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かつて人だった私へ

作者: 福部シゼ

 ―――――昔から私の周りは私に冷たかった。


 物心つく前から私はみんなと違うということを知っていた。人の世界には必ず『魔』が付き纏う。


 魑魅魍魎、悪神悪鬼


 それらは人々の視界に入らぬように自身の影を薄めて過ごしている。人々に認識されにくく、それでも人々に寄り添って生きる。


 人にとって悪行を成すもの、人々を病などから守るもの、害悪から救うもの⋯⋯様々だ。


 そういったものを認識している一部の人間からは『妖』と呼ばれている。


 妖と一言で言っても人と同じように様々な性格のものが存在している。


 それでも、彼等はその存在自体を許してくれなかった。そこに存在するだけで『悪』と決めつけて滅ぼした。



 だからこそ昔に学んだ。


 生物の『種』を滅ぼす事ができるのは天災と人という種族だけなのだと




『妖』の中にも出来損ないがいる。

 それが、私だった。




 人に認識されてしまう妖。それだけで私は出来損ないだった。妖のようで妖では無い存在。


 私の容姿は少しだけ人と違っていた。鋭い歯、紅の混じった髪の毛、紅い眼、そして額にある2本の小さな突起物。


 肌の色は肌色で普通の人間と変わらないのにそれだけで私は虐げられた。


 イジメを受けた。男子に攻撃の的にされ、女子からは陰口や、トイレに閉じ込められたりもした。


 クラス全体で⋯⋯学年全体で私を忌み嫌っていた。


 毎日無くなる上履き

 汚される椅子

 落書きされる机

 壊されるランドセル


 味方など誰一人いなかった。イジメに耐えかねた私は先生に相談した。それでも、大人たちは見て見ぬふりをした。


 誰も私に手を差し伸べてくれず、声をかけてくれなかった。


 大人たちでさえ私に関わることを恐れていたのだ。


 同い歳に『友達』などできるはずもなかった。



 私の父親は痩せ細った腕で私を抱き上げてその町から離れた。そうして、初めての小学校を転校した。


 私に優しくしてくれたのは父親だけだった。母親は幼い頃に亡くしていた。


 私にとって父親の存在だけが全てだった。私たちが生きていくために父親は朝から夜遅くまで働きに出かけた。


 寝る場所もなく、公園で一晩を過ごしたこともある。ゴミ箱に捨てられた残飯を貪った事もあった。



 小学校6年間だけで60回以上の転校を繰り返した。転校する度に冷たい視線を送る大人たち。汚物のように扱う同い歳。


 いつからか希望を抱かなくなり、妥協する事を覚えた。


 小学校6年間で父親以外から『名前』を呼ばれた覚えがない。


 誰かの『名前』を覚えた事もない。


 顔も声も匂いも⋯⋯そこで生きたことさえ、どうでもよかった。


 思い出など無い。


 昔の記憶は父親と過ごした温かな日常と他にもうひとつ。



『他人』の温もりに初めて触れた『あの記憶』だけだった





 ♦♦♦


 小学5年生の冬


 その日もいつもと変わらない日常だった。


 転校して四日目。自分たちと違う『何か』に対して冷たい視線を送る周りの子たち。


 その視線の先にいる私。皆から注目を集め、視線を背中に自分の机を呆然と眺めていた。



 化け物


 そう大きく雑に黒ペンで書かれていた。

 それ以外にも多数の落書きにカッターナイフによる切り傷。


 数時間前までは綺麗な机だったのに。記憶に残る状態は跡形もなかった。


 目頭が熱くなる。両拳をギュッと握り締めて下唇を噛み締めた。

 慣れたはずの現状に何故こうも心を締め付けられるのだろうか


 心のどこかで期待していたのだ。「次こそは」と。

 意味の無い幻想は打ち砕かれ、そこには現実が残る。


 犯人を特定する気も失せていた。クラスの女子のリーダー格の子に喧嘩が強くていじめっ子の男の子。


 その子らを中心にクラス全体から攻撃を受けた。まだ転校してきて四日目だ。特別に何かをした訳でもない。悪目立ちする様な行動をとったわけでもない。


 ただ、静かに過ごしていただけなのに。



 容姿が少し違うという理由で⋯⋯たったそれだけでこんなにも惨めな結果になる。


 紅の混じった髪に、紅い瞳、鋭い歯⋯⋯


 前髪を長くして額の突起物は隠した。誰にも見られないように、見つからないように⋯⋯虐められないようにと


 それなのに意味をなさなかった。角を隠しただけではイジメは消えなかった。


 角だけではなく、異質な容姿の特徴が彼等からイジメを受ける原因だった。


「⋯⋯死んじゃえばいいのに」


 ボソッと聞こえた囁き声。その言葉に胸を撃ち抜かれた。まるで自分の胸に巨大な穴が空いたかのような衝撃に襲われた。


 気がついた時には脚が動き出していた。自分の脚が動くのを抑える事が出来ない。私は教室を飛び出していた。

 目尻から垂れ流れる涙を抑える事が出来ない。


 疾走して階段を飛び降りる。そのまま校舎を飛び出た。息切れで肺が苦しみを訴える。それでも私は止まらなかった。止まれなかったのだ。


 門を飛び越えて学校の敷地の外へ。



 止まることなく、勢いを弱めること無く、ただ走り続けた。街を行き交う人々の間をすり抜けて、毎日目にする店を通り過ぎて⋯⋯。


 やがて限界が訪れてその場に止まる。


 心臓がうるさい。私は腰を折って自分の小さな膝に両手を着いた。


 垂れ流れる汗を、涙と共にその場に落とす。そして、その場に崩れ込んだ。


 引き攣り泣きを繰り返して独りその場に蹲った。



 ―――どうしてこの世界はこんなにも私の事を嫌っているのだろうか




 街中の細く、暗い路地の隅にポツンと蹲る私。外も暗くなり、私の事を気にしない人が増えた。


 すぐ横に広がる大通りを沢山の人々が行き交う。仕事帰りの男性、どこかへ出かける女性、集団で歩く女子高生⋯⋯。


 そのどれもが眩しく見える。



 きっと、お父さんが心配で捜しているに違いない。

 それでも、此処を動く気になれなかった。


 冬という事もあり、外はかなり寒い。手足が冷たくなり、顔からも温かさが消えていく。



 冬の夜の気温が私を襲う。冷たい夜風に身を凍えさせる。寒さで耳に痛みが走る。


「⋯⋯寒い」


 腕の中に顔を埋めて篭った声で呟く。


「大丈夫?」


 ふとすぐ目の前で声がした。幼い男の子の声。私はそっと顔を上げた。


 私の目の前に男の子が立っていた。首を傾げ問いかけるその少年に私は何も答える事が出来なかった。


 頭の整理が追いつかず、私の思考は停止しかけていた。


 少年は私を頭から足先まで目で追って確認する。見下ろされているのにその視線には冷たさを感じなかった。


「寒そうだね」


 少年はそう言って自分の首に巻いてある青色のマフラーを外してしゃがみ込んだ。


 腰を下ろし、視線の高さが同じになる。そして私の首にマフラーを優しく巻いた。


 少しだけぎこちない手つきがやけに温かく感じた。その瞬間、眼から零れそうになるものが溢れた。


「これでよし」


 少年はそう言ってニッコリ笑った。私の首に下手くそに巻かれた青色のマフラーは私が生きてきた人生の中で1番と言っていいほど暖かった。


「⋯⋯お母さんとお父さん探しに行こう」


 私は眼から溢れる涙を拭って頷く事しか出来なかった。



 それから少年と手を繋いで夜の街の中を歩いた。私は彼の話を聞いているだけだった。


 夜で暗くても街の明かりが私の姿を照らす。私の特異な容姿は完全に彼に見えている筈だ。


 それなのに、少年は態度を変えなかった。


 怖かった。嫌われるのが。

 突き放されるのが。


 この少年の冷たい眼を見たくない。


 だからか私は一言も喋ること無く歩き続けた。



 やがて、辺りが私の知っている道になる。そこで私の名前を呼んで叫ぶ父親の声に少年と私が反応する。


 父の細い腕に力強く抱き締められる。私は父親の胸に頭を押し付けて腕の中で泣いた。


「ごめんなさい」


 父親は何も言わずに抱き締める。少年はその光景を微笑んで眺めていた。


 少し時が過ぎて、父親は顔を上げて少年を見た。


「ありがとう」と一言。


 その声には感謝と涙が混じっていた気がした。


 少年は「はい」と元気よく答えてから走って去っていった。


 父親以外の『優しさ』を初めて感じたその日の出来事は私の宝物になる。


 私の首に巻かれたままの青いマフラーと共に。




 ♦♦♦


 昔から変に正義感が強かった。


 何に影響されたのか、クラス内で起こるイジメに激しい怒りの感情を覚えた。


 アニメに影響されたのか、漫画に影響されたのか⋯⋯

 それとも、生まれつきこうなのか


 イジメの主犯格の子達と喧嘩した事も少なくない。周りに敵は多く、歳を重ねていく度に増えていく。


 集中的に攻撃される事もあった。

 助けた人から裏切られた事もあった。


 それでも、挫けることはなかった。


 少年―――竜胆(りんどう)正也(まさや)は弱きものの為に戦い続けた。


 いつも正しくあろうとした。


 そんな真面目な彼の生き方に心惹かれたものも少なくはない。それでも、この社会は厳しく牙を向いた。



 中学生になっても彼が折れることは無かった。正也は拳を握って戦い続けた。正しさを主張し続けた。


 教師に守られ、友達に支えられて彼は抗った。この世から不公平を完全に無くす事はできなくても、できる限りを尽くしてイジメを減らした。

 その為に試行錯誤を繰り返した。


 感謝され、褒められ、称えられた。


 中学一年の時に担任の先生から言われた言葉をよく覚えている。


「君みたいな人が居るだけで救われる人もいる、が正しさだけではこの社会は回らない。きっとこの先、色んな事があるだろう。君が今を貫くと言うのであれば辛く、苦しい道のりになるだろう。だからこそ、知っていて欲しい。間違っていない=正しい、では無いという事を」



