鴨がネギを背負っているので、迎えに行くだけ
頭を空っぽにして、読んでください。
誤字脱字があるかもです。
夜、風が吹く。
何も思わずに家を出た為、来ている服は薄着である。
靴下を履かないまま、素足を靴に足を突っ込んでいた。
とても寒い。
寒いけど、それで良かった。
ここは山の入り口であり、目の前には地蔵がある。何故あるのかは知らないが、苔がついているので、昔からあるのだろう。
地蔵に、手を合わせる。
どうか、どうか、お願いします。
神聖な儀式に見えるかもしれないが、頭の中を埋め尽くすのは、恨めしい願いだ。
怒りを買うかもしれない。
それなら、それでいい。
どうか、どうか、お願いします。どうか、……、
唐沢 律紀は、県立第二高校に通う高校生だ。
綺麗な形の鼻と、可愛らしい口ときて、目はアーモンド型をして大きすぎず小さすぎずと、顔は良い子供だった。
成績も優秀、運動神経も悪くはない。
文句の付け所としては、夜遅くまで遊んでいること。
しかし、そんな隙が、彼に友達を作らせ、クラスでの中心的な人物の一人になっているのだ。
彼は、今日も日が暮れかけた町を歩いていた。
いつもゲーセンで遊んだり、猫に餌をやったりしている。
けれども、今日は夜に行き着く前に事件が発生した。
「呪われてる!」
河川敷で対峙する二人。
律紀の前に立つのは、長い黒髪の歳上の女。
白い肌に、赤い唇が印象的な美しい女性だった。変な点といえば緋色の袴を着ており、周りの風景から浮いていることである。
しかも、律紀を指差しているせいで、さらに浮く酷い現状だ。
「聞いてるの?おーい、のーろーわーれーてーるーよー」
「聞こえてますよ。……貴女、誰ですか?」
「ワタシ?えーとね。マイよ。毎日の毎って書くの。天坂 毎。呪われてるキミのお名前は?」
対応に困り、とりあえず苦笑いを浮かべた。呪われているなんて、胡散臭いことを言う女が現れたものだ。
いっそのこと、この前絡んできた他校の人間でも、名乗ってやるかと、内心ほくそ笑む。
「田中吉竹です」
「はい、嘘」
「揶揄っただけですよ。遠藤龍之介です」
「嘘」
「………、中山綾斗」
「嘘。ねー、教えてよー、唐沢律紀くん」
「知ってるじゃないか!!」
女、もとい天坂毎に怒鳴る。
知っているなら聞いてくるな。
しかし、その前に気にならないといけないことが一つ。
何故、律紀の名前を知っているだ。
湧いてくる疑問と共に、脳内で彼女の言った言葉が繰り返された。
その全ての訳が分からずに、さらに近づいてくる彼女を睨みつける。
「一つ、何で名前を知っている。二つ、呪われているってどういうことだ」
「一つ目は、調べました。ワタシに不可能なことはありません。で、二つ目なんだけど、そのまんまだよ。キミは呪われている。ーーー、あっ、そーだ!!」
毎が一気に距離を詰めた。
二人の鼻が擦れあう近さで、この前見た恋愛映画のワンシーンを思い出して、思わず顔が真っ赤になる。
それに構わず、彼女の手は律紀の目を覆った。
目を覆う行為は、泣く時、疲れた時、寝つきが悪い時などがあるが、その全てが自分の手によるものだ。
他人である彼女の肌と、自分の肌が触れ合う。
思った以上に冷たい手を振り払おうと、頭を振ろうとした。
「まだよ」
強く後頭部を掴まれる。
暗闇を作る手のひらを、押し付けられた。
女とは思えない力に焦り、首筋から汗が漏れ出す。
季節は春であり、風が強いが、不思議と周りの風が動かなくなったように感じた。
痛い。
電光石火のような痛みが走った。
