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後編

 静かな世界にリゲルの声が響きました。その響きには終わりがなく、まるで世界の果てまでも、いいえ、もしかするとあの星空のどこまでも響いているのかもしれないと奏は思いました。心を震わすようなその響きに、奏の心の奥底から透き通った深い孤独な悲しみが湧いてきました。それこそ、何億光年もたったひとりだったような、底知れない悲しみです。


 奏がリゲルのそばに行くと、リゲルの瞳に一つの星が映っている事に気がつきました。それは真っ赤な星でした。彼女はそれが、ベテルギウスであるとすぐに気がつきました。奏は空を見上げました。赤く燃える星が、無数の星たちの中に確かにいました。


「ずいぶんと懐かしい光じゃ」


 背後から急にそう声が聞こえてきたので、奏は腰を抜かしそうになりました。この静かな世界には、リゲルと奏の二人しかいないと思っていたからです。奏が振り向くと、そこには深紅のローブを纏った一人の老人が立っていました。老人はそう言いながらベテルギウスから目を離し、目の前で驚いている奏にその視線を注ぎました。ずいぶんと年老いた男性ではありましたが、その両の瞳には、命という命がのたうち回っているようでした。


「わしはベテルギウスじゃよ」

 老人はさらりとそう言うと、奏の方へと手を差し出してきました。皺だらけで骨ばった手が、赤いローブの袖から覗きました。奏はとても驚いていましたが、老人のその瞳と、聞いたこともないのに彼が本物の星だと思わせるようなその声に、自分でも気づかないうちに頷いていました。奏が老人の手を握り返すと、老人は嬉しそうに目を細めました。奏の膝元をリゲルの柔らかな毛がくすぐりました。老人はリゲルを見ると、さらに目を細めました。


「やあリゲル、久しぶりだなあ」

 そう言いながら老人は腰を折り、リゲルを撫でました。奏は思わず聞きました。

「リゲルを知っているんですか?」

 老人は冗談めかして言いました。

「知っているも何も、わしは肩で、こやつは足じゃ」

 奏は何を言っているのかわからず、さらに聞こうとしましたが、その前に老人が続けました。

「地球という星が、わしらを結んでくれたのじゃ」

 老人はそう言うと再び姿勢を正し、夜空のオリオン座を骨ばった細い指でなぞりました。それから奏の方を向くと、優しく言ったのです。

「だから、わしらが出会えるのも、ここだけという訳じゃ」

 リゲルは老人のローブの袖をそっとかじっておりました。

「でも、リゲルは犬です。確かに、リゲルは星だけど、でもこのリゲルは、犬ですよ?」

 奏は納得がいかないというように老人にそう言いましたが、老人は優しく微笑むだけでした。


 その瞬間に、奏はなんだか、自分がとても間抜けというか、稚拙な質問をしてしまった気がしました。老人のその優しい瞳の輝きには、言語も時をも超えた彼なりの答えがあったように見えたからです。なので奏はそれ以上は何も言いませんでした。奏がそれを理解してくれたと悟った老人は、静かに言いました。

「最後にもう一度、わしの居場所にいたかったのじゃ。そしてわしの居場所にいてくれた者たちに、別れを言いたくてのう」


 老人はそう言うと再びリゲルに手を伸ばし、その白い頭を撫でました。

「別れを言わせておくれ」

 老人の静かな言葉は、鏡面のような水面に落ちる星の雫のような響きでした。そのたった一言に、奏は想像もできない程の彼の生きざまが垣間見えた気がしました。



 音も光もない空間。底知れない恐怖すら足元にも及ばない暗闇で、彼らは実によく、自らの居場所に誇りを持って輝いているのです。故にその空間には、恐ろしさのみならず、威厳と美しさが満ち満ちているのです。地球というこの星から、果てしないほど離れた場所にいる彼らの命も、今日の夜空に確かにいるのです。一体誰なのでしょうか。無数に輝く星々を、選び、結び、名付けたのは。



 老人は奏を見つめて言いました。

「じゃが、わしが別れを言ったところで、それが届くのは何百光年も先の話じゃ。わしの別れの言葉が届くころには、それを言ったわしはもういない。その別れに応えてもらっても、わしはその返事を聞くこともできない」

 老人は寂しそうな微笑みを奏に向けました。

「わしは今日死ぬ。それでもわしの光は今日も明日もここへ届く。今日も明日もわしは肩で、こやつは足じゃ」

 そう言いながら老人はリゲルの方を見て微笑みました。リゲルは尻尾を振りながら奏の傍らにおりました。


「光というのは、なんとものろいものよ」


 老人のその声だけが奏の耳に届きました。



 奏は目を覚ましていたのです。春も近づいていたものの、まだまだ寒い真夜中でした。奏はふとベッドから抜け出しました。少し前ならこのベッドの下でリゲルが寝息を立てていたのに。ふとそんなことを思い出しながら奏は窓の向こうに目をやりました。まだそこに、彼は天空でこん棒を振っておりました。春が来れば見えなくなる星座ではありますが、今は確かに、赤い星と、そして、その向かいには青白い星が輝いておりました。一体どれほど昔の光なのでしょう。


 奏は凛とした冷たい風を感じながら、そっと言いました。

「さようなら」



 たったひとりでした。はるか彼方で彼が息を引き取ったその日に、彼に別れを告げられたのは。


最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

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