 その言葉の意味を中学一年の正也は完全に理解は出来なかった。それでも、その言葉は正也の深い所に刻まれた。


 そして、彼は高校生となった。



 入学式当日。


 家が近い事もあり、歩きでの登校と学校から指定された。約20分の距離を歩いて登校する。


 学校の正門を越えて坂道を登る。坂道の両脇には美しく咲く桜の木。


 桜の花弁が風に乗って舞う中を歩いた。靴箱で靴から上履きに変えて校舎の中へ。教室の扉をくぐると中では軽く集団がいくつか出来上がっていた。


 早くも同じ中学同士で集団が形成されたその教室の中で、1人で席に座る人たちも疎らにいた。


 クラスの中に顔見知りはいなかった。扉の前で立ち止まった正也を見付けて1人の女子生徒が駆け寄ってきた。


「あの、私、赤原(あかはら)(しずく)って言います。黒板に座席表が貼ってあるのでそれを確認して下さい」


 綺麗な黒髪を頭の1つで束ねる彼女の優しい声掛けに心惹かれる男子も少なくはないだろう。


「俺は竜胆正也だ。ありがとう」


 彼女にお礼を告げて黒板の前まで移動した。黒板に貼られた紙を見詰める。


 自分の席は1番右側の後ろから2つ目だった。


 この教室は全員で30人。横6列の縦5列に席が並んでいた。


 自分の席まで移動して荷物を下ろした。

 席に座った所で隣の席に座る男子に声を掛けられた。


「よう、俺は平田(ひらた)飛雅(ひゅうが)。よろしく」


 笑顔のその男子生徒はマッシュショートの爽やかな雰囲気を持った、一言で言えばモテる男子の雰囲気を持っていた。


「⋯⋯俺は竜胆正也だ。よろしく」


「おう。竜胆って変わった苗字だな」


 と笑う彼に「そうだね」と合わせる。


「飛雅ってのも変わった名前だと思うけどな」


「そうだろ。カッコイイだろ!」


 それが平田飛雅との出会いだった。




 入学式が終わり、その日は下校となる。クラスのメンバーで昼食を食べに行こうと盛り上がる中、数人のクラスメイトは予定があると言って先に帰ってしまう。



「行ける人だけで行けばいいんじゃね」とクラス内の誰かが言った。


「正也はどうする?」


「⋯⋯悪い、俺も今回はパスするわ」


 そう言って席を立つ。正也を見て「そうか」と飛雅は少し驚いた表情で答えた。


 正也はそのまま家に帰宅した。別に予定がある訳ではなかったが、誰かが参加出来ないクラス会に意味は無いと思った。


 クラスの全員が予定を付けて参加する事など無理な話かもしれないが、正也はそれを望んでいた。


 もし、正也がクラス会に参加する事があるとすれば、それはクラスのメンバー全員が参加する時だけだ。



 翌日。朝のクラス内は昨日のクラス会の話題で持ち切りだった。


 正也は参加していない為、話の内容を理解出来なかった。飛雅もクラス会に行ったメンバーの輪の中にいた。


 それでも、正也が教室に入るとその輪の中から抜けてきた。


「おはよう正也」


 そう言って手を上げる彼に「おはよう」と返す。そうして席に座る。


「2人は仲がいいんだね。もしかして、同じ中学?」


 唐突にそう聞いてきたのは正也の1つ前に座る女子生徒。


「いや、そういう訳じゃないんだけど」


「⋯⋯そうなんだ。てっきり同じ中学なのかと思った」


 彼女の名前は吉末(よしまつ)友菜(ゆな)。少し茶色がかったセミロングの髪で、二重の瞼が特徴だった。


 可愛いという言葉より綺麗という言葉が似合う女子だった。



 入学から1ヶ月が経過した頃。事件は起きた。


 上級生数名が1年生取り囲んで無理やり財布を奪うという事件が起きた。


 1年生の男子生徒は怯え、何も出来ずに震えながら蹲る。


 上級生達はこの学校で噂になっている悪で校則違反はもちろんの事、暴行に窃盗、飲酒と悪い噂が流れていた。


 他の生徒が立ち尽くし、怯えながらその光景を眺める中で、正也だけが上級生に立ち向かった。


 怯える1年生と上級生の中に割って入って上級生の暴力から1年生を守ってみせた。


「おい!何してんだ!」


 と叫びながら大柄の男性職員が中心となって複数の職員が駆け寄ってくる。


 駆けつけた職員によってその事件が解決した。上級生達は自宅謹慎の後に退学となった。



 正也の事は生徒の間でちょっとした噂になった。悪い噂ではなく、良い噂として流れた。が、時間の流れと共に風化した。


 正也の立場が特別なものに変わった訳では無い。それでも、数人の生徒が正也に惹かれたのもまた事実である。



 いつしか、飛雅と友菜は親友と呼べる存在となった。



 学校帰りに3人で出かける機会も増え、休日に会う事も少なくなかった。


 恋愛の噂が流れたりもしたが、3人の絆が変わる事はなかった。


 3人が否定したおかげかその噂も次第に消えていった。



 夏休みに入ってからも3人は一緒に数回出かけた。


 3人で花火を見に行き、海にも行った。


 二学期になり、体育祭は飛雅を中心とした体育会系男子のおかげで1年生優勝を果たした。


 文化祭では正也が中心となってクラスの出し物を行った。空いた時間に文化祭を3人で回ったりもした。


 友菜は正也と飛雅との関係だけでなく、クラスの女子や他のクラスの女子とも仲が良い。


 人当たりもよく、何回か告白されたという話を耳にしたが恋人がいるという話だけは聞かなかった。


 それは飛雅も同じ事だった。


 2人に比べて正也は告白などされた事がなかった。


 そんな事を頭の隅で考えながら文化祭の片付けを1人でこなしていた。


 クラスの文化祭委員全員で片付けを行ったが下校時刻が来てしまい、片付けが全部終わらなかった。


 正也以外のメンバーはそれぞれ打ち上げの予定が入っていた為、残りの片付けを正也1人が引き受けたのだった。



 他のメンバーは申し訳なさそうに帰った。謝りに来てくれた人も居た。


 後日やるという意見も上がったが、残り少ない仕事を正也がやると言って自分から引き受けた。


 今日は飛雅と友菜も予定があるらしく、珍しく1人で作業していた。


 1人寂しく教室の中で作業の音が響く。すると突然、教室の扉をノックする音が響いた。


「⋯⋯委員長」


 振り向くとそこにはクラス委員長の赤原雫がいた。入学式の日に扉の前で立ち尽くした正也に話しかけてくれた女子だ。


「⋯⋯1人で仕事ですか?」


「あぁ。残り少ない仕事だしな。自分から引き受けたんだ」


「本当に竜胆君は人がいいですね。人生損する性格だと思いますよ」



「⋯⋯それでもいいんだ。俺が損する事で皆が笑っていられるならそれでいいんだ」


  正也の瞳をじっと見詰めて雫は微笑んだ。


「本気で言ってる所が本当に凄いですよね。そんな人なかなか居ないと思いますよ」


「自分でも変だと自覚してるよ」


 苦笑いで返すと雫は1歩教室の中へと足を踏み入れる。


「⋯⋯手伝います」


「ありがとう」


 互いに手を動かしながら会話を続ける。


「竜胆君は平田君と友菜さんと仲が凄くいいですよね」


「そうだな。今思うといつも一緒にいる気がする」


「羨ましいです」


「羨ましい?」


「はい。そんなに大切な人がいるなんて」


「ホント、俺には勿体ないくらいだよな。いつも感謝してる。⋯⋯あ、委員長にも感謝してるよ。本当にありがとう」


「いえ、私なんて大した事してないですよ」


 照れながら笑う彼女に瞳を奪われかける。


「⋯⋯それでも、大きな存在だと思うよ」


「⋯⋯ありがとう、ございます」



 会話しながらの作業のおかげかあっという間に時間が過ぎて片付けが終わる。


「本当にありがとう。委員長」


「どういたしまして」


 靴箱で靴に履き替えて校舎を出るとすっかり外は暗くなっていた。


「⋯⋯家まで送るよ」


「あ、ありがとうございます」


 2人で並んで歩いた。少し気まずい空気に会話はさっきよりも少なくなる。


「あ、私の家ここです」


 そう言って立ち止まったのは神社の前だった。


「え?」


 驚きながら神社を見た後、彼女を上から下まで見下ろす。


 神社の名前は『赤原神社』だった。


「⋯⋯赤原、神社って」


 言葉を失う正也に雫は手を口に当てて笑いながら言った。


「私、この神社の巫女なんですよ。学校でもちょっと噂になっているんですけど、知らなかったですか?」


「⋯⋯⋯⋯全然知らなかった」


 驚きを隠せないでいる正也に雫は微笑んで


「⋯⋯今日はありがとうございました」


 と深々頭を下げた。


「こ、こちらこそ。ありがとう」


 そう告げて雫と別れて1人家までの帰路を歩き出した。


 家に着くと夜ご飯のいい匂いが漂ってきた。


「ただいま」と正也の声に「おかえりー」と返される。


「遅くなってごめん」


「全然大丈夫だよ。でも、夜道には気を付けてね」


 母親は優しく出迎えてくれた。父親は長い出張で海外にいる。正也は長男で下には3つ下の妹と4つ下の弟がいる。


 正也に反抗期はなかった。中学3年間も母親の家事を手伝いながら学校生活を送り、高校生になった今も家族の存在を煩わしく思う事はなかった。


「分かってるよ」


「それならば、ヨシ!」


 最近の妹と弟は完全に反抗期の真っ只中で、昔と比べるとかなり会話が減った。


 それでも正也は優しく接し続けた。冷たくしても優しく接してくる兄の存在に妹と弟の態度は少しずつ変わり、少し暖かくなった。


 働きながら家事をこなす母親は正也を含め子供達の成長を暖かい目で見守り続けた。


 それが正也の家族だった。


 充分に愛のある環境で育ったのも正也の優しさの理由の1つなのかもしれない。





 ♦♦♦



 星野(ほしの)紫苑(しおん)は中学生になると共に髪の毛を紅から黒に染めた。紅が混じった黒から完全な黒色の髪の毛に変わる。


 恐怖を乗り越え、カラーコンタクトで紅い眼を黒眼に見えるように工夫した。


 鋭い牙は一定の期間で削って他の歯と区別が付かないように整えた。


 額の小さな突起物は前髪で隠し、『普通』の女の子と変わらないように過ごした。


『友達』と呼べる人も出来た。初めはどう接していいか分からなかった紫苑にその子から接して来てくれた。


 そのお陰で友達と呼べる間柄になった。


 同い歳の女子中学生と変わらない見た目で、事件を起こさずに中学3年間をやり過ごした。その間、正体がバレる事もなかった。



 中学2年の夏。


 優しかった父が亡くなった。


 死因は病気だが、その病気は過労とストレスから来ていた。1人残された紫苑を引き取る人達は存在しなかった。


 父が最後に言った言葉は「幸せに、な」という言葉だった。



 葬儀やお通夜は自分の他に父と同じ職場だった人が数人来ただけの寂しいものとなった。


 祖父も祖母も親戚の顔すら知らない紫苑。


 いや、そもそも存在しているかも怪しかった。


 父が亡くなった後、中学の担任の先生の家に暮らした。そこで家事を学んで1人で生きるスキルを磨いた。


 父の口座のお金で生活に困る事はなかった。

 父が残してくれた財産はとても1人の女子中学生が持てるようなものではなかった。人が一生働いても稼げるか分からない大金が自分に残されていた。


 きっと、父はずっとこの時の事を予想していたのだ。

 貧しかった昔の生活。それでも転校を繰り返せた訳。


 父はずっと私の為にお金を貯め続けてくれた。


 その事実を知った時、私の瞳から大粒の水滴が零れ落ちた。優しかった父。痩せ細った身体。それでも、力強く抱き締めてくれた父。


 少女は絶望に挫けることなく生き続けた。



 中学2年の冬。


 青いマフラーを首に巻いて学校から帰る途中、『あの人』を見かけた。


 街を3人で歩く高校生。


 その3人の内、真ん中を歩くその男子高校生を1目見た瞬間に分かった。激しく鼓動が胸を打つ。


 あまりにも奇跡的な再会に言葉を失い、瞳からすぅ、と涙が零れた。


 きっと、『あの人』には分からないだろう。


 この喜びを、この嬉しさを。


 表現しようのない、この感動を。



 跳ねたいという欲望を必死に抑えた。話し掛けに行く機会は迷っている内に失ってしまった。


 話し掛けに行けなかった自分を必死に呪った。あの日の事を何度も後悔した。


 昔、1度だけ救われた日を今でも鮮明に思い出す。目を閉じると、そこには昔の彼がいる。


 あの日、どれだけ私が救われたのか、きっと『あの人』には分からないだろう。


 名前を互いに知らない。もしかしたら、私の事など覚えてないかもしれない。


 それでも、良かった。


 記憶に残る制服を調べて高校を割り出した。必死に勉強して足りない成績を伸ばした。


 中学3年生になり、その高校の入試を受けた。



 そして――――星野紫苑は高校生になる。




 ♦♦♦


 翌年、春


 高校2年生



 2年生になっても3人の仲が変わる事はなかった。


 竜胆正也にとっての親友、飛雅は4月の後半には後輩の女子から告白されていた。


 サッカー部という事もあってか後輩の女子からかなりの人気を集めていた。


 もう1人の親友、友菜も女子テニス部としての実力とルックスを兼ね備え、一部の男女から人気を集めていた。


 2人は部活とバイトで忙しくなり、学校帰りに遊びに行く機会は少なくなっていた。


 正也は部活には入っておらず、バイトもしていない。授業後は学校に残って先生たちの手伝いや、クラス委員長の赤原雫の手伝いをする事が多くなった。


 それでも、月に数回は休日に遊びに行く。

 カラオケ、ボーリング、ゲームセンターなどや普通に買い物に出かけたりもする。



 そんな学校生活が続き、最初のテスト期間に突入する。


 正也は今まで1桁の順位を常にキープし続けてきた。今回も1桁順位を狙う為、その日は授業後に図書室を訪れた。


 テスト期間という事で、ほとんどの部活が休みになり、生徒たちはいつもより早めに帰宅する。


 家に帰って真面目に勉強する者もいれば、友達とどこかに出かけて遊ぶ者もいる。家に帰っても、ゲームなどで時間を潰す者もいる。


 正也は真面目に勉強する方と周りから思われがちだが、実は家に帰ると勉強のやる気がなくなるタイプだった。


 家に帰れば、スマホを触りたくなる。テレビをつい見てしまう。


 だからこそ、それを避ける為に学校に残ったり、市内の図書館に出かけて勉強をする。


 物覚えは悪い方ではないが、そういった才能がある訳でもない。人並みの努力でやっとこそ望むものを手に入れられる。


 正也は通学が徒歩なので学校帰りに図書館に寄ることは難しい。バスを利用すれば行けないことは無いが、学校から家に帰る方角と逆方向に図書館があるので学校に残って勉強する方が時間が有効的に使える。