目というよりは、目の神経を摘ままれた気がして、思わず、身体をくの字に折った。
だが、その頃には、毎の手は離れていた。
恐る恐る目を開いて、覗き込んでくる毎と目があった。
思いっきり怒鳴った。
「何をしたっ!!」
「見えるようにしただけだって。ほらほら、あそこで犬を散歩、いや、あれは、犬に散歩されている人だな。彼を見て御覧なさい」
犬に散歩されている人って、どんな人だよ。
と思ったが、言われた方向を見た。
小さい子供が乗れそうな大きな犬二匹が、枯れ枝に見える人を引き摺っていた。その人は、何とか二匹を引き止めようとしているが、失敗している。
確かに散歩されている。
その人には、少し気になることがあった。
黒いモヤが全身を覆っているのだ。まるで、上から灰が降り積もっているようである。
目にゴミでも入っているのかと擦っても、その光景は見え続けた。
「あれが呪い」
毎が耳元で囁いた。
彼女は、別の人を指した。
それは散歩されている人とは、反対方向に走る女性だった。
その女性もまた、同じように黒いモヤに覆われている。
「あれらは、許して良い呪いよ」
目を凝らして、周りを見る。
人を見つけては、彼らがモヤに巻き付かれているのが分かった。
ならば自分は?と、律紀は己の手を見ようとした。
だけど、見る前に毎によって、ポケットに入れていたスマホを奪われた。
「ちょっと!」
「怒らない怒らない。はい、チーズ」
スマホで写真を撮った彼女は、その後は何もせずに返してくれた。詳しく言えば、取った写真を見るように、促してきた。
そこには、見慣れた律紀自身の姿があるが、分かりやすい問題があった。
「何これ」
「これが、許したら駄目な呪い」
裁縫道具の中で、絡み合った糸にしては細すぎる。ミサンガを作る紐よりも太いので、鎖という表現が合っている気がした。
鎖が両手を、両足を、胴体を、首を、そして顔さえも、絡んでいる。
それが、写真の律紀だ。
実際、腕を掲げて見ると、重みのない鎖が付いていた。
「キミ。このままじゃ、死ぬよ?何とかしないといけないから、お姉さんが何とかしてあげます」
「何とかって。……じゃあ聞くけど、貴女の実績と、料金は?」
「金は取らないよ!実績もないかな!!待って!!逃げないで!!」
随分と五月蝿い女性に出会ってしまった。
「本当に出来るから。キミの為なら、すっごく頑張るから!機会を、機会を頂戴!」
手を合わせる毎に、踵を返したまま、律紀は疲れきった目を向けた。
曰く、呪いが見えるようになってしまったが、きっと彼女のせいだろう。ここから考えて、彼女はそういう職業だと分かる。
胡散臭い彼女を、振り切りたい。
でも、今のところ、彼女しか頼る宛がない。
「ちょっと、考えさせてくれ」
「えー、そんな暇ないと思うよ?」
毎の視線が、律紀からズレる。
「え、っな!」
腹に、いつの間にか接近していた毎の腕が食い込む。
彼女は軽々と、律紀を持ち上げると、そのまま後ろに飛んだ。風が耳元で鳴り、信じられない跳躍を彼女は見せた。
身体を引っ張られる感覚が止まった時に、律紀は用心しながら、目を開く。
腹を圧迫されたことによる吐き気が来て、口で手を押さえたが、別の意味で口を塞ぐことになった。
律紀の立っていた場所を、ソレはいた。
人に集っていた黒いモヤにしては、律紀に絡む鎖のように、形はハッキリしている。
けれども、形は鎖ではなく、人の手に見える。
しかも、手のひらを地面に押し付けているので、すり潰すようにある。
もし、律紀が居たままなら、あの手に潰されていたのでは?
