
勝ちを確信した。
(今助けに行くよっ、ユリシアたん!)
◇◇◇
「俺の女に、何か用か?」
堂々と男に向かって言った。
冷ややかで誇張された威圧感を込めた。
俺の身長は男よりも高い。
全てにおいて、この男よりも優れてる。
ふと隣にいたユリシアに目が行った。
彼女の表情には興奮と期待が浮かび上がる。
アイドルの推しを見るような目。
じっと見てくる。
男は一瞬たじろぐ。
そして慌てた様子で口を開いた。
「すみません。ユリシアとは昔からの知り合いで、そういう意味で声を掛けたわけではないんです」
ひどい言い訳だ。
滑稽だな。
良くもうちのユリシアたんをトラップギリギリまで追いやったな。
俺は容赦ない男だから、謝っても無意味だぜ。
「昔からの知り合い? 面白い冗談だな」
男の目が俺に向き直る。
本当に知り合いなのか?
そう疑問に思い、再度ユリシアに目を向けた。
彼女の瞳は相変わらず俺を捉えてる。
まるで他の誰もが消え去ったかのように俺だけを見ていた。
そして、彼女は俺に近づいてきた。
ずっと俺の目を見ながら、近づいてきた。
「え、何?」




