第一章(前編) テレの青春 ~大きな木の下で~
第一章 テレの青春 (前半)
「大きな木の下で、僕たちは初めて分かり合えた気がした。僕の名前は、テレ。あだ名ではない。孤児院でつけられた名前。そう呼ばれて十八年、なんだかんだと大学に通っています。初めて友達になれたあなたに近況報告……」
テレは、名古屋駅前のファミレスにいる。小学時代に初めてできた友達を想い出していた。その友達は、女の子。転校先で隣の席にいた。簡単に自己紹介をしていた。忘れっぽいテレは、女の子の名前を覚えられなかった。名前の痕跡がなく、テレ自身は、女の子を「あの子」として把握していた。あの子宛ての手紙を書いている。ちょっと恥ずかしくなっていることに気づいていた。どこかで再会できる。そんな淡い期待感で手紙を書いていると、どこからともなく、男女二人組がそばに現れた。
「テレ! 何しているの?」
声をかけてきたのは、景子。入学時からのなじみの友達の一人。人の名前を覚えるのが苦手だが、彼女だけはすぐに覚えられた。ほんわかした性格だ。変わり者のテレを、真っ先に受け入れてくれた。テレの中では、「信頼できる人」と印象付けられていた。隣は、大きな声が特徴のケースケ、「豪快な人」と把握していた。テレの手帳の四月三日の欄には、〈信頼できる人・女・景子。そして、豪快な人・男〉と記入されていた。名前は、しばらく覚えられなかったようだ。ケースケと景子は、ニコニコしながら、テレが書いている手紙を気にしていた。
「それって、ラブレターか?」
ケースケの大きすぎる声に、動揺を隠せない。テレは、顔を真っ赤にしながら弁解をしていた。
「こ、こ、これは、小学時代の友達への手紙だよ。大学に入ったことの報告」
「景子が、興味深々だぞ。その友達って、女の子だろ?」
「うん、そうだよ」
「その子の名前は?」
「よく知らない。名前を覚える前に、『あの子』は転校しちゃったんだ」
「名前も知らないのに、手紙を書いているなんて変だぞ。いても届けられないじゃないか?」
「うん、こうやってたまに近況報告を書いていると、どこかで会えるような気がするんだ」
無意識に景子を探していた。景子の目に、涙が見えたような気がした。
景子とケースケの後に、シュンスケと明美が入ってきた。シュンスケと明美は、付き合っている。高校時代からのカップルだ。シュンスケは、最後に名前を覚えた友人。「計算が得意な人」というのが、第一印象だった。四人の中では、最後に来た人だった。その彼女の明美、「気品がある人」と把握していた。テレにとっては、この四人が今の友達。十八年の間で、初めて心を許していた。
五人は、六人掛けのテーブルに、カップル同士が対面に座る。テレは、恋人無しの無所属なので、目の前には誰もいなかった。
「アイスコーヒー、四つお願いします」
景子は、店員に声かけていた。テレからみて、遠い場所に座っていた。
景子とテレは、見つめ合っていた
「テレ、景子ばかり見てるぅ?」
明美が、冷ややかすように話しかけてきた。
「え、そんなことないけど……」
ケースケは、横目でにらみつけていたが、誰にも気づかれていなかったようだ。
「アイスコーヒー四つ、お持ちしました。え、え、えーと」
青白い顔をしながら、女性店員が声かけてきた。テレは、その女性店員の醸し出す違和感に、驚いていた。他の四人は、気づいていなかった。「青白い顔の人」の持ってきたアイスコーヒーが、それぞれの目の前に運ばれてきた。そろったところで、ケースケが切り出した。
「この後、熱田神宮に行きます。日程は、十一時半に現地で落ち合います。各自それぞれのスタンスで、写真を撮影してください。十三時に、きよめ茶屋で合流です。僕たちにとって初めての撮影会です。質の向上も大事ですが、まずは、写真を撮ることを楽しみましょう」
リーダー格のケースケがしゃべりだした。それぞれが、うなずく。実は、ケースケだけが写真の賞を高校時代に受賞していた。高校生部門での入選だったようで、大学での扱いはスーパールーキーだった。
しばらく雑談した。五人は駅に向かって歩き出していた。テレの前には、いつも二組の男女が歩いている。いつも変わらない風景だった。恋人と愛し合うという感覚に疎かったテレにとっても、少し締め付けられる瞬間。ふと、前方の景子が声をかけてきた。
「会えるといいね。その女の子」
その一言だけ残して、再び隣のケースケとの会話に夢中になっていた。ケースケが、勝ち誇った表情を隠さずに、後ろを振り返った。
「油断大敵!」
テレの間の抜けた表情を、撮られてしまった。ケースケの完勝ぶりが、際立った瞬間だった。
前方の四人は、それぞれのパートナーとの会話を楽しみながら、目的地を目指していた。電車内でも、四人は、テレのことを忘れているようだった。恋人との会話に没頭する四人を視界に入れながら、小学時代のことを想い出していた。