「調子乗ってるな」
毎は頭を律紀に擦り付けながら、唸った。
手がこちらを向き、手のひらが見えるように開いた。
手のひらには、目と口があった。
口が、ニヤリと笑う。
日常から外れた存在に、不気味に思うべきだが、その顔に惹きつけられた。美しくも、可愛くもないけど、妙に目が離せない。
「駄目。駄目よ」
思わず伸ばした腕を、押さえつけられる。
先程まで軽い声で話していたくせに、怒りを抑えつけた声が耳元でして、肩が跳ねた。
毎は律紀を見てから、浮いてる手を睨みつけた。
「失せろ」
彼女の言葉に、不満げに口角が下がったが、素直に目と口が消える。
「分かった?ワタシに頼らないと、キミは呪い殺される。ね、ワタシが居ないと駄目なんだよ?ねぇ、分かってる?」
逢魔刻にて、女が笑っている。
その視線を受けて、律紀は手が現れた時と同様に、じっとりとした汗が出ていた。彼女が放つ雰囲気に追い詰められ、息が上がる。
何かを言おうとした口が開いても、何も言えない。
「話し合い、しよっか」
律紀は頷くしかなかった。
顔よし、勉学よし、運動神経よし、交友関係よしの律紀だが、家庭内事情に難があった。
まぁ、昔の話で解決はしている。
それの解決をしてくれたのは、亡くなった母の友達であり、律紀はその人とマンションで暮らしている。
「で、その母のお友達は?居ないじゃん」
「カメラマンなんだ。世界回ってるから、ほぼ居ない」
「……へー」
興味なさそうに返事をした毎。
彼女の前に、湯呑みを置いた後で、律紀もダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
変わらず、律紀の瞳には、彼の腕や腹などに巻きつく鎖が見えていた。
「これ、解けるの?」
「解ける解ける!許して良い呪いも、駄目な呪いも解けるのよ。ただ、許して良い呪いってのは、イタチごっこになるから、許して良いのよ。何より、人を殺さない呪いだから」
「なら、許したら駄目な呪いは、人を殺す呪いなんだな」
「その通り―」
2人でズズッとお茶を飲む。
呪いによって、殺されかけていながら、不思議と落ち着いていた。あの手の目と口を思い返してみても、動揺はもうない。
「人を殺す呪いは、珍しいのよね」
「僕はレアな訳?意外だな。人を殺す呪いなんて、この世に溢れていそうだけど」
「ふふ。死に至らしめる程の呪いを、人間如きが作れると?馬鹿げてるわ」
おや?そうなってくると、
「僕を呪ってるのは、人じゃない?」
毎が目を、パチクリとさせた。
長い睫毛がゆっくりと上下して、見透かすような目を律紀に向けた。
緋色の袴はこの部屋には合わないが、雰囲気のおかげで、部屋が神聖な空気に包まれている気がした。
「人を呪う思いを抱くのは、人よ。貴方のその状態は、誰かに頼まれたナニカが、呪ってる」
纏めると、ある人間が、あるナニカに、律紀を殺してくれと頼んだということだ。
なんて面倒な状況と、乱暴に頭を掻いた。
そうなってくれば、事態は厄介に見えてくる。
毎は、呑気に部屋を見渡して「何もないわねー。エロ本何処だろ」とか言っているが、これからの指針を聞きたい。
「律紀を恨んでいる人を探します」
「恨んでいる人、ーーー、ーーー、ふむ」
「そのさ、そのー、心当たり多すぎみたいな顔、やめようぜ」
とりあえず、三人だ。
バレンタインにて、チョコに変なモノを混ぜてくる女の子たちと、律紀がチョコを貰う度に、地獄の門を叩き切った顔をする男の子たちは、置いておこう。
それとヤンチャしてた頃に、叩きのめした不良たちも、違う気がする。
ならば、やはり、あの三人な?