 学校の図書室は校舎の最上階にあり、窓からは学校の周りの風景が見られる。


 少し開かれた窓から吹く優しい風に当たりながら涼しく、快適な環境で勉強を行える。


 図書室にはそこそこの生徒が居た。それぞれが疎らに座って机に向かっている。


 静かな室内に響くペンを走らせる音が心地よい。その中で1番最後尾に置かれた机の奥側の席に誰も座っていない事に気が付いた。


 正也は机の間を通り抜けて最後尾の机の奥側へと移動する。そして、一番端の窓側の席に座った。


 正也が座った後に数名の生徒が入って来る。恐らくだが、1年生だ。


 慣れない図書室に困惑しつつも、正也が座った列の反対側に

 腰を下ろした。


 室内の空席が埋まっていく。正也は机の上にテキストとノートを広げた。手にシャーペンを持ち、上側の先端に親指で数回押す。

 下側の先端から出てきた黒色の芯でノートに重要語句、数式を写していく。


 そうして、正也が集中しだした頃、不意に左肩を突っつかれた。


「す、すみません」


 振り返るとそこには1人の女子生徒が立っていた。


 初々しい態度で直ぐに1年生だと気付いた。歳下の女の子。黒い髪をストレートに伸ばしている。

 眉毛まで伸びた前髪に正也よりも小さい身長。


 スラッと立つ姿勢に一瞬目を奪われた。


 いや、常にこの時、目の前の女の子を『可愛い』と思ってしまったのかもしれない。


 言葉が出てこない正也に女の子は口を開いた。


「⋯⋯隣、いいですか?」


「あ、うん。いいよ」


 少し焦って頷く。


 隣に後輩の女の子が座っているという場面で多少の緊張はあったが、直ぐに勉強に集中した。時が経つのは早く、定時時間になる。


 生徒がテスト期間中に学校に残っていいのは定時までと決められていた。チャイムが響いて定時の15分前を知らせる。


 正也はテキストとノート、筆記用具を片付けて席を立った。ふと、隣の女子に目を向ける。後輩の女の子は問題が解けずに悩んでいた。


「⋯⋯えっと、そこは使う式が間違っていて⋯⋯⋯⋯」


 と無意識に助言してしまった。途中まで言いかけて、正也の思考回路が停止する。



 後輩の女の子も驚いた様子で正也を見上げた。


「あ、ごめん。勝手に⋯⋯⋯⋯迷惑だよね」


 苦笑いでその場をやり過ごそうとする。急いでその場から離れようとした時、制服の袖を引っ張られて体勢を崩しそうになった。


 今度は正也が驚いて女の子を見詰めた。


「め、迷惑じゃないです。ありがとうございます!」


 女の子は席を勢いよく立ち上がって必死に頭を下げた。

 必死になってお礼を言う姿。上目遣いで正也を見上げた。


「⋯⋯そ、それなら良かったよ」


 正也が微笑むと彼女も笑顔になる。


「も、もし先輩が大丈夫でしたら、分からないところ聞いてもいいですか?」


 彼女は赤面で俯く。それを見た正也は「うん。いいよ」と頷く。


「ほんとですか?」


 彼女は顔を上げてパッと表情が一瞬にして晴れた。

 正也はもう一度頷く。


「⋯⋯私、星野紫苑って言います。先輩の名前を聞いてもいいですか?」


 少し早口で彼女に名前を聞かれる。後輩の女子から名前を聞かれるなんて初めての出来事だ。


「⋯⋯竜胆、正也だ」


 正也は少し照れ臭そうに笑って自分の名前を告げた。


「⋯⋯竜胆、先輩」


 彼女は1人呟いてその発音を噛み締める。



 ――――それが、彼女との出会いだった。




 ♦♦♦



「⋯⋯竜胆、正也先輩」


 帰り道。心の声が口に出る。


 つい、数分前の出来事を思い出しながら想い人の名前を繰り返す。


 本人から名前を聞く前から先輩の名前は知っていた。同い歳の女の子から人気な平田飛雅先輩と仲がいい事でちょっとした噂になっていた。


 だから入学して直ぐに先輩の名前は知る事が出来たのだ。


 それでも、話し掛けに行く事など到底無理だった。

 頑張って勉強して高校に入学出来た。

 同じ高校に入れば何かが変わると思っていた。そう思い込んでいた。


 それでも、実際は何も変わらなかった。昔の、あの時と同じ。


 話せる勇気なんて持っていなかった。


 勇気のない自分自身を何度も呪った。


 歳上の先輩に気軽に話し掛けに行く同い歳の女の子を羨ましいと思った。


 先輩に告白した同級生に憧れた。

 先輩と付き合った同級生に嫉妬した。


 歯痒い毎日を過ごした。偶に校舎ですれ違う日々。顔を見る事ができなかった日。


 苦しかった。


 想えば想うほどに胸は締め付けられた。



 あっという間に時間は過ぎていき、初めてのテスト期間になってしまった。


 先輩は帰ってしまったのだろうか?


 高校生は図書室でテストの勉強をする事がある、と中学の頃友達に聞いた事があった。


 授業が終わり、多数の生徒が帰宅する中、目の前を歩く同級生の集団が図書室で勉強していくという話を後ろで聞いていた。


「⋯⋯もしかしたら、先輩がいるかもしれない」



 それだけを望んで図書室を訪れた。


 部屋の中を見渡す。机に向かって勉強する先輩、同級生を1人ずつ確かめるように見詰めた。


 そして、見つけた。

 そこに、先輩がいた。



 自分の中にある勇気を掻き集めて、先輩の左肩を突っついた。


「す、すみません」


 たった一言。それだけの言葉を喉の奥から出すのにどれだけのエネルギーを使っただろうか。



 私は無事に話し掛けることが出来た。


 先輩の横に座って勉強をする。勉強をする振りだ。集中などできる筈がなかった。

 ずっと夢に見た光景を目の当たりにしているのだから。


 うるさくなる鼓動を必死に抑えようとする。



 あっという間に時間は過ぎて帰らなければいけない時間になってしまった。


 結局、私は先輩と会話する事が出来なかった。自分の情けなさに落ち込んでいたその時、先輩の方から話し掛けてくれた。



 あの優しさは今も現在していた。


 心臓が飛び出そうになるほど嬉しかった。


 そして、私は先輩に自分の存在を刻み込んだ。自分の名前を教えて先輩の名前を聞いた。


 私はようやく前進できた。


「竜胆、先輩」


 ハニカミながらもう一度その名前を呟いた。




 ♦♦♦


 翌日もその後輩は正也の隣に腰を下ろした。


「お疲れ様です」


 そう言って星野紫苑は正也に話し掛けた。


「うん。お疲れ様。星野さん」


 2人で並んで勉強をする。時折、彼女の質問に答えて勉強を教える。図書室は静かなので、目立たないようにそっと声を潜めて。



 勉強を教える日々は続き、やがてテストが終わる。


 悔やむ者、やりきった者。数日の間で彼女とは随分親しくなった。


 テストが終わってからも校内で見かけると彼女は軽く会釈してくれた。

 正也もそれに答えるように軽く手を上げる。


 そんな微笑ましい関係が続いた。テストが返されると授業後に彼女が会いに来てくれた。


 その事に驚いたが、彼女はテストの結果を報告しに来てくれただけだった。


 正也が教えた事もあってか、いい結果だった。テストが全部返された後、順位が発表される。


 正也は今回も1桁順位だった。



 ある日の授業後。


 正也は学校に残り、友菜と一緒に先生の仕事の一部を手伝っていた。


 その日は雨で外部活は部活が出来ず、女子テニス部は休みになったらしい。


 雨が降ってもサッカー部や野球部は校舎の中で筋トレなどを行う。


 授業中にノートを集める予定が、先生が忘れていた。授業で集め忘れたノートを帰りにクラスメイトから集めて先生の元まで運ぶという簡単な仕事だった。


 ノートを半分ずつ持って校舎の中を2人で並んで歩く。


 すると、前から知り合いの後輩の女の子が歩いて来るのが見えた。


「あ、先輩だ」


 彼女はなんだか嬉しそうに正也に近付いてくる。


「ノート運びですか。お疲れ様です」


 笑顔な後輩に正也もニヤけてしまう。


「うん。星野さんは今帰り?」


「そうですね。あ、そう言えば今日の授業で少し分からなかった場所があるので、また今度教えて下さい」


「分かった。明日、空いてるか?」


「はい」と正也の質問に彼女は笑顔で頷く。


「それじゃあ、明日の授業後でいいか?」


「そうですね。お願いします」


「⋯⋯じゃ、気を付けて」


「さよなら」


 2人のやり取りを見ていた友菜は後輩が離れていった後、何故か正也を見てニヤける。


 と言ってもワザとニヤけてるように見えた。


「どうしたの」


「いやー、知らなかったなー。正也があんなに可愛い子と知り合いだったなんて。しかも、後輩だし」


「知り合いって言っても勉強を教えてるだけだよ」


「えー。恋愛感情はないの?」


 苦笑いで答える正也に友菜はからかうように質問をする。


「⋯⋯今のところは」


 と言葉を濁す。


「嘘だー。正也も男の子だし、あんなに可愛い子が近くに居たら好きになっちゃうでしょ!」


「いやいや」


「⋯⋯向こうは正也の事が好きかもしれないよ?」


「それこそ、ないだろ」


「ふーん」


 苦笑いで否定する正也をジト目で見詰める友菜。


 そうこうしている内に職員室に着いてしまう。扉をノックして中に入室する。ノートを届き終えた2人は一緒に靴箱へと向かった。


「⋯⋯正也って案外鈍いんだね」


「へっ?」


 その途中で唐突に呟いた友菜の言葉に正也の声が裏返った。


「そ、それはどういう?」


「さあね」


 笑って小走りで逃げる友菜。それを追いかける為に正也も小走りになる。


「ちょ、危ないぞ」


「大丈夫だって」


 正也の忠告を無視して逃げ続ける友菜を追いかけ靴箱に到着する。


 先行していた友菜の背中に追い付いた所で友菜が急に停止した。


「⋯⋯どうした?」


 と身を乗り出すと目の前に鞄の中を漁る星野さんがいた。


 しゃがみこんで必死に何かを探している星野さんに友菜が話し掛けた。


「後輩ちゃん。どうしたの?」


「え?」


 と驚いた声を漏らして振り向く星野さん。


「あ、えっと、傘が見当たらなくて」


「なるほどね」


 友菜は意味深な視線を正也に送った。


「ん?」


 その意図を察する前に友菜は勝手な事を言い出した。


「大丈夫。この先輩が家まで送ってくれるから」


 そう言って正也の手首を掴んで引っ張る。


「「えっ?」」


 正也と星野さんの零れた声が重なる。



 互いに顔を見合わせて照れてしまう。


 そんな初々しい光景を見て笑いながら「じゃあ、しっかりね正也」と言って友菜は走り去って行った。


 後輩の女子を残してその後を追いかける事も出来ず、正也は取り残されてしまう。



 しばらくの間、沈黙が続く。星野さんは俯いてしまい、表情を読み取ることが出来ない。


「⋯⋯⋯家まで、送るよ」


 そう切り出した正也は靴を履き替えて傘を広げた。


「⋯⋯⋯あ、ありがとうございます」


 星野さんは俯いたまま正也の隣に移動した。

 広げた傘の中に入って2人は並んで歩き出した。正門前の坂を下る。2人にの間に会話はなく、なんとなく気まずい空気になる。


 後輩の女の子がいきなり先輩の男子と帰ることになればこんな風にもなる筈だ。

 緊張しているのか、彼女はずっと俯いたままだった。


「⋯⋯ごめんね。友菜の奴がいきなり」


「あ、いえ」


 正也が切り出した言葉に対しても、いつもと違った返し。

 また沈黙の時間が続く。


「⋯⋯友菜先輩とは仲がいいんですか?」


 急に隣を歩く星野さんが口を開いた。


「うん。親友なんだ」


「⋯⋯そうなんですね」


「星野さんは、どうしてこの学校を選んだの?」


 会話が途切れてはいけないと、正也が話を振った。


「え!」

 彼女の口から驚いた声が漏れた。


「⋯⋯そ、それは⋯⋯」


 聞いてはいけなかったのか、少し迷っているように見えた。


 話題を変えようと正也が口を開きかけたところで彼女はか弱い声で呟いた。


「⋯⋯逢いたい人が、いたからです」


 その答えに酷く胸が痛んだ。いや、きっとそうじゃない。

 隣を歩く後輩の女の子が「女子」なのだとハッキリと認識してしまったのだ。


 俯いたまま彼女の顔。垂れた前髪から少し覗くその表情があまりにも可愛かったからだ。


 今まで女の子を『可愛い』と思った事は何度もある。それでも、この時の衝撃は今までにないものだった。

 まるで何かを抉られるような、そんな衝撃だった。


 雨が傘に弾けて程よい音が正也の耳を支配した。きっと、これ程までに「女子」を意識したのは初めての事だった。


 決して、初恋ではないけれど。


 この感情が『それ』に近いものなのだと。

 そう感じた。



 その後も、たどたどしい会話が少し続く。


「あ、」


 彼女の声が漏れ、立ち止まる。彼女の足は止まり、気が付くとT字路だった。


「私の家こっちです」


「あ、そうなんだ」


 彼女の歩みが再開する。正也はそれに続いた。

 彼女に案内されながら、彼女の家に着いた。


 普通の一軒家。二階建てで、白く四角い家。


「ありがとう、ございました」


 彼女は深々と頭を下げた。


「うん。じゃあね」と正也の言葉に「はい。さよなら」と笑顔で答えた。


 少し寂しげに笑う彼女。そのまま家の扉を開けて中えと消えていった。


 その家を見つめる。見える窓の奥は暗い。駐車場はあるが、車は1台も駐車されていなかった。


 正也は自分の家への帰路を歩き出した。




 ♦♦♦



 翌日。


 登校して教室に入ると、友菜がニヤニヤしながらこっちを見てきた。


 その視線をワザと無視しながら自分の席に座る。それを見た飛雅が首をかしげながらこっちに近付いてくる。


「友菜のやつ、どうしたんだ?」


「⋯⋯⋯わかんない」


 その日は授業後まで意味のありげな友菜の視線を躱しながら過ごした。


 授業後。図書室に寄った。


 既に星野さんは来ていて、机の上で教科書を開いていた。その日は他の生徒が見当たらず、図書室のカウンターには女性の先生が1人いるだけだった。



 机の間を抜けて星野さんが座る席まで移動する。


「あ、昨日はありがとうございました」


 正也に気付いた友菜は頭を下げた。


「そんなに畏まらなくても大丈夫だよ」


「⋯⋯いえ、先輩ですので、そういう訳にはいきません」


「そう?」


「はい」


 正也は彼女の隣の席を後ろに引いて座った。


「⋯⋯それで、どこが分からなかったの?」


「あ、ここです」


 その日もいつもと同じ様に勉強を教えた。帰る時にはポツリポツリと雨が降り出していた。


 勉強が終わり、2人で靴箱まで移動する。


「お、今帰りか?」


 そう声をかけてきたのは飛雅だった。


「あぁ。飛雅は?」


「急に降ってきたからな。まだ片付けが⋯⋯」


 と言いかけたところで飛雅は正也の隣にいる女子を見詰めた。


 固まった飛雅に正也は首を傾げた。


「⋯⋯なんか悪ぃ」


「え?」


「邪魔したな!」


 と言って飛雅は小走りで去っていった。


「⋯⋯誤解、されたかな」


 取り残された正也が呟く。


 彼女からの返答はなく、暫く沈黙になる2人。


「⋯⋯帰るか」


「⋯⋯はい」


 靴を変え、互いに傘を広げる。お互いに歩き出すが、昨日より距離は遠い。


 きっと、話した時間は昨日より短い。あっという間に彼女の家の前に着いてしまった。


「今日も、ありがとうございました」


 彼女はいつもと同じ様に微笑む。


「うん」


 正也はそう答え、星野さんはその場に固まる。互いに見詰め合うという謎の時間が生まれる。


「え、えっと、それじゃあ」


「⋯⋯は、はい」


 正也は無理やりその場から離れる。これ以上何を話していいのか、分からなかった。



 ♦♦♦


 2年生になって2回目のテスト期間になった。


 正也は図書室に行く為に階段を上る。きっと、図書室には彼女がいる。


 勿論、勉強をしに行く為に図書室に向かっているのだが、心のどこかではきっと他の目的を求めている。



 学年が違うということもあってか、校内で彼女を見かけない日もある。


 彼女と話せない日も何度かあった。


 あの日以来、彼女とは帰りが一緒にならなかった。正也はこれまで通り、授業後に先生の仕事の手伝いなどをする為に学校に残る事が多かった為だろう。


 梅雨が終わり、暑苦しい季節が訪れる。


 正也は額の汗を手の甲で拭って図書室の扉を開いた。中からひんやりとした風が正也を包んだ。


 涼しい室内には案の定、生徒が勉強をする為に机に向っている姿が多く見られた。その中で彼女の姿を探す。


 左奥の一番端っこに彼女の姿があった。残念な事に彼女の周りの席は空いてなかった。


 正也は彼女から少し離れた席に腰を下ろした。勉強に集中していると時間は直ぐに流れていった。


 下校時間になり、生徒たちが減った室内でまだペンを走らせる彼女の姿が目に入る。


 正也は立ち上がって彼女に近付いた。近付いてくる人の気配に彼女も気付いたようで顔を上げた。


 ぺこりと会釈する彼女に微笑んで返す正也。


「帰らないのか?」


「あ、もうそんな時間なんですね」


 正也の質問に時計を確認した彼女は少し驚いた様に笑った。


「あぁ。何かに集中していると、時間の経過って早いよな」


「そうですね。先輩は帰らないんですか?」


「あー、そろそろ帰るかな」


 正也の言葉に彼女は俯きながら口を開く。


「⋯⋯一緒に帰っても、いいですか?」


 上目遣いでそう聞いてくる後輩のその言葉を断る事は勿論、出来ず⋯⋯。


「⋯⋯あぁ。いいよ」


 2人で帰りながら色んな事を話した。


 休日の過ごし方、趣味、好きな物⋯⋯



 お互いにお互いの事を知る機会はきっとこれが初めてだった。



 帰り道の途中で近くの公園に寄った。公園の端にある滑り台。その横にあるブランコに2人して腰を下ろした。


「星、綺麗ですね」


 隣のブランコに座る星野さんは空を見上げる。


「⋯⋯あぁ。そうだな」


「私、星好きなんですよ。全然詳しくないですけど、見ていると心が落ち着きます。だから、嫌な事があったらここに来るんです。公園の明かりで少し見にくいですけどね」


 彼女は笑ってそう言った。暫くの間、2人で星を眺めた。

 彼女を家まで送り届けて、正也は自分の家までの道を引き返す。



 そして、テストが終わり彼女と会う機会が減る。


「ねー今年は花火どうする?」


 昼の教室で友菜が正也と飛雅に対して口を開いた。周りでも同じ様な話題で話しているクラスメイトたち。


「そうだなー俺と友菜の2人だけっていうのもなー」


 飛雅が言った言葉を正也は理解できなかった。


「ん?ちょっと待て。もしかして、俺今サラっと仲間外れにされた?」


 正也が驚いて声を上げる。


「だって正也、彼女いるじゃん」


 ニヤニヤした友菜の言葉に飛雅も乗っかる。


「そうだよなー」


「いや、ちょっと待て。あの子は彼女じゃないから」


 否定する正也を友菜と飛雅はニヤニヤしながら見詰める。


「でも、誘うんでしょ?」


「⋯⋯い、いや⋯⋯」


 友菜の言葉に正也は顔を背ける。


「⋯⋯じゃあ、私が誘っちゃお!」


 そう言って席を立つ友菜。「え?」驚いた正也は反応が遅れた。


「じゃあね」


 そう言いながら教室を出ていく友菜を止める為に正也は席を立とうとしたが、それを飛雅に阻まれる。


「ちょ⋯⋯」


「行かせねぇし」





 友菜は後輩の女の子の姿を求めて校内を歩く。女子テニス部のエースの姿に振り返る男子の姿など目には入らない。


 中庭に出た時、彼らの姿が目に入った。


 4人の男子生徒が3人組の女子生徒を壁まで追い詰めている光景がそこにはあった。


「止めてください」と1人の女子生徒が怯えた声で言う。それに「えー」「なんでー?」とケタケタと笑う男子生徒。


 男子生徒の1人が女子生徒の手首を力強く掴む。



「ちょっと、なにしてんの!」


 友菜は後先考えずに前に出た。きっと、1年前の自分なら萎縮していたであろう。


 近付いてくる友菜に男子生徒達は笑いながら「女子をデートに誘ってるところですよ」と口を開く。


 決して、そんな風には見えなかった。友菜が怒りを抑えられずに更に近づいた所で、女子の手首を掴んだ男子生徒はその手首を引っ張って、女子生徒を自分の前へと引きずり出した。


 自分の目を疑った。


 自分が探していた後輩の女の子が「痛っ」と悲鳴を上げて前に出てきたのだ。


 言葉を失い、停止した友菜を越えて正也が飛び出す。


「何してんだ!」


 叫んだ正也の声が耳に響く。


「先輩⋯⋯」


 と後輩の女の子から零れる言葉。目の前で正也が男子生徒の手首を力強く掴む。


 痛みで男子生徒は後輩の女の子の手首を放した。


「だから、女子をデートに誘ってるって言ってますよね!」


 その男子生徒を庇うように他の男子生徒が前に出てくる。


「すみません!」


 そこで、星野さんの叫び声が響く。男子生徒も、正也も、友菜も星野さんに釘付けになる。

 集まりかけていた野次馬たちも星野さんに目を奪われた。



「私、この先輩と花火に行くので!」


 星野さんはそう言って横の正也の手首を掴んで見せた。


 正也は驚いた顔で横の星野さんを見詰める。星野さんは息を切らしながら頭を下に向ける。


「マジかよー」等と言いながら男子生徒達はガッカリした様子で散っていく。その場にいた残りの女子生徒は星野さんの友達なのか、安堵の息を吐きながら目を輝かせて星野さんを見詰めていた。


 そして、私もまた2人の後ろ姿を見詰めていた。




 ♦♦♦



 夏休みが始まった。


 あの件以来、2人の関係がちょっと噂になったが、それでも、関係が変わることは無かった。



 花火大会当日。



 正也と飛雅は橋の前で残りの2人を待っていた。


「遅くなってごめん」


 そう言って慌てながら小走りで現れる友菜。そして、友菜に手を引かれて現れる星野さん。


「すみません。遅くなりました」


 浴衣姿の星野さんに目を奪われる。言おうとしていた言葉を飲み込んでしまう。


「⋯⋯どう、ですか?」


「似合ってるよ」


 平常心を保ち、言葉を口にする正也。そして、照れる星野さん。


 そんな2人を見て、ニヤニヤする残りの2人。



 夏休みになってから連絡は取り合っていたが、会うのははじめてだった。


「それじゃあ、行くか」


 そう言って歩き出す飛雅と友菜に続いて2人も歩き出す。



 射的、金魚すくい、りんご飴、焼きそば、たこ焼き⋯⋯


 数ある屋台の間を4人で歩く。人の混み具合が酷く、人の流れはかなり遅い。


 4人は流れに乗りながら屋台を巡って歩いた。



 1時間が経過した頃。


 正也と星野さんは他の2人とハグれていた。


 気が付くと周りに2人の姿が見当たらず、正也と星野さんは2人で人の波から離れて静かな所で休憩していた。


『はぐれちゃったね。再会するのも大変だし、このまま回ろっか』


 携帯には友菜からそうメッセージが入っていた。


「⋯⋯あいつら」


 正也がそう独り言を呟く。


「人の数、すごいですね」


 少し目を輝かせて星野さんは口を開いた。


「⋯⋯もしかして、来たの初めて?」


「はい。そうなんです。いつもは家で1人で見てます」


 寂しげに、それでも強く笑う彼女に胸が締め付けられる。


 初めての思い出を残念なものにしたくない。

 正也は星野さんの手を掴んだ。


 驚いた声を上げる星野さんに構うことなく、正也は人の流れの中に突撃した。


 人を掻き分けて進んでいく。


 少し進んだところで人の流れから抜け出して小道に入る。

「ちょっ、先輩?」


「一番、綺麗に見える所に行こう」


 正也はそれだけ説明して進み続けた。


 林の中を抜けてすこ開けた広場に出る。周りに人の姿はない。


 少し切れた息を整えていると⋯⋯

 暗闇の空に口笛じみた音と共にひとつの火の玉が打ち上げられた。


 打ち上げられた火の玉は炸裂音と共に弾けて夜の空に一輪の大きな花を咲かせた。


 一瞬で視界いっぱいに広がった火の粉がキラキラと輝く。


 それを合図に次々に花火が打ち上げられた。赤、青、緑と色鮮やかに闇の中に光の花が咲いていく。


 星野さんは空を見上げて固まる。息を飲み、目を輝かせる。耳に届く炸裂音に心臓の音は掻き消された。


 手の先から愛しい人の体温が伝わってくる。胸を焦がすほどの感動に星野さんの眼から一滴の涙が零れ落ちた。


 嗚咽じみた声を殺す隣の少女に、正也はそっと繋がれた右手に力を込めた。



 ♦♦♦


「ありがとうございます」


「うん。それじゃあ。おやすみ」


「おやすみなさい」


 浴衣姿の少女はそう言って家の中に消えた。暗かった家に明かりが付く。


 正也は星野さんを家に送り届けた後、家までの道を1人で歩いた。


 結局、飛雅と友菜には再会する事がなかった。真新しい思い出に浸りながら暗い道をあるく。少し進んだところで目の前の街灯の下で立ち止まる男性に気が付く。


 1人でただ立っている男性は正也を見詰めていた。

 その姿は高校生くらいに見える。記憶のない顔だが、ずっと見られている気がした。


 背筋が凍る感覚に冷や汗が出てきて早足でその場を通り過ぎようとした所で、その男性が口を開いた。


「⋯⋯君、あの子の知り合いなのかな?」


「え?」


 正也は立ち止まって男性の方を見た。やっぱり知らない顔だった。男性もまたその細目で正也を見詰めていた。


 男性の言う『あの子』というのが直ぐに星野さんの事だと分かった。


 この場所からは星野さんの家が見える。つまり、この男は正也が星野さんを送り届け、家の前で別れた所を確認していたことになる。


「⋯⋯星野さんの事ですか?」


 正也の質問に男性は首を傾げた。

「そうやね。君がさっき別れた女の子の名前が星野さんならそういう事になるね」


 その言葉に正也は男を警戒し始めた。今の言葉で、目の前の男が星野さんの関係者でもない事が分かったからだ。


「⋯⋯ストーカー行為は犯罪ですよ」


 男性はその言葉に笑いだした。


「あははは、君面白い事言うなぁ。僕がストーカーって⋯⋯⋯正気で思ってる?」


「少なくとも今はそう見えますね」


「あはははは。君、度胸あるね」

 男はそう言って細い目で正也を睨む。


「ひとつ訂正しとくと僕はストーカーじゃない⋯⋯って言っても信じてくれんか⋯⋯⋯⋯そうだねぇ。じゃあ、忠告だ。彼女の事、あまり信用しない方がええと思うよ」


 意味の分からない事を言い残して「じゃあね」とその場を去る男性。


 数時間前の思い出に浸ることも出来ず、その日は帰宅した。



 ♦♦♦



 夏休みが終わり、二学期が始まる。


 あの日以来、星野さんとは会えていなかった。変な男の件もあったし、心配にはなったが突然会いたいと言うことも出来ず、メッセージでのやり取りだけとなってしまった。


 だから、登校する途中で星野さんの後ろ姿を見た時は本当に嬉しかった。


 他の女の子と歩いていたので、声をかける事は出来なかったがそれでも、良かった。



 チャイムが響いて、先生が教室の中に入ってくる。夏休みの思い出話などで盛り上がりつつあった教室の空気が静かになっていく。


「唐突だが、今日からこのクラスに転校してきた転校生を紹介する」


 あまりにも唐突な出来事にクラス内の空気がザワザワし始める。


 教室の扉が開かれて、中に入って来た男子生徒の姿に正也は目を見開いた。



「どうも。白守(しらもり)和斗(かずと)です。よろしくお願いしますーす」


 細い目が特徴のその男は花火大会の帰り道に正也に話しかけてきた変な男だった。



 授業後。正也は白守和斗と名乗る男を連れ出して屋上に来ていた。


「⋯⋯どういうことだ」


「んー?何が?」


 正也の質問に答える気がないのか白守和斗は空を眺めていた。


「そうまでして、彼女を付け狙うのか」


「しつこいなぁ君も。僕はストーカーじゃないって言っとるじゃん」


「だったら⋯⋯」


「それよりもさ、僕にあの子の紹介してくれん?」


 言いかけた正也の言葉を遮るように白守和斗は口角を上げる。


「は、はぁ?ふざけてるのか?」


「君の事聞いたよ。今日一日で」


 白守和斗はまたも正也の言葉を無視して語りだした。


「正しい男、優しい男。君の事を聞いて返ってくるのはそんな言葉ばかりだった。そして、星野紫苑」


 彼女の名前が白守和斗の口から発せられた時、正也の両肩が震えた。


「彼女の事も聞いて回ったよ。優しい子、静かな子、可愛い子。⋯⋯⋯そんな言葉ばかりで飾られている。君も、星野紫苑も。⋯⋯⋯⋯悪い事は言わない。これ以上、星野紫苑には近づかない方がいい」