テレは、孤児院で育てられて、その後、教会の神父の下で育てられた。生後十四日に、孤児院の前にいた。市役所の職員たちが孤児院に届けてくれたのだ。赤ちゃんのそばには、名前の切れ端らしい「テレ」という文字があった。そのため、孤児院では「テレ」と呼ばれていた。
十歳までは、愛知県東海市の孤児院で過ごした。小学四年時に、東京都立川市にある教会の神父さんの養子になっていた。「あの子」とは、立川市の小学校で出会っていた。出会って三日後、彼女は親の都合で、転校していった。名前を覚える前の出来事だった。初めて、友達ができた気がしていたので、心を不安が浸食していた。「せっかくの友達が、逃げちゃった」って、常に頭の中で再生している。テレにとっては、出会ったばかりの養父より、あの子」に、親しみを感じていた。
「あの子」に初めて出会った日は、確か六月中旬だった。彼女は、テレに積極的に話しかけてきた。
「君って、テレっていうんだね。よろしく、私ね、私ね、私ね、私ね……」
声が途中で切れていた。名前が聞こえない。彼女の名前は、考えることができない気がしていた。まあ名前は、また今度聞いてみよう。そうテレは、感じているようだった。
「テレって、どこから来たの? どんなことが楽しい? 好きな食べ物は?」
聞き取れないくらいのたくさんの質問を投げかけてきた。早口で、聞き取るのが大変だった。外国語を聞いているような感覚だった。テレは彼女の質問に答えながら、その日の授業の内容に溶け込もうとしていた。生まれて十年分の会話を、転校の初日だけでしてしまうくらいの会話量だった。濃いアジサイ色に染まった転校初日だった。
その日のことを、まくしたてるよう養父に話している。人見知りが激しくて、誰とも話してこなかったテレが、生まれ変わったようにしゃべりだしていた。永い眠りから目覚めた瞬間だった。文字通り人生を変えた一日を、報告している。いつも不眠気味のテレは、その日だけはよく眠れた。
月曜日、ホームルームが始まろうとしているのに、隣の「あの子」は、まだ来ていない。動悸がどんどん速くなり、不安で気がおかしくなりそうだ。
先生が入ってきたのが見えた。
「急な転校になりました。○○さんは、両親の都合で○○県に引っ越しになりました」
その後は、何を話したのか、思い出せなかった。記憶が「受け入れたくない現実」を拒否していた。
「あの子」の転校の事を話しているはずなのに、テレには全く聞こえなかった。名前だけがどうしても聞き取れなかった。引っ越し先も、良く聞き取れなかった。あまりに辛い現実を突きつけられた。せっかくできた友達が、いなくなっちゃった……。
思い出に浸っていると、急に明美が話しかけてきた。
「テレ、その女の子と出会ったのってどこ?」
ドキリとした。今、考えていたところだった。
「彼女とは、東京・立川の小学校だよ。ちょうど今くらいで、六月中旬」
明美に、心の中を透視されている感覚になり、恥ずかしそうにしていた。
「その女の子、もしかしたら、私か景子だと思うよ」
明美は、おかしなことを言っていた。明美は、ずっと愛知で生活してきたと言っていたし、景子も同様に、愛知だと言っていた。ただ十歳の頃、明美も景子も、軽い記憶障害だったらしい。数カ月、東京に行っていたと、それぞれの家族から聞いていたらしい。二人とも、東京での生活は、今でも思い出せない。そんな小さな頃なら、意外と覚えていない人も多いから、あまり気にしないことにしていたようだ。景子も似た症状だった。
五人は、神宮前に着いてからは、別行動をとっていた。ここからは、それぞれがカメラマンとして、恋人同士でも群れることなく、それぞれの撮影ポイントを目指していた。テレは、下調べの時に知った「大楠」を目指していた。かの有名な弘法大師・空海のお手植えというので、すごく気になっていた。テレは、空海に対して、自身のルーツを探るうえでの先生のように感じていた。そして、生涯の伴侶を得るためのルートを示してくれるような気がしていたのだ。自分を知るきっかけを示してくれる存在だと一方的に空海を尊敬していたのだ。そう、この大楠に空海の想いが宿っている。今は、カメラマンとして、この「大楠」が喜ぶポイントや構図を見つけて、たくさんの写真を撮る。ちょっとしたトランス状態に入っていた。ルーツとルートを示す地図を求めていたのだ。
熱田神宮に集まった五人は、名古屋の芸術大学に通っている。写真を専攻する学科だ。一番名を上げていたのは、ケースケ。それ以外は、部活や趣味でかじった程度の実力である。テレだけは、実力が未知数で、下手な写真を重ねることが多かったが、たまに、プロ予備軍のケースケもうなる写真を撮っていた。ケースケの師匠も、テレのまぐれの一枚を、絶賛していた。しかし、テレが人を被写体にするときは、ド素人そのものであった。ひどいのが、自撮りをするとき。絶望的にひどかった。テレ以外の四人がこぞって、テレの下手さにあきれていた。いつも受け身で他人との距離感をつかむのが苦手なテレは、自身や他人を撮影するのがとにかく苦手だったのだ。風景写真はテレ。人物写真はケースケというのが、この仲間内の評価だった。