「会いやすい人から、会うか」
学校も終わり、一人目に会いに行く。
呪いが見えていた目は、今日になると治っていた。
会いに行く人物には、事前にメールをして置いたが、返信もないので、行動を起こすしかない。
その人物は、一つ下の学年だ。
クラスを覗き込むと、数人の女の子たちが、彼女を取り囲んでいた。
少し不安になり、背伸びして見る。
真ん中にあるのは、教科書で、そこに何かを書き込んでいた。何だ、勉強を教えていただけか。
「あの子?」
「なんで、いる」
頭を押さえてくるのは、毎だ。
確かに、マンションに置き去りにしてきただが、何故か此処にいる。
ちなみに、昨日、彼女は堂々と泊まってきた。勿論、許した覚えはない。
用があるあの子は、時間がかかりそうなので、クラスから離れて、毎を空き教室に押し込んだ。
「だって、ワタシが居ないと、キミに呪いをかけているかどうかが、分かんないでしょ。ワタシ、ヒツヨウ」
それなら認めたくないが、仕方がない。
再度メールを送信して、待つことになった。スマホをポケットにしまった瞬間、その手を毎に掴まれる。
「あの子、何者?」
「……腹違いの妹。松田成美」
「ふーん。ーーー、キミを恨んでるかもしれないんだね?」
父と母が離婚し、父が再婚した相手の子供。
それが、成美だ。
彼女と律紀の間に起きた問題は、解決している。こっちは母の友達が介入する前に、律紀が無理矢理終わらせた。
「まぁ、僕との間っていうか。成美は虐められていたんだよね」
「それが何でキミと関係するのさ」
「解決して欲しいって、父さんが。断れないんだよ」
とりあえず、引きこもりになりかけていた彼女を、引っ張り出して、前髪を切るというイメチェンをした。(勿論、イメチェンする前に了承は得ている。どうしても、嫌だったらしない。流石に)
次に、勉強を教えた。学校の勉強に追い付かせて、得意そうだった数学は、難しい問題までマスターさせた。
最後に、虐めていた奴らを言えない方法で黙らせる。
後は成美次第だと思い、放り出した。
あの様子を見ると、もう虐められずに、勉学を武器に頑張れているらしい。
「へー、で?キミは、彼女のこと、どう思ってるんだい?」
「どうって、特に何も」
腹違いの妹。
両親を引き裂いた女の娘。
自分には居ない父が居る存在。
何だって言えるが、そんな見方をする気はない。彼女は、松田成美だ。それだけで良い。
空き教室のドアが、音を立てて開いた。
「久しぶり、律紀さん。えっと、あの、そちらは?」
「無視してくれ、頼む」
「天坂毎でーす。よろしくね!昔は素直じゃなかったけど、今は落ち着いてるよ!」
「無視してくれ、頼む」
二度の懇願を経て、成美は頷いてくれた。
成美の前髪は目を隠していない。それを見て、満足に思っていることが、どうやら顔に出ていたらしい。逆に成美は、不満げな表情になってしまった。
「そんなに、長い前髪が嫌だったんだね」
「ははは。いやだってさ」
彼女の顔を真正面から見る。
よく見ると、律紀の鼻と彼女の鼻は似ている。
だが、それよりも際立って分かるのは、母親に似た可愛らしい顔だってことだ。
「せっかく、可愛いのに隠すのなんて、勿体無いだろ?」
「………だから、バレンタインで混入事件が起こるんだよ」
素直に褒めたが、解せないことに呆れられた。後ろを見ると毎が、何故か猫みたいに笑っている。
色々と訳が分からないので、要件に進むことにした。
どう聞けば良いものか。
悩んでも無駄か、素直に聞こう。
「僕のこと、恨んでないか?」
「え、あの、全然、意味が分からない」
「正直に答えて欲しい」
成美は、片手で前髪を撫でた。
困惑な表情が変わらない彼女だったが、答えを返してくれた。
「確かに、部屋に突然入ってきて、前髪を切ろうと言われた時は、困惑しかなかったし、信じられなかったけど。おかげで色んなものが見えた。他人も自分も、貴方のことも。虐められていた理由も分かったし、切って良かったと思ってる」
笑っている彼女に、律紀はどんな表情を返せばいいのか。
こちらを見る毎が、視界の端にいることに気づけたのは、成美から目を逸らしたからだ。