「お前に、そんな事を言われる筋合いはない!」


「⋯⋯⋯君が言うことを聞かないなら、僕が化けの皮を剥ぐ」


 そう言って白守和斗は正也の横を通り過ぎて屋上から去っていく。正也はその後ろ姿を睨んだ。



 翌日から白守和斗は学校を休んだ。転校してきた次の日から学校をサボるという異例の事態に職員も騒いでいた。


 星野さんが心配という理由で星野さんと一緒に帰る日々が暫く続いた。



 白守和斗は偶に学校に出てくるものの休む事が多く、生徒や職員から避けられるようになっていった。


 一体、彼が何を考えているのか理解できなかった。


 体育祭、文化祭と学校行事が過ぎていく。



 そして、季節は冬になった。



 ♦♦♦



 その日も正也と星野さんは一緒に帰り道を歩いていた。二学期になってから星野さんも学校に残る機会が多く、帰りは冬という事もあって暗かった。


 星野さんは首に青いマフラーを巻いて正也の隣を歩く。


 吐いた息が白いモヤになって消えていく。


「今年も随分と、寒いな」


「そうですね。私、寒いのは苦手なんです」


「そう言えば、星野さんがマフラー巻いてる姿、初めて見るな」


「そ、そうですね」


 急に俯く星野さん。顔が見えず、少し不安になった。

 沈黙になる2人は並んで歩いた。


「⋯⋯⋯⋯これ、宝物なんです」


「そうなのか。親が贈ってくれたやつ?」


「⋯⋯いぇ⋯⋯⋯⋯これは―――――」


 少女の続く言葉が発せられる事は阻まれた。


 2人の目の前に立つ転校生、白守和斗。


 彼は薄ら笑いを浮かべて少女を睨んだ。

 その眼光に萎縮する星野さんを庇うように正也が前に出た。


「⋯⋯白守、和斗」


「そこを退くんだ竜胆正也君」


「⋯⋯嫌だね」


「そうか⋯⋯それならば仕方ない。行け!犬神」


 白守和斗は勢い良く手を水平に振り払った。その軌道上から素早い影が飛び出す。


 その何かは地面を蹴って正也を通り過ぎ、後ろの彼女に噛み付いた。


「きゃぁぁぁぁぁぁっ!!」


 背後で発せられる星野さんの悲鳴に正也は後ろを振り返る。


 星野さんは尻もちを着き、倒れていた。彼女の右腕と左脚に噛み付いた()()は2匹の犬だった。


 ⋯⋯いや、普通の犬ではなかった。変な小さい雲を纏った真っ白な犬が彼女に噛み付いていた。


 反射的に正也はその2匹の犬を蹴り飛ばした。犬は悲鳴をあげて吹き飛び、空中で回転して着地した。



 犬は唸り声をあげて正也を威嚇する。


「星野さん!」


 そんな犬に目もくれず彼女に寄り添った。

 星野さんの制服には血が染みている。垂れ落ちた赤い血液が地面にポタポタと零れ落ちる。


 我慢の限界だった。

 傷付いた彼女を見て、正也は怒りの矛先を白守和斗に向けた。訳の分からない理由で訳の分からない方法で大切な人が傷付けられた。


 正也に不安や恐怖はなく、怒りだけが満ちていた。


 奥歯を噛み締めて白守和斗を睨む。


「⋯⋯怖いねぇ」

 白守和斗は正也を見下ろしてそう口を開いた。


「⋯⋯白守!」


 正也は立ち上がると共に拳を握って突進した。それに反応して正也の拳を軽々と避けてみせる白守和斗。避けられたことで正也の体勢が崩れる。それを見逃すこと無く、白守和斗は足を引っかけて正也を転ばした。


 無力にも倒されてしまった正也。悔しいが、白守和斗は喧嘩慣れしている。正也では適わなかった。


「やれ!犬神」


 白守和斗の命令とともに2匹の犬が彼女に飛びかかった。正也はその光景を目にして、急いで立ち上がる。彼女に駆け寄って犬を追い払う。


 更に酷い傷を負って倒れる彼女の姿に正也は涙目になってその名前を呼んだ。


「⋯⋯先輩」


 正也の声に答えるかのように彼女は口を開く。


「⋯⋯やれ!」


 そこに追い討ちをかけるように命令が下された。正也ごと星野さんを狙った犬の攻撃に正也は為す術が無かった。


 彼女に覆い被さる形で攻撃から彼女を守ろうとした。身を呈して守ろうとしてくれる先輩の姿に少女は涙を落とした。


 犬神が正也の背中に噛み付こうとしたその時。

 異変が起きた。


 正也の体をすり抜けた彼女は()()()()()で襲い掛かる犬を切り裂いた。


 白いモヤとなって消える2匹の犬。


 正也は目を見開いてその光景を見詰め、自分の目を疑った。


 ――――――鬼が立っていた。


 風が吹き、長い前髪が揺れてその隙間から2本の小さな突起物が現れる。


 黒に染められた髪は紅へと変色し、カラーコンタクトもその効力を失った。


 長く紅い髪、紅く光る眼、鋭い爪と牙、そして小さな2本の角。


 寂しげに微笑む彼女はこちらを振り向く。彼女の首を巻いていた青色のマフラーが地面に落ちる。

 闇夜の冷たい風が彼女の涙を優しく吹き飛ばす。


「本性出したな!化け物め!」


 白守和斗はその鬼を睨んで声を上げた。鬼は白守和斗をに向き直ると、跳躍してその場から離脱した。


 人間離れした身体能力に白守和斗は為す術なく彼女を逃がした。


 起こった衝撃に正也は両腕で頭を守る事に精一杯だった。


「⋯⋯逃さんで、目鴉」


 白守和斗は再び手を振り払う。すると、今度は額にひとつの目を持った鴉が3羽現れた。


 鴉はそのまま上昇して三方に散った。



「⋯⋯今見た事は忘れて帰り。⋯⋯ついでに星野紫苑の事も忘れるんやな」


 白守和斗は動けない正也にそれだけ言い残して去っていく。

 正也はただ、それを見ている事しか出来なかった。





 一体、どれだけの時間が経ったのだろうか


 正也はゆっくりと身体を起こした。寂しくも取り残された正也。地面に落ちた青色のマフラーに近寄る。


 その場にしゃがみこんでそれを拾い上げた。ほんの少し前まで正也の隣にいた少女のものだ。


 だが、そのマフラーに正也は見覚えがあった。⋯⋯いや、そのマフラーの手触りには確かに覚えのある感触と暖かさがあった。


 このマフラーは昔、正也が母から貰い、寒い冬の日にとある少女の首に巻いた⋯⋯⋯⋯⋯⋯。


 込み上げてくるものをグッと奥に押し込む。



『―――――先輩』


 浮かぶ少女の顔。


 あの時、怖かった。恐ろしかった。きっと、顔にそれは出ていた。


 あの時、彼女は泣いていた。


 あの時、俺はただ見ている事しか出来なかった。



 少女はこのマフラーを『宝物』だと言ってくれた。


 少年は立ち上がる。そのマフラーを右手に。





 ♦♦♦


 ――――世界は私の事を嫌っていた。


 ――――いつも世界は私に冷たくする。



 寒い冬の夜。化け物の少女は物陰に隠れ、蹲っていた。帰り道から少し外れた公園の端にある滑り台の下で膝を抱えていた。

 他に人の気配はない。暗闇の中で独り蹲っていたため息を吐いた。



 ずっと恐れていた事が現実になってしまったのだ。


 少女は生まれた時から化け物だった。


 人ではなく、異形の物として人の社会で生きてきた。迫害され、苦しんだ過去。父親だけが心の寄りどころだった幼い自分。


 そんな私に、温もりをくれた人。


 私より1つ歳上で、優しくて正しい男の子。


 あの花火の日、繋いだ手は暖かかった。

 あの冬の日、巻いてくれたマフラーは初めて感じた他人の温もりだった。


 その日、私がどんなに救われたのかきっとあの少年には分からないだろう。


 図書室で初めて声を掛ける前、どれだけの緊張と葛藤に悩まされたか、きっと知らないだろう。


 先輩の存在だけが今の私にとっての全てだった。



 私が学校に通えた理由。私が生きた理由。


「⋯⋯⋯⋯先、輩」


 私が彼に優しくされる事などこの先、一生ないだろう。


 私は化け物で、それを偽って生きてきたのだ。


 今まで先輩が優しくしてくれたのは私が人間だったからだ。

 それを考えただけで涙が滲み出てくる。


 化け物だと正体がバレた今、私に優しく接してくれる人などいるはずもない。


 人はいつでも自分と違ったものを避ける。迫害し、自分を守ろうとする。


 その姿が醜いという理由だけで、虐げる。その命を嫌う。



 ――――あぁ。なぜ私は生まれてきたのだろうか




 ♦♦♦


 ――――ザッと砂の上を踏んで歩く。公園の中に足を踏み入れた。


 アスファルトから砂へと足場が変わる。その脚で少年は中へと進む。


 少し前に、2人で此処に訪れた。2人で星を見上げた記憶が蘇る。


 彼女が逃げた先なんて分からなかった。それでも、正也は迷うこと無くここに来た。


 確信があった。正体こそ偽っていたかもしれないが、彼女の言葉に偽りはなかったと。

 根拠の無い自信で正也は公園の中を進んだ。


 耳をすまして、静かな公園の中で微かな呼吸音を聞き取った。端にある滑り台の方だ。


 正也が体の向きを変えて滑り台の方へ歩き出すと、少女がひょっこりと姿を現した。


「⋯⋯先輩」

 蚊の鳴くような声で少女は呟く。俯いているのと暗いせいで表情は分からない。


 それでも、彼女が震えているのが分かった。


「⋯⋯来ないで下さい」


 震えた声で彼女はそう言った。

 それでも、正也は止まらなかった。1歩。また1歩と彼女に近付く。


 無言で近付いてくる正也に少女は震える。自分が俯いているせいで先輩の表情が読み取れない。


 それでも、少女は顔を上げることが出来なかった。先輩の顔を見るのが怖かった。

 何を言われるのか恐ろしかった。


 ⋯⋯私は化け物だから。



 正也は少女の前で立ち止まる。少女は恐ろしさのあまり、俯いたまま目を強く閉じた。



「⋯⋯風邪、引くぞ」


 その言葉と共に自分の首に丁寧に巻かれる青色のマフラー。

 それは幼い頃、目の前の少年が首に巻いてくれたものだった。昔、雑に巻かれたマフラーを、今は丁寧に少女の首に巻く。


 私の宝物がそこにはあった。


 首周りが暖められ、寒さを凌ぐ。

 少女の眼から涙が零れ落ちた。


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯どう、して」


 少年は無言のまま少女の肩に手を置いた。


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯どうして、優しくしてくれるんですかぁ」


「⋯⋯⋯⋯先輩が後輩に優しくするなんて当たり前の事だ」


 その言葉に少女は膝から崩れ落ちた。両手で顔を覆い、ボロボロと大粒の涙を流す。


 嗚咽混じりに泣き声が漏れ出す。

「⋯⋯⋯⋯私、化け物なんですよ」


 正也はそっと少女を抱き締めて⋯⋯。


「⋯⋯⋯⋯君が何者であっても、俺の後輩という事実だけは覆らない。俺は君の先輩で、君は俺の後輩だ」


 ギュッと腕に力を入れて更に抱き寄せる。甘くていい香りが正也の鼻孔をくすぐった。



 ♦♦♦


 2人で手を繋ぎ、公園の外まで歩こうとした時、そこで1人の男性が公園に入ってくる。


 2人は歩みを止めて白守和斗と向き合った。


「正気か?化け物に寄り添う事が正しい事だと勘違いしとるで」


「⋯⋯⋯⋯化け物じゃない。彼女の名前は星野紫苑だ」


 2人の繋がれた手に力が籠る。


「くっ、どうやら本気みたいやなぁ」


 渋りながらも白守和斗は手を振り払い、犬を召喚する。

 突然現れた3匹の犬が2人目掛けて飛び掛る。正也は手を離し、星野さんの前へと出て両腕を広げた。


 3匹の犬は正也の左胸、右腹、左脚にそれぞれ噛み付いた。


 激痛に表情を歪ませながらも1歩も引かない正也。「ぐっ、星野さん!逃げるんだ!」と腹の底から声を出して叫んだ。


 戸惑う星野さんに白守和斗は正也を躱して次の攻撃を仕掛ける為に腕を振り上げた。


 だが、正也は3匹の犬に噛まれながらもその場から移動して星野さんと白守和斗の間に割って入った。


 口から血を零し、両腕を広げたまま彼女を庇う。


「⋯⋯馬鹿な!」


 白守和斗は驚いた様子で正也を見詰めた。犬神は白守和斗の式神である。対象を攻撃する為に創られた式神の為、攻撃力は相当高い筈だ。


 そこら辺の凶暴な野良犬よりも顎の力は強いはず。下手したら人をも噛み殺す猛獣としての武器にもなる。


 それなのに、目の前の少年は動いてみせた。式神に攻撃されながら、激痛に耐え化け物である少女を庇って見せた。


 犬神3匹に攻撃され、その痛みは充分に分かったはず。それなのに、まだ自分が傷つこうとしている。彼女を守る為に自分を犠牲にしようとしている。


 少年の眼は本気だった。一切の揺るぎがなく、力強い眼で痛みに耐え抜いていた。


 その衝撃は一種の感動だったかもしれない。



「ちっ、止めや」


 舌打ちした後に静かに腕を下ろした。


「戻れ犬神」

 その一言で正也に噛み付いていた犬が煙になって全て消滅した。


「先輩!」


 崩れる正也に急いで駆け寄る星野さん。その光景を見て白守和斗は微笑んだ。


 自身の目を疑うような光景が目の前にある。

 妖と人間が互いに寄り添い合う姿。



「大馬鹿者だね。竜胆君は」


 そう言って白守和斗は鼻で笑った。


「⋯⋯⋯⋯正也でいい」


「そうか。それなら正也も僕の事は和斗と呼んでくれ」


 自分より1つ歳下の少女に抱き締められながら正也は今の現状に笑いが込み上げてきた。



 ♦♦♦


 翌日。学校に行くと白守和斗の姿が教室にはあった。


 昨日、あの後に和斗の治療を受けた正也の傷は完全に治った。

 どうやら、式神による傷は塞ぐ事ができるらしい。


「おはよっ」


「あぁ。おはよう」


 昨日の出来事がまるで嘘かのように2人は挨拶を交わす。その光景を見ていた飛雅と友菜は互いに顔を見合わせて首を傾げた。


「あの二人って仲良かったけ?」


「さぁ?」


 そんな2人の心境など知らない正也は和斗と一緒に教室を出て屋上に向かった。


「⋯⋯それで、昨日の話の続きなんだけど」


 屋上に着くと和斗が話を切り出した。

 昨日聞いた話によると和斗は式神使いらしい。昔で言うところの陰陽師。または退魔師。


 使い魔を使役して化け物を倒す仕事をしているらしい。


 この世界には『妖』と呼ばれる生物が存在していて、時に人に仇なす事をしたり、害となる現象を引き起こしたりしているそうだ。


 そんな『妖』と呼ばれるものを退治する。それが彼の目的だった。


「⋯⋯確か、ある女を追って来たんだよな?」


「そうそう。僕らを裏切った女がこの街のどこかにいる。それを追って僕がこの街に来たって事。そうしたら驚いたわ。妖が人と一緒に歩いてる所を目撃してしまったからなぁ」


 和斗はそう言って笑った。



 ♦♦♦



 その日。1人の男がこの街に現れた。


 フードを深く被り、『ある者』を捜して街の中を歩く。すれ違う人々はこちらを避けたり、2度見してきたりなど、反応は様々だ。


 どう見ても不審者にしか見えないその男は今より少し先の未来からやってきた。



 その男もまた出来損ないの妖だった。とある妖と人の間に創られた命。


 幼い頃から人を襲い、過ごして来た彼に寄り添ってくれた人達が居た。だが、その人たちの命は唐突に奪われた。腕の中で冷たくなっていく愛しき人。泣き叫んで、泣き叫んで、怒り狂った。