「だから、恨んでない。恨んでないよ。逆に聞くけど、私のこと、恨んでる?私のお母さんのこと、恨んでる?」
「恨んでないよ」
「本当に?」
疑わしそうな目つきに、律紀は微笑んだ。
毎の目を避けながら、心の奥底から、彼は言う。
「恨んでない」
「じゃあ、何で」
「はーい、そこまで。律紀、この子は違うよ」
何かを言いかけた成美の前に、毎が滑り込む。
視界から成美が消えて、文句を言う前に手を引っ張られた。かなりの力で、抵抗しても身体は前へと連れていかれる。
成美が慌てているが、「ごめんっ、ありがとう!」としか言えない。
「次は誰?後、二人だよね」
あっけらかんとした物言いをした毎は、何事もなかったかのように、歩く。
怒っているようにも感じられるが、分からない。手を振り払いたいが、振り払えない。
太陽の光が、雲によって遮断される。廊下に灯をつけるべきだと思った。振り返った毎の顔が暗く見える。
「ねぇ、次は誰?」
今日の夜は、雨になるらしい。
学校を出て、慣れにくい道を通る。
初めて通った時に、亡くなった母と一緒だった為か、何度も唾を飲み込んでしまう。あの時、母はどんな表情をしていたか、鮮明に覚えている。
きっと、雷を落とされたら、あのような顔になるんだ。
目的地である一軒家に辿り着く。
「松田?妹ちゃんの家だよね」
家の表札を指差す毎を、横目で見ながら、その下にあるインターホンを押した。
しかし、誰からも返答はない。明日にでもしようと、踵を返そうとしたが、それを毎によって阻止される。
彼女は小さく「来たよ」と告げた。
「律紀くん」
玄関からではなく、車が止まっていない駐車場を通って出てきたのは、背も低く、可愛らしい女性だ。エプロンをかけた姿で、洗濯物でも取り込んでいたのだろう。
そこまで推測した辺りで、やめた。
出来る限り、素早く会話して、終わらせよう。
「少し、久しぶりね。元気にしてた?」
微かな笑みだ。
この人は、成美の母である松田美春。
実の父の再婚相手だ。
「はい、元気です。美春さんは」
「元気よ。今日はどうしたの?成美なら、まだ帰ってきてないけど。あら、そちらの方は」
「お願いします。無視してください」
「天坂毎です。よろしくお願いします」
袴姿の毎を美春さんは、然程気にしてないようで、すぐに律紀に向き直った。この胆力が成美に受け継がれれば、良かったのに。
「二人とも、上がってちょうだい。丁度、お菓子もあるわ」
「いえ、ここで大丈夫です。一瞬で終わるんで」
美春さんは首を傾げたが、間髪入れずに律紀は聞いた。
「僕のこと、恨んでますか?」
彼女は、目を細めて固まった。
何度も見たことがある表情だ。この家に、律紀を引き取るかどうかで揉めた時に、この顔で律紀と向かい合っていた。
「誰かに、なにか言われたの?」
「いいえ、気になっただけで。正直に、答えて欲しいです。お願いします」
頭を下げる。
返答は、成美よりも早かった。
「確かに、貴方は、私の腹から生まれてない。私の旦那の血を引いてるけど、私の子じゃない。別の女の子供よ」
噛み締めるように言う彼女は、一回も律紀から目を逸らさなかった。
「でもね。母親を亡くした子に、想いをぶつけるなんて馬鹿なんことしないわ」
だから、恨んでなんかいないのよ。
静かに言う美春さんに対して、戸惑いの心が溢れた。
彼女の愛した男が、別の女を愛した証である律紀を、嫌っているのでは?と思っていたが、ここまで正しく返されるとは。
「この人じゃないよ」
毎が肩を叩いて、教えてくれた。
美春さんに別れを告げて、家であるマンションに向かう。
これで、可能性があると思っていた二人が外れ、後は一人。松田家の駐車スペースに車がなかった為、まだ仕事中だろう。
お分かりかもしれないが、もう一人とは、律紀と成美の父親だ。
掴みにくい性格をしており、律紀も彼のことを何も分かっていない。
二人の溝の大きさを、何と言えばいいか。
母が死んだ時に、引き取られるのがなんとなく嫌だった。それを伝えた律紀に対する返答を「そうか」で済まし、無理矢理、松田家に入れようとした過去が根深くある。
その時に登場したのが、母の友達だった。
いつもより、暗い夕方に、予報通りの雨が降り出した。
カーテンから外の景色を覗いていると、インターホンが鳴った。外の映像が見えるモニターに、毎が飛びついて見る。
「男だ!」
スーツ姿のところから、会社から直接マンションまで来たのか。もしかしたら、美春が何かを言ってくれたのかもしれない。
毎に座るように言ってから、玄関を開けに行く。
「父さん、お仕事、お疲れ様」
「ああ。……、あれは居ないのか」
あれとは、母の友人のことだ。
父は、あの人のことが苦手だから、いつも居ないのを見計らってくる。しかし、今日はそんなことを気にせずに来たようだ。
まぁ、あの人に一本背負いされたらしいから、嫌いになるよな。
「こちらの方は?」
父は毎に気づいた。
彼女は、にこりと微笑んでから、律紀に期待の光を灯した瞳を此方に向けた。
圧が強い。
「はぁ、天坂毎。友人っぽいけど、友人じゃない何か」
「はい!お友達から始めてます!」
「無視して欲しい」
「変な人を家に連れ込むのは、良くないぞ」
そんなこと、律紀も知っている。
ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた父の前に、お茶を出した。
律紀は、毎の隣に座り、どう話そうかと考える。
直球で聞いても、良いものか分からない。
前の二人が違った今、父が自分を恨んでいる可能性が、高いのだ。その本音を聞くことには、少し臆病になるのは許して欲しい。
息を吸って吐く。口を開いて、遂に、
「律紀のこと、嫌い?」
「おい、待て」
勝手に言った毎の肩を、強く掴む。
何故、お前が言うと目で物申すが、彼女は律紀を見て、親指を立てる始末だ。
父の方を見ると、髭の薄ら生えた顎を撫でていた。
彼の目がジロリと律紀を見据えた。
怖気付いた律紀は、答えを聞く前に、口を開いた。
「と、父さん、仕切り直そう。そうしよう」
「お前は、僕の人生を食い潰す気で生きていけば良い」
家具が少ないマンションの一室にて、低い声は浸透していった。
「好きなように、僕ら全員を見下ろすぐらい、強く、自由に生きていけ。その為の踏み台になりたいぐらいは、お前のことを思っている」
静まった世界で、雨の音以外は呼吸音が目立つ。
その息が、特に律紀自身の息が、とてつもなく胸糞悪かった。
グツグツと鍋の中で、野菜たちが煮えている。助けを求めているようだが、お生憎様、今から食べるのだ。
助けなんて来る訳ないだろうと、掴んだキャベツが自分に見えた。
「ぜーんぶ、当てが外れたね。他ある?」
毎は、肉団子を熱そうに食べていた。
その様子を見て、猫舌だった母を思い出す。
同時に、遠回しにしていた答えが近づいているのを感じた。
「母さん」
「……ワタシ、キミのお母さんになれるかな。キミが望むなら、頑張るよ」
「そうじゃない。母さんが、僕のことを呪ってるかもって話だ。死んだ人間だが、あり得るか?」
「ふむふむ。不可能なことはない。あり得るね」
「そうか」
心臓が無くなったような、足元が消えるような、感覚がした。
その夜、夢を見た。
いつも見る夢だ。
燃える家の中で、母が手を伸ばしている。「戻っておいで」とか、「一緒に」とか言っている。
あの時は、そんな言葉はなかった。
気づいたら、燃えていた。
だから、逃げた。
必死で母の企みなんて、分かっていなかった。
これは夢だ。
「あぁ、そっか、手って、そういう意味」
現実でも見たように、夢の中の母も、死んでくれなかった律紀を求めて、手を伸ばしている。
あの手は、律紀を引っ張り込もうとするものだ。
やがて、母の手が、河川敷で見た手になった。
湧き上がる納得感で、思わず笑いが込み上げてくる。
「違うよ」
毎の声は怖い。
軽い声も出せるのに、時折重たすぎるのだ。
その声が、耳元で聞こえる。
夢の中の筈なのに、聞こえている。
堪らず開いた視界には、不機嫌そうな彼女がいる。腹の上に乗っかっているが、重さはない。
それよりも、彼女の手が首に掛かってるのを強く感じた。
耳が冷たい。
熱っぽく感じる目元から垂れた涙が、耳まで零れ落ちたのか。
「キミを呪っているのは、母じゃない」
思い至らしめるように、女が言う。