 仇を討つために剣を手に取り、立ち向かったが虚しくも敗北した。自分の非力さを恨んだ。


 そして、『とある妖』の力を借りて未来から今へと時間を飛んだ。全ては未来を変えるために。




 ♦♦♦


 その日の帰り。正也と星野さんは一緒に帰り道を歩いていた。あの日の後、星野さんは髪は見事な黒に染まっていた。カラーコンタクトで紅い眼を隠し、鋭い歯と爪を削っていた。小さな角は前髪で隠れている。その日は授業が終わった後直ぐに学校を出た為、辺りはまだオレンジ色に輝いていた。


「見つけたわ」


 暫く歩いた所で、冷たい女性の声が耳に届いた。笑顔で話していた2人は一斉に顔を上げて前方にいるその女性を見詰めた。


 30メートルくらい離れた所に立つ黒いローブを羽織ったショートヘアの女性。右目の目尻にある小さいホクロが妙に色っぽさを際立たせている。


 その女性は口角を上げて色っぽい視線で正也達を見つめていた。いや、正確に言うとその目に映し出されているのは星野さんだけだった。


 正也の頭に和斗の言葉が過ぎった。そう、目の前に立つ女こそが和斗が追って来た術士だということを瞬時に理解した。


 正也は無意識に隣の彼女の手を取った。驚いて正也を見る星野さん。


「坊や、その子を離しなさい」


 妙に色っぽく光る唇が動き、その口から発せられた言葉の後に正也は自分の体の自由が奪われた事に気付いた。


「⋯⋯えっ?」


 手に取ったはずの彼女の手がない。恐る恐る視線を下に向ける。正也は彼女の手を離していた。強く握り締めた筈なのに。


 首から下を自分の意思で動かす事が出来ない。地面に縫い付けられたかのように身体が重くなった。



「せ、先輩?」


 星野さんは状況が理解出来ていないらしく、焦った表情を見せる。


「逃げて!」


 咄嗟に叫んだ正也の言葉を遮るかのように術士の女が地面を蹴ってその距離を詰め出す。


 星野さんは逃げる事が出来ず、その場に固まる。黒ローブの女は星野さんに向かって手を伸ばした。


「犬神!」


 女の手が星野さんに触れる手前で制止し、女は飛び下がって距離を取った。

 どこからか現れた2匹の白い犬が女を襲う為に地面を駆ける。


 襲い掛かる牙を避けながら「くっ、」と息を漏らす。だが、冷静に対処して術を唱え、犬神を消し去った。


 白い煙になって消失する2匹の犬。


「ギリギリやったな」


 白守和斗は正也の肩に手を置いてそのまま前へと出る。和斗の右手が肩に触れた瞬間身体の硬直が解けた。


「まさか、もう追手が追い付いているなんて予想外だったわ」


 右手の人差し指を口元に当てて女は艶やかに微笑んだ。


「貴女を捜す為に随分と時間を使いましたわ。でも、それも今日で終わりやなぁ」


「ふふふ、あなたごときが私に敵うと思って?」


 女はしなやかに腕を動かし、服の中から黒い小さな紙を数枚取り出した。それを見せつけるように顔の高さまで上げた後、勢い良く地面に叩きつけた。


 黒い紙は風に流されること無く、地面に叩きつけられる。そして、謎の黒い霧が紙から吹き出した。


 女は不気味な笑いでその光景を見守った。そして、和斗の反応を楽しむかのように口角を上げる。


 和斗はその光景を見て目を見開く。


「ま、まさか」


 黒い霧は凝縮しだし、ひとつの形が出来上がる。そこから現れたのは動く骨の人形だった。軽く10を超える集団となり、こちらを見詰めてくる。


 スケルトン。その名が相応しい異形の人形はカタカタと骨と骨を衝突させ、音を鳴らしながら和斗達に近付いてくる。


  「⋯⋯スケルトン、か面倒臭い相手や!⋯⋯犬神!切燕!」


 和斗が左手を払う。すると、地面を駆ける3匹の犬と空を飛翔する2羽の燕が現れた。


 燕は青白い光を発しながらスケルトンへと突っ込んでいく。それに続いて犬神も飛びかかった。


 切燕と呼ばれる式神はスケルトンを切り落としながら飛翔し続ける。


「切燕はその名の通り、全身刃物の燕や!」


 犬神に破壊され、切燕に切られたスケルトンはそれでも尚、進行を続けようとした。


「ちっ、やっぱり無駄か⋯⋯」


 和斗は舌打ちをする。まるで不死身の集団のようにスケルトンは和斗達へと歩み寄る。


「スケルトンは死ににくい式神。ちょっとした攻撃じゃ倒れることは無い」


 女は口角を上げながらそう説明した。


 息を飲んでその光景を見詰める正也と星野さん。それを好機と受け取ったのか女は前方に向かって手を伸ばした。その仕草に反応するかのように、女の足元から1本の黒い触手が伸びて⋯⋯。


 一瞬にして目の前へと迫った触手は和斗の横を通り過ぎて、その後ろにいる星野さんの身体へと巻き付いた。


 力強く引っ張られる星野さんは宙に浮いて⋯⋯それでも抗うかのように正也に向かって右腕を伸ばした。


 差し出されたその腕に正也はすかさず飛び付いた。


 正也の身体も宙に浮いて、そのまま女の方へと引っ張られた。


「なっ⋯⋯」


 和斗は反応が遅れ、もはや手の届かない場所へと2人の身体は引っ張られる。


 勝利を確信する女。だが、次の瞬間。目を疑う状況へと変わる。



 2人の身体と女の間に急に人影が現れる。その途端、2人を引っ張る触手が切れた。現れたのはフードの男だった。右手には毒々しい色の剣を持っている。


 身体を引っ張られる勢いを失った2人はそのまま地面へと落下する。空中で正也は星野さんの身体を抱き寄せた。驚く星野さんを胸の中に抱え込み、地面へ衝突する衝撃から星野さんを守った。


「くっ⋯⋯」

 女は目を見開きながらも奥歯を噛み締め、更に3本の黒い触手を伸ばす。だが、フードの男は振り向きざまに3本の触手を切り落とす。


 黒ローブの女が驚きの声を漏らすよりも速くフードの男は地面を蹴る。身を低くして女の目の前へ入り込んだ。そして、水平に右手で持つ剣を振るう。


 女は後ろに飛んで剣を避けようと試みるが、毒々しい剣は女の腹部を見事に捉えた。


 剣の先端が女の肉を斬り裂く。赤い血液が周りに飛び散る。


「ぐっ⋯⋯⋯⋯」

 女は激痛に表情を歪め腹部を手で押さえる。止まることなく血液は流れ出て女の足場に小さな血の池が出来上がる。


 フードの男はそれ以上深追いせずに静止する。それを睨みながら女は術式を唱える。数秒経たずに黒いモヤが女の身体を包んだ。一瞬にしてモヤは広がり、女と共に消失した。女が消えたからか、スケルトンも消失する。


「正也、大丈夫か」


 和斗が駆け寄ってくる。正也は星野さんを抱えたまま半身を起こしてフードの男を見詰めた。


「⋯⋯あいつは」


「味方やないな。⋯⋯⋯⋯妖や」


 息を飲んだ。フードの男が纏う特異な雰囲気は人間のそれとは異なっていたからだ。


 フードの男はこちらに向き直り、左手でフードを取払った。


 蛇だった。


 裂けた口、黄金色の眼、頬の鱗⋯⋯。


 異質な外見に恐怖さえ覚える。だが、異質な姿はそれだけではなかった。男の長い髪の毛の一本一本が小さな蛇だった。



「⋯⋯凄まじい妖気やな。一体、何者や」


「⋯⋯俺は」とその口が開かれ、低い声が耳に届く。正也は蛇男から目を外さずに身体を起こした。


「俺は、未来から来た。その女を殺す為に」


「⋯⋯未来?」

 と正也が理解出来ないでいると、隣の和斗が急に叫び出した。


「そんな事、ある訳ないやろ!時を超える妖やと?そんなバカバカしい話、誰が信じるか!」



「⋯⋯それでも事実だ。その女は近い未来、鬼神と化して世界を滅ぼす厄災となる」



 耳を疑いたくなる言葉。腕の中の彼女が震えた気がした。正也は腕に力を入れ、更に自分の方へ彼女を引き寄せた。


「その女を渡せ」

 蛇男は剣を正也の方へ向けた。


「出来るわけないだろ!」


 正也はそれを否定した。その鋭い眼光に睨まれても臆すること無く、全力で否定した。


「⋯⋯そうか。ならば死ね」


 そう告げた蛇男の姿が目の前から消える。正也は危機を感じ取り、腕の中の少女を突き放した。勢い良く突き放された星野さんは地面へと倒れ込む。


 少女は理解した。自分を守っての行動だと。


 次の瞬間、少女の目に先輩が蛇男によって斬られた光景が映った。


「ぁ、っ。⋯⋯⋯⋯⋯⋯い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 自分のものとは思えない声が喉の奥から出た。目の前が真っ赤になり、少女は鬼へと化した。


 一瞬で蛇男と先輩の間へと割り込み、鋭い爪を腕ごと突き出した。蛇男の左腹部が抉れる。蛇男の硬い皮膚を少女の爪が斬り裂いたのだ。



「がっ!⋯⋯⋯⋯。」


 さすがの蛇男も体勢を崩し、後ろに下がって腕を引き抜く。

 痛みに耐えながら少女を睨んだ筈の眼で驚きのものを見た。


 鬼と化した少女はその怒りを顕にしながら倒れた少年を庇うように構えたのだ。

 少女の代わりに傷付いて倒れた少年。それを守ろうとする鬼。


 それは男が知る鬼神の姿とは掛け離れたものだった。ついその光景を見入ってしまう。あまりの驚きに声すら出ない。


 我に返った蛇男は左腹部を左手で押さえて跳躍して姿を消した。


「正也!」


「先輩!」


 和斗と星野さんは倒れた少年に駆け寄った。




 ♦♦♦



 目が覚めると知らない天井が目に入った。重たい頭で記憶を探る。そして、蛇男の斬られた事を思い出した。


 重い仕草で正也は半身を起こす。


「先輩!」


 すぐ近くで星野さんの声が響いた。そして、ギュッと星野さんは正也の胸に頭を擦り付けた。



「⋯⋯星野さん」


 星野さんはそれ以上何も言わなかった。正也は星野さんの頭に手を当て、そっと髪を撫で下ろした。



「目が覚めたんですね」


 障子が開き、聞き覚えのある声が聞こえてきた。顔を向けるとそこには巫女服の姿をした委員長が居た。白衣に緋袴を着て、髪型は後ろで1本に束ねる「垂髪」にし、後ろ髪に「丈長」と呼ばれる和紙をつけていた。


 彼女の名前は赤原雫。巫女服の彼女がいるということは、ここは赤原神社ということになる。


 正也の推測通り、倒れた正也を癒す為に和斗と協力して赤原神社へと運んだ。


 巫女さんは最初かなり驚き、慌てていたが、少しすると冷静に対処を行ってくれた。この部屋まで案内してくれて、不思議な術で傷に含まれる邪気を祓った。


 薬を塗って包帯を右肩から斜めに巻いて固定した。その後に布団を運んできて、正也を寝かしてくれたのだ。


 和斗は式神を使って辺りを見張っている。


「ありがとう」


「いえ、これも巫女の務めですから」

 委員長は笑顔で答えてくれた。


 その日は家族に連絡を取り、神社に泊まることにした。



 ♦♦♦


 私は化け物だった。


 いくら人として生きようとしても、その事実だけは変わらなかった。


 翌朝。星野紫苑は神社の中にある大きな神木の傍に1人で立っていた。


 この神社ら妖である私を中へと入れてくれた。本来なら妖は神社などの神聖な場所には近付かない。そもそも入れない事も多い。


 それでも、私は妖だった。


 私は自分が醜い事を知っている。


 高校に入ってすぐ、1人の人間に嫉妬した。いつも、竜胆先輩の隣には同じ少女がいた。そこが自分の居場所であるかのように。


 構内で見かけると必ず彼女はそこにいた。胸が苦しくなる。こんな感情を抱いてはいけないのに。必死に殺そうとすればする程湧き上がってくる。


 醜い感情。醜い心。醜い私。


 私は醜い化け物だった。


 私が知らない時間を竜胆先輩は友菜先輩と過ごしてきたのだ。その事実が嫌でたまらなかった。酷く嫉妬した。


 本当に嫌だったのは、こんな気持ちになる自分自身だった。


 私は、化け物だった。



 ♦♦♦



 傷は少しずつ塞がり、歩けるようになったその身体で正也は星野さんの隣に移動した。


 神木の傍に立つ彼女の隣に立ち、その体を優しく抱擁した。彼女の頭を抱えて、自分の鼻先を彼女の頭に当てる。


 これはひとつの決意。


 傍に寄り添うだけでは足りなかった。



 ――――俺は、君を守るよ



 少年は戦うことを決意する。彼女の為に他の誰かを傷付ける覚悟を。


 彼女は正也の背中に腕を回した。




 部屋に戻ると部屋の中に委員長の姿があった。


「実は2人に話したい事があるんです」


 そう言って正也と星野さんを連れ出す。廊下を歩き回って障子を開いた。少し大きい部屋の中へと通された。


 正也と星野さんは並んで座る。委員長は隣の部屋の扉を少し開き、その中から一振りの刀を出した。


 そして、その刀を正也の前へと置いた。


「⋯⋯これは?」


 黒い鞘が光を浴びて映える。


「宝刀、天日です」


 息を飲んで刀を見詰め、委員長に視線を戻した。


「私、竜胆君に憧れてたんです」


 唐突に彼女は語りだした。


「⋯⋯憧れてた?俺に?」


「はい。昔、貴方を見た事があったんです。いじめられてる子を助ける為に貴方は臆すること無く立ち向かっていきました。相手が自分より強くても貴方は戦った。私に出来ないことを平然とやってのける貴方に私は救われたんです」