「キミを呪っているのは、……」
瞬間、背後に現れた手が、毎を吹き飛ばした。
激しい音を立てて、壁に激突した。
なのに、彼女は、軽々と上げて起き上がる。
その様子が、目と口がついた手よりも、よっぽど怖く感じた。
「律紀!」
きっと、毎は律紀の全てを暴いてしまう。
気づくと、逃げるように外に出た。
外は暗く、月明かりだけが頼りだ。何時かは分からず、ただ土砂降りの雨が降っていて、容赦なく身体を叩く。
来ている服は薄着で、靴下を履かないまま、靴に足を突っ込んでいた。
とても寒い。
寒いけど、それで良い。
気づいたら、山の入り口にある地蔵の前に来ていた。
いつものように、地蔵に手を合わせる。
どうか、どうか、お願いします。
神聖な儀式に見えるかもしれないが、頭の中を埋め尽くすのは、恨めしい願いだ。それで怒りを買うかもしれない。でも、それで良い。
どうか、どうか、お願いします。どうか、……、
「殺して」
母を一人で死なせてしまった。
父と上手く会話が出来ない。
美春さんと話せば、心が苦しい。
成美の前で、どんな顔をすればいいか分からない。
そんな自分が、嫌いだ。
母が放った火で、同じように死ねば良かったのに。
でも、死に損なった律紀がいる。ただ死ぬだけなのに、首を絞めれない律紀がいる。
固く目を閉じて、地蔵に手のひらを合わせる。
どうか、どうかと願いを語る。簡単な話だったのだ。
幸せの青い鳥が近くにいたように、答えも近くにあった。
律紀を呪っているのは、律紀自身だ。
パチャン。
地蔵と律紀の周りにある水溜りに、波紋が広がる。
視線を向ければ、人が何人も立っている。取り囲むように立った彼らは、揃いも揃って、手のひらを差し出した。
こちらに来いと言ってるようだった。
きっと、手を重ねるだけで良い。
「これで、」
「何故そこに、ソレがあるか知ってる?」
毎の声がする。
それも再び耳元でして、腹に回った腕が律紀を抱き寄せる。
「有難い忠告を無視して、山崩れに巻き込まれた奴らが居たのよ。聞けば良かったものを、呪いだの、祟りだの言って。呪いでも祟りでも、起きることは事実だと分からぬ愚か者ども」
囁く声は、律紀に向けられているようだが、同時に彼らにも言っているようだ。
波紋が動き、彼らは後ろに下がった。
「剰え、律紀を仲間にしようとするとはな。人間の、よりにもよって、霊魂ごときが」
彼女は、怒っている。
「身の程を弁えろ」
彼らが揺れて、煙より薄くなって消える。
今まで忘れていた風の冷たさや、雨の痛さが帰ってきた。
そして、怒りの矛先が自分に変わったのも感じた。
「そんなに死にたいか」
目の前にいる毎に、頬を持ち上げられ、目を覗き込まれる。限りなく黒に近い瞳が、鏡となって青褪めた少年を写している。
彼に、女は問いかけ、追い詰める。
「いい加減分かったよね。誰が、キミを呪っていたか。ワタシは、初めから分かっていたよ。だから、色んな人がキミを恨んでないことを、キミに伝われば良いと思ったんだ」
母も、父も、美春さんも、成美も、誰も、律紀の死など望んでいなかった。
「そして、その果てに、律紀が、律紀を許すってのが作戦」
しかし、作戦は失敗。
律紀は、許せなかった。
「許せないよ。ずっと、許せない。だって、死にたいぐらい自分が嫌いだ」
例え、誰も恨んでなくても、律紀は恨む。
「ーーー、なら、こうしましょう」
肩を突かれて尻餅をつく律紀を、毎は見下ろした。
彼女は、地蔵を指差す。
律紀の頼み通りに殺そうとした彼らは、そこにまだ居るのかもしれない。
「あんなモノに殺されるぐらいなら、ワタシが殺す。生まれ変わりなんて許さない。魂の欠片残さず、ワタシが喰らってやる」
それは、その方法は、……。
「殺してくれるの?いつ?」
「キミが決めるんじゃない。ワタシが決める。だが、必ず殺すと約束する」
期限が分からない契約を二人は結ぶ。
緋色の袴が泥水に汚れるのを気にせず、毎は律紀の前に膝をついた。
彼女の細い小指が、彼の小指に絡む。
「約束」と振られた小指が触れ合う肌から、氷のような冷たさが伝わってきて、胸まで届くのを感じた。