「⋯⋯そんな、買い被りすぎだよ」


「いえ、貴方はそういう人です。そして、今回も戦いにいくのでしょう?」


 図星だった。正也は首を縦に振って頷いた。


「だから、使ってください。きっと役に立ちますから」


「ありがとう」


 正也のお礼に委員長は微笑んだ。そして、直ぐに緊張した顔に戻り、今度は星野さんの方へと視線を向けた。


「星野さん。貴女の母親について私が知っている事を話しましょう」


 委員長の言葉に星野さんはビクリと反応する。そして、ジッと委員長を見詰めた。


「貴女の母親は妖だったんですよ」


「えっ⋯⋯⋯」


 隣から声が零れる。どうやら初めて知ったらしい。


「貴女は人と妖の間に生まれた特別な存在なんですよ」


 委員長の言葉に星野さんは静かに涙を零す。初めて知った母の秘密。父親が亡くなる前に言っていたことを思い出す。


 小さく、肩を震わせながら静かに泣いた。




 その部屋に星野さんを残して正也と委員長は部屋を後にする。1人で考え、泣く時間が必要だとそう判断した。


「竜胆君にはこれから合わせたい人がいます」


 そう言って委員長は歩いて来た廊下を引き返す。そうして、神社の中にある庭園まで移動する。


 そこには、1人の男性が木刀の素振りをしている姿があった。


「リュウさん」


 委員長の呼び掛けに男は反応して素振りを止める。こちらを振り返った男性の印象は眼鏡をかけた温厚そうな人だった。


「やぁ、雫ちゃん⋯⋯⋯おや。もしかして、その子が正也君ですか」


 優しそうな声が響く。


「はい。そうです」


「初めまして、僕はリュウと言います」


「あ、正也です」


 と差し出された手を反射的に取ってしまう。軽い握手を交わして男はニッコリと微笑んだ。


「今日から君に刀の振り方を教えます」



 詳しい話を聞いて納得した。正也が宝刀を扱えるように指導してくれるらしい。委員長は自分の仕事が残っているらしく、説明した後に仕事に戻っていった。


「僕は今、全国の神社を回っていてね。家の都合で昔から刀を振っていたから、雫ちゃんの話を聞いて力になれるんじゃないかと思ったんだよ」


 リュウ、という名前も本名じゃないらしい。家の都合で今は本名を名乗れないと言っていた。


「少し、その刀を貸して貰えるかな?」


「あ、はい」


 そう言って黒い宝刀を差し出す。リュウさんは優しく受け取ってから鞘から刀を抜いた。綺麗な刀身。アニメや漫画でしか見たことのない日本刀の姿がそこにはあった。


 あまりの美しさに呆気に取られてしまう。


「うん。いい刀だ。この刀はね昔、妖を斬るためだけに造られたんだ。だからね、妖以外のものは斬れないようになっているんだよ」


「そんな事もできるんですね」


「うん。それじゃあ始めようか」


「お願いします」


 そうして訓練が始まった。


 学校帰りに正門の前で星野さんと待ち合わせして、一緒に神社へ向かう日々が続いた。神社へ着くと訓練の時間が待っている。


 刀を握り、素振りをする事2時間。少しの休憩を挟み、次の訓練へ。



 ♦♦♦


 その日は雪が降っていた。


 その日も星野さんは正門の前で正也を待っていた。気温はだいぶ下がり、寒さに身体が凍える。


 首に巻いた青いマフラーに鼻を埋める。



 その時は唐突に来た。遠方より雪の降る空の中を移動して、4本の黒い触手が星野さんを襲撃した。迫る危機に身体が反応する。


 1本目、2本目の触手を避けて次に備える。3本目の触手を避けようとした時、避けたはずの1本目の触手が星野さんの左足首に巻き付いた。


「えっ⋯⋯」


 体勢を崩した星野さんの身体に3本目と4本目の触手が絡み付いた。


「きゃっ!」


 短い声が零れる。触手に引っ張られる事により、足が地面から離れる。そのまま空を飛ぶように星野さんは触手に引っ張られていった。


 周りにいた生徒たちは呆気にとられ、その光景を見ていた。


 その中で、異変に気付いた2人の少年が坂を走って下り、正門を飛び出た。


「やられた!」


 和斗が走りながら叫んだ。


「クソっ」


 と吐き捨てる正也の肩を和斗が掴んだ。


「正也は神社に刀を取りに行き!僕が追う」


 素早い判断に歯痒いまま正也はその指示に従うべく星野さんが連れ去られた方とは逆の道を走り出した。


「すぐに追いつく」


 と言い残し、神社へ向かう。


「正也、これを持って行き!」


 そう言って和斗はある物を投げた。正也はそれをキャッチして手の中にあるものを覗いた。それはお守りだった。


「ありがとう!」

 そう言ってお守りをポケットの中へ入れて走り出した。



 正也と別れた和斗は「追え、目鴉」と叫ぶ。額に目を持つ黒い鴉が2羽現れ、そのまま飛び去った。


 今回の襲撃は完全に不意をつかれた。本来なら妖退治などは人目のつかない夜などに行われる事が多い。だから和斗も襲撃があるなら夜だと推測していた。


 その結果、対処に遅れてしまった。


「⋯⋯少しまずいな」


 走りながらそう呟いた。




 星野さんは触手に引っ張られる中必死に抵抗した。だが、女の子の力で振り解けるほどあまくはなかった。


 なので、鬼化を試みようとしたが、2本目の触手が鞭のようにしなる。うなじをこれまでにない衝撃が襲う。


「うっ⋯⋯⋯⋯」


 そのまま気を失い、脱力した身体を触手が引っ張った。





 雪の中止まることなく走り続けた正也。冬は日が暮れるのが速く、神社に着いた頃には辺りはもう暗くなりかけていた。


 神社の中へと脚を踏み入れる。障子を勢い良く開いて中へと上がり込んだ。黒い宝刀を手にして、そのまま切り返す。神社を出て今走ってきた道を引き返した。


 学校の前を刀を持って通過する。そのまま星野さんが連れ去られた方へと走る。


 一体、どこへ向かえばいいのか分からないが、とにかく連れ去られた方向へと走り続けた。


 太陽が沈み、外は完全に暗くなる。夜の時間が訪れた。


 正也は休むことなく走り続けた。息が切れ、肺が押し潰されそうになる。身体が限界だと悲鳴をあげ、正也はその場に足を止めた。


 腰を折り、膝に手を当てて息を整えようとする。


 数分の休憩の後、再び走り出した。歯を食いしばって走り続ける。


 なんの運命か。前を歩く人影に目が止まり、正也は急停止した。


 そこには毒々しい剣を持った蛇男がいた。

 蛇男もこちらに気付いたようで正也を見詰めた。


「⋯⋯⋯⋯お前は」


 そう呟いた蛇男は剣を構えた。対する正也も腰を落として構える。左手を刀の鞘に添えていつでも抜刀出来る体勢になった。


 今、この男を星野さんの元へと行かせてはならないと本能が忠告していた。倒さなければいけない敵。超えなければならないもの。



 雪の降る夜の街に剣と刀を構える。


 そしてなんの合図もなく、戦いは始まった。一斉に動き出し、信じられない速さ蛇男が正也の間合いへと斬り込む。正也も抜刀をし、互いが右手で持った武器が衝突した。



 ♦♦♦


 和斗は自身の式神、目鴉の案内に従って星野さんの元へと走っていた。

 足止めの為か何度か女の式神の攻撃を受けたが、自身の式神で返り討ちにした。


 夜の空、暗闇に紛れて牙の鋭いコウモリが飛来した。急降下してくる牙蝙蝠(こうもり)を切燕で切り抜ける。


 数度の襲撃を切り抜けて、和斗は廃墟の前に辿り着いた。目鴉はこの建物の上をクルクルと旋回しているので、ここで間違いない。


「よし、お前は正也に伝えるんや」


 小声で1羽の目鴉に命令する。すると、目鴉は正也を捜す為に翼を羽ばたかせて飛んでいった。


 大きな建物で、鉄製のフェンスに囲まれている。フェンスの扉を閉めていたはずの鍵は壊されていた。


 キィィィィという甲高い音を鳴らしながら扉を押して開いた。そっと中へと侵入して、足音と気配を消して建物の中へと侵入する。


 念の為に、犬神を1匹召喚した。1匹の犬神と1羽の目鴉を連れて中を探りながら慎重に進んでいく。



 建物の柱に隠れながら奥を探るように見る。すると、柱から数十メートル先に女の姿を発見した。


 女の傍には何本もの触手に絡みつかれ、気を失い脱力している星野さんの姿があった。


「⋯⋯⋯無駄よ。出てきなさい」


 女の声に和斗は隠れるのを止め、自分の姿を女の前に現した。


「随分と余裕やな」


「そうね。私の目的はもう達成されたも当然だからよ」


「それなら、意地でも阻止したるわ!」


 女は右腕を伸ばして、黒い触手を5本伸ばした。女の足元から伸びた黒い触手は和斗を襲う為に加速する。


「牙蝙蝠!」


 更に女は反対側の腕で式神を3羽召喚した。


 対する和斗も両腕を胸の前で交差して一斉に振り払った。


「切燕!」


 青白い光を発して8羽の燕が風を切り裂きながら飛翔する。黒い触手を全て切り落として女へと向かった。同じく飛翔する牙蝙蝠が3羽の燕を落としてみせる。


 残り5羽となった燕から3羽を蝙蝠の迎撃にあたらせる。


 燕と蝙蝠が激しい空中戦を繰り広げる中、和斗は残りの燕と犬神で女への攻撃を試みる。


「突牛!」


 女は黒い牛を式神として召喚する。そして、召喚とともに牛に突撃を命令した。


 牛は鋭い角で犬神を貫き、飛翔する燕を蹴散らし!地面を駆ける。


「くっ、結界!」


 自身の前方に結界を貼って牛の突進を防御した。結界に波紋が広がる。牛は止まることなく力任せに進もうとする。


「⋯⋯⋯⋯炎狐」


 赤い炎に包まれて黄色い狐が2匹姿を煙と共に姿を現す。炎狐は牛に体当たりする。すると、炎が牛に移る。


 赤い炎に包まれて牛が小さく吠えた。やがて、燃え尽きた牛は崩れるように倒れてその場から姿を消した。



 建物の中を燕と蝙蝠が飛び回り、蝙蝠の牙が燕を貫く。柱を旋回した残りの燕が蝙蝠をそれぞれ切り裂き、残る最後の蝙蝠もその刃で切り裂いた。


「子供だと思って甘く見ていたわ」

 女は和斗を見詰めてそういった。


 和斗は燕と狐を従えて女を睨んだ。

「まだまだこれからや!」


 そう叫んで狐と燕を突撃させる。


「術式、弾!」


 女の術式が胸の前に浮かび、衝撃波が和斗の身体を襲った。

「うっ⋯⋯⋯⋯」


 衝撃波に身体を圧迫され、地面に膝を着く。

「遠距離攻撃術式?」


 術式、弾とは対象の向かって衝撃波を放つ術式である。

 炎狐が地面を駆けて女に攻撃する。それでも守りの術式によって攻撃を阻まれる。


「燃やせ!」

 和斗の叫び声とともに炎狐の渾身の突撃。突撃後に炎となって小さな爆発を起こした。ボッと術式が燃えて消える。


「なっ!」


 女が驚いている隙に更に攻撃を畳み掛けた。


「行け!切燕」


 空を飛んでいた燕が急降下して女の左肩と腹を切り裂いた。

 女は呻き声を漏らして体制を崩す。


 そこで女は昔の事を思い出していた。



 ♦♦♦


 その家は才能に恵まれていた。


 妖退治を生業として生きる家に産まれた少女は他人より才能に優れている事に気付いた。その事実に気付いたのは物心がつくより前の事だったと思う。


 同い歳の術士より術式は正確で速く、式神は強かった。


 それでも、届かない領域があった。


 それは自分より2つ歳上の姉だった。姉はいわゆる『天才』というやつだった。


 何をやっても姉に勝つ事は出来なかった。


 術式の名家である『紫村家』に産まれた私の存在理由はどこにもなかった。


 姉と比較される日々。結果を出せと父と母は私に厳しくした。他の人よりも少し優れた才能を持つ自分より、より多くの可能性と才能を持った姉を私の周りは優遇した。


 幼い頃から天才の姉と共に過ごしたからか私は何をやっても評価されなかった。優秀な者こそこの世界に存在する価値があるのだと私は学んだ。



 優秀な者こそ輝くこの世界の在り方が嫌いだった。


 だから私は誓ったのだ。

 嫌いなこの世界を滅ぼす事で、私は私の存在意義を主張すると。


 私の価値を証明すると。



 姉に負けない自分の才能を、価値を示す為に。

 私は世界を滅ぼす。



 ♦♦♦


「⋯⋯⋯⋯ない」


 ブツブツと呟く女。その声は徐々に大きくなっていく。


「⋯⋯負けられない!」



「犬神!炎狐!切燕!」


 和斗は次々に式神を召喚して攻撃に移る。

 女は地面に両手を当てて術式を展開した。


「術式展開――――轟け、麒麟(きりん)!」



 その呼び声が合図となって雷光が地面を走る。稲妻で出来た首の長い四足獣が地面を駆けて和斗を襲撃する。


 地面を走る四足獣に、和人が呼び出した式神は焼き切れる。

 雷の獣によって和斗の身体に電流が流れる。


「くっ、⋯⋯がっ、ぁ」


 和斗はその場に倒れ込んだ。



 ♦♦♦


 声が聞こえる。


 星野紫苑は重たい瞼をゆっくりと開いた。そこは何もない暗い空間だった。


 手脚が縛られているのか身動きが取れない。


「⋯⋯おん」


 誰かの声が聞こえた。


 そして、今度はハッキリと。


「星野紫苑」


 場面が急に反転する。真っ白になった空間に取り残される私。そして、目の前には真っ黒い姿の私自身がいた。


 その姿を見て思う。


「⋯⋯⋯⋯私は、化け物だった」


 やがて、心も縛られる。




 ♦♦♦


「⋯⋯⋯⋯ガハッ」


 少女は大きく息をを吐いて目覚めた。


 肥大化した角に、染めた髪は赤に変わり、眼は赤く変色した。


 ―――――――――っぅ!!