「代わりに、キミは、その日が来るまで、ワタシとずっと一緒にいて、どうかどうか、お願いします」
雨か涙か、とりあえず顔は、ぐちゃぐちゃになっていたと思う。絞り出した言葉も、情けのないもので、いつもの律紀を知っているクラスメイトに聞かれたら、失踪するレベルだ。
それでも、聞かなければならない。
「何で、そこまで、僕に」
毎が目を大きく開いた。
そして、大きく笑った。
楽しくて、嬉しくて堪らないと言うように、やっとこっちを見たかと噛み締めるように、彼女は笑う。
「ずっと」
雨は、土砂降りのままだ。
地面に叩きつけられる音が、五月蝿いが、毎の声は驚く程、よく聞こえる。
「見てたからよ」
山が、二人を見ていた。
マンションの前に立つ。
入る直前になって、止んだ雨に舌打ちをしながら、傘を畳む。
雲から逃れた光が、金髪をキラキラと照らした。
三十代に見える彼は、マンションから正しく出てきた彼女の眉を上げた。上から下まで舐めるように送る視線は、失礼と言って良いぐらいだ。
先に口を開いたのは、男の方だった。
「この世界は、誰もが呪われているんだ。呪われてないと可笑しいんだよ。生きてる上で、人に関わっている上で、穢れなく生きれる訳ねぇだろ」
男は、黒いモヤが絡みつく自身の手を見た。
「そうね」
緋色の袴姿の女は、無表情で肯定した。
「ところで、誰にも呪われてない、いや、誰にも呪えない奴は何だろうな」
黒いモヤを一つも被ってない女を睨みつける。
人間は誰でも呪われている。
されど、女は呪われていない。
「天坂毎よ」
「天逆毎ね。鬼ではない方を、ベースにしているのか」
途端に毎は、男を睨みつけた。
隠し事、触れて欲しくないところに触れられた猫のようだった。まぁ、その背負う怒気から見て、猫ではなく般若の如くだが。
男としては、しっかりとした読み方はしていない。
だから、「怒るな」と半笑いを浮かべた。
そして、男は帰るべき家であり、大切な友人の子である少年が住むマンションの一室を仰ぎ見る。
「似てはいけないところまで、似たな」
母を殺した火事の真相を、律紀は知らなくて良いと思っていたが、コレが絡むなら話は違う。反対を言えば、絡まないなら、話さなくて良い。男が墓場まで持っていくだけだ。
「律紀の前から、失せろって言ったらどうする?」
風が止まる。
なのに、山が、木を鳴らし枝を鳴らし葉を鳴らす。
山が怒る。
それは、毎が怒っているということ。
「ふふ、ふふふふ、ふ、ふふふふふふふふ」
風が強く吹いた。
身構えた男に、ビシッと頰から耳にかけて裂ける。滴り落ちる血が、アスファルトに落ちる時、
「殺すぞ、ニンゲン」
毎の背中から、黒い翼が広がる。
異様な光景に、慌てず、叫ばず、金髪の男は、ポケットからスマホを取り出した。
滴り続ける血に構わず、スマホを耳に押し付ける。
「あ、律紀ー?オレ、オレ。いや、詐欺じゃなくて、てか、どうしたんだよ。眠いのか?」
微かに肩を揺らして硬直した毎に、ニヤリと男は笑う。
「うん、帰ってきたからさ。もう少しで着くから。ん?慌ててどうした?え、何だよ。彼女でも出来たのかよ。はいはい、分かった分かった。怒るなって。それじゃあ、一旦切るぞ」
通話は終わった。
毎の背中に現れていた翼も消え、風も平素通りに吹く。
彼女は、忌々しそうに男を見た。
「仲良くしようぜ」
渋々頷く毎は、マンションに足を向けた。
大人しい態度だが、油断してはならない。
今まで、狙ってきた少年を死なせないことしか考えていなかった彼女の頭の中で、現在考えていることは一つだけ。
どう男を殺すか。
だが、男だって同じだ。
「(二度もあってたまるものか)」
互いに互いを殺す算段をつけながら、同じ場所に向かって行く姿は、とても滑稽なことであった。
ちなみに、鴨がネギを背負っていた状態であった少年は、何も知らない。
勝手に居なくなっている毎と、いきなり帰ってくる母の友人に純粋に怒っていたのだった。
読んでくださって、ありがとうございました。
誤字脱字を見つけた方は、報告して頂けると幸いです。よろしくお願いします。
天坂毎については、天逆毎で調べると出てくるので、それが正体です。