 星野さんは纏わりついた触手を自身の力で無理やり引きちぎった。


 首元の青いマフラーがより赤色を際立たせている。


 鬼の神、鬼神と化した彼女に他の人の声はもう届かない。

 星野さんは建物の中を一瞥して、身をかがめる。


 そして、一気に跳躍して古い窓から出ていく。




 ♦♦♦


「やった⋯⋯⋯⋯⋯⋯やったわ!」


 黒ローブの女は笑って喜んだ。


「これで、私の価値が証明される!」



 全てを滅ぼす厄災。


 鬼神の誕生に女は歓喜した。肩を震わせて、涙が出るほどに喜んだ。


「⋯⋯⋯⋯させんわ」


 ボロボロになった身体を起こして和斗は女を睨んだ。

 女は冷めた目で和人を見詰めた。


「貴方では私には適わないわ」


 確かに、あの強力な式神に対抗出来る手段は残されていない。それでも、和斗は負ける訳にはいかなかった。


 妖と人が共に生きる可能性を見せてくれた友人。


 彼等の歩く道をこれから多くの人が認めるようにと。

 そんな未来を望んで、あの日和斗は彼等に夢を見た。



 あの心を打つ衝撃が今でも忘れられない。身を呈して妖を守った人間。


 今まで妖を滅ぼす事しかしてこなかった。その存在は悪なのだと決め付けていた。


 妖と人が共存できる世界に繋がる希望をここで絶やすわけにはいかない。



『和斗』という名前の『和』は、『平和』の『和』だ。


 父と母が付けてくれた名前に背く事など出来ない。そんな事は許されない。


 だからこそ、奥の手を使う


「―――――術式、展開」


 和斗の周りに術式が展開され、浮かび上がる。



「ふ、今更何をやっても無駄よ。轟け、麒麟!」


 雷のキリンが雷光を発し、放電しながら駆けてくる。迫る驚異に和斗は1歩も怯まずに術式を唱える。


 これまでの戦いの中で築いた術式を発動する。


「装填、完了。―――――最高位式神、召喚」


 それは数ある式神の中で最も位の高い式神。それはある地域では百獣の王とされている。それは、五百年を生きて霊力を得た誉れ高き獣の王とされていた伝説の獣。


 その名は⋯⋯。


「おいでや、白虎!」


 白い光が辺りを包む。その光が沈む頃、和斗の傍に1匹の獣の姿が現れた。


 白い毛並みの大きな虎。

 黄金の眼が敵の姿を捉える。白き虎は麒麟に向かって威嚇するように吠えた。


 白き虎の吠えた声により、麒麟が勝手に消滅する。


「⋯⋯なっ!」


 女は驚きを隠せないでいる。その圧倒的な実力差に戦意さえも喪失している。


「なぜ、貴方がコレを呼べるの?まさか、白守家の⋯⋯」


 女の言葉が最後まで続く前に和斗は命令をする。


「行け」


 和斗の一声で白き虎は地面を蹴った。一瞬で女を口に挟み、壁に激突させる。その一撃で女は見事に気絶した。


 役目を果たした虎は淡い微光と共に消えていった。



 ♦♦♦



 たった数日、刀を振ったところでその実力差は縮まらなかった。


 正也は蛇男に挑むもことごとくやられ、地面に片膝をついていた。


 今の正也では決して届かない場所。それでも正也は歯を食いしばって、地面を蹴った。刀を振り下ろし、踏み込み、切り上げる。


 その攻撃は軽々と避けられ、反撃に剣の横払いを食らう。刀で受け止めたが、その衝撃を受け止めきれずに、吹き飛ばされてしまう。


「無駄だ。何度やろうと結果は変わらない」


「⋯⋯⋯⋯それでも、俺は諦めない!」


 再び地面を蹴ろうとした時、禍々しい何かが空気を包み込んだ。喉が焼けるように痛い。呼吸が困難になり、空気が重く感じる。


「⋯⋯⋯⋯これ、は」


「あの女の力だ。鬼神と化したのだ。これで理解しただろう。あの女は生きていてはいけないのだ」


 この現象が星野さんの力だとしたら、何が悲しくて、こんな事をしているのだろうか。


 禍々しい妖気が肌を刺すように刺激してくる。この妖気を濃くなる方へと進めば、きっとその先に彼女がいる。



「もうお前に構っている時間はない!」


「待て!」


 男が走り去ろうとするのを刀で阻止する。

 今この男をいかせてはならない。正也は水平に刀を振り払う。それを剣で防がれる。


 あらゆる攻撃を防がれ、避けられた。


「蛇髪突き!」


 蛇男の髪の毛が自由に動き出す。髪の毛1本1本が蛇のようにうねって伸びながら正也の身を襲撃した。


「くっ、ぐっ」


 刀で蛇を斬り、避けた。だが、それにも限界が来る。捌ききれずに最初は右腕を噛まれた。


 次は胸、首、脚と身体の至る所に剣による切り傷と蛇に噛み付かれた痕が残る。


「やがて毒が回る。もう、諦めろ」


「うぉぉぉぉぁぉぉぉぉぉぉおぉおおお」


 最後に一撃入れる為に地面を蹴る。だが、刀を振り下ろす前に蛇男の蹴りが腹に命中した。


 吹き飛んでそのまま仰向けで倒れる。


「偽りの正義、か」

 蛇男は唐突にそんな言葉を口にした。


「⋯⋯⋯⋯どうして、それを」


「俺の目は特殊でな。人の本性を見抜く事ができるんだ」


 それを聞いても正也は驚かなかった。


「貴様の本性を見た。お前のそれはあまりにも見にくい在り方だった。偽善。それがお前にピッタリな言葉だ。他人を救う事が目的ではなく、他人を救う自分の姿こそが目的だった」


 その言葉は真実だった。正也はこれまで正しい事を貫いてきたはずだ。


 だがそれは誰かの為でなく、自分自身の為の行いだった。


 誰かを救っている時の自分が好きだった。その瞬間に依存しただけだった。


 あの日、少女にマフラーを巻いてあげた時も。

 少女を助ける自分の姿を見て優越感に浸りたかっただけだ。



 そう。正也は被害者を食いものにして、自分が目立つ為の舞台とした。



 善の行いではなく、偽善の行いだった。


「貴様の人生は偽善だらけだ」


 蛇男の言葉が突き刺さる。本性を言い当てられ、正也には反論する事も出来ない。


 それでも、曲げられないものはあった。


 正也は刀を軸にして立ち上がる。ボロボロの脚を地面につけ、蛇男に鋭い視線を向ける。


「⋯⋯⋯⋯確かに、最初は偽善だったかもしれない。⋯⋯⋯それでも、この想いは真実だ。誰にもこの想いが偽りだと言わせない!」


「⋯⋯まさか、貴様」


 蛇男は特殊な目で確認しようとする。だが、それさえも無駄だった。少年の目の輝き。それは信念を貫く為の目をしていた。




 ♦♦♦


 男はかつてを思い出す。


 忙しい毎日だった。それでも、幸せだった。愛する妻と娘に囲まれて私の人生は幸せと呼ぶに値するものだった。



 それでも、私は⋯⋯⋯⋯。


 唯一の心残りがある。


 それは、もう消えてしまった記憶の断片


「なんで!パパ、ピアノの発表会来るっていったじゃん!」


 幼い娘が怒った声で叫ぶ。


「ごめん。パパ急な仕事が入っちゃって」


「そうよ。ワガママ言っちゃ駄目よ。ママが行ってあげるから」


 それはいつもの日常だった。仕事が忙しく、家族との思い出は少なかった。娘に行くと約束して、何度もその約束を破ってきた。


 繰り返す程に心が傷んだ。悲しそうな娘の顔を何度も見た。


「⋯⋯それじゃ」


 そう言って玄関を出る。そのまま車に乗り込んで、仕事場へと向かった。仕事へと向かう途中。居眠り運転で信号無視をして突っ込んできたトラックに私の身体は潰された。



 クラクションが鳴り響いて、車とトラックが衝突。車の形は簡単に変形した。


 引かれる間際、死を身近に感じ、何度も後悔した。今日、娘の発表会を見に行っていればと。




 次に目が覚めた時、私の身体は人間ではなかった。研究者に身体を弄られてその体は異形のものへと変わっていた。



 その研究所を飛び出した。刃向かってくるものを切り刻みながら、私は走った。


 人は受け入れてくれなかった。当たり前だ。化け物など受け入れてくれる場所など存在しなかった。だから、妻と娘の場所には行けなかった。


 人に虐げられ、恨んだ。

 それでも、子供だけは憎めなかった。



 ある日。山の中で1人寂しく暮らしていたら登山してきた人々がクマに襲われている場面に遭遇した。


 私は飛び出し、クマに立ち向かう。襲われていた人たちを救い出して、私は山の麓にある村の小さな英雄として扱われるようになった。


 人々は私を避けずに接してくれた。子供たちとも沢山遊んだ。


 その時には、人間だった頃の記憶は残っていなかった。




 やがて、その日はやってくる。


 私が山から村に戻ると、村は炎に包まれていた。喉が焼けるように痛い。重たい空気の中を突き進んだ。焼け落ちる建物。


 黒焦げになった人の死体。その死体を持ち上げて抱える。天に向かって泣いた。


 そして、村を滅ぼした妖を追って1年。見つけた先で戦いに挑んだ。結果は惨敗だった。最初から勝てる見込みなどなかった。


 それでも、戦った。



 惨めにも生き残った俺は復讐をする為にあらゆる手段を探して旅に出た。そこで、1人の妖と出会い、時を渡った。





 ♦♦♦



 正也は立ち上がり、刀を構えた。ポケットの中から光が漏れ出す。


 それは、和斗がくれたお守りだった。


「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 正也は地面を蹴る。


「蛇髪突き」


 蛇男の髪の毛が自由に動き回る。その蛇を一体ずつ切り落としていく。迫る蛇を紙一重で避けて、斬った。


 それを繰り返し捌ききれなくなった頃、蛇が正也の身体に噛み付いた。それは正也の身体の周りに貼られた結界によって防がれる。



 これがお守りの効果だった。


「なっ」と声を出して驚く蛇男に正也は突っ込んでいった。手脚が毒のせいで痺れ始める。それでも、この機を逃せば2度とチャンスはやってこない。


 正也は叫びながら刀を振り上げる。時間の経過と共に結界にヒビが入る。そして、音を立てて割れた。


 迫る蛇を受け入れて、噛み付かれる。それでも、怯むこと無く進み続けた。


 迫る正也の驚異に蛇男は剣を構えた。


 振り下ろす瞬間、少年の姿にかつての自分の姿が重なった。


 適わないと理解していて挑む姿。

 勝てないと、届かないと知っていても尚突き進むその傲慢さを。



 正也が間合いに脚を踏み入れた。蛇男の腕から力が抜ける。最後、正也が振り上げた刀が蛇男を斜めに斬った。




 ♦♦♦


 倒れた蛇男をそのままにして正也は和斗の式神である目鴉の案内に従いながら、妖気が濃くなる方へと進んだ。


 彼女から漏れ出す妖気は黒い触手のように正也や街を襲い始める。迫る妖気の触手を切り落としながらその中心へと進んだ。


 その途中で和斗に遭遇する。


「⋯⋯勝ったんか?」

 

「あぁ」


 その答えに和斗は凄く驚いていた。


「よし、この先にあの子がおる。早く行け」


「ありがとう」


「君は決して特殊な存在じゃない。それでも、あの子の元へと辿り着けるのは君だけや」


 そう言われ、和斗と別れる。


 身体の毒が切れだした頃、正也は走り始めた。


 そして、あの公園へと向かった。公園の入口から星野さんの姿を確認できた。


 正也の持つ刀は妖だけを斬る刀。星野さんの肥大化した妖の部分だけを斬る。

 そう決意して公園の中へと足を踏み入れた。


 それに反応するように星野さんはこちらを振り向く。


 低い唸り声を上げて威嚇してくる。それに怯えず正也は距離を詰めた。


 刀を振り上げ、そのまま直進する。


 今までの彼女との思い出が次々と蘇る。


 初めて会った日。

 勉強を教えた日々。

 一緒に帰った日。

 君に寄り添うと決めた日。

 守ると誓った日。



 その全てが正也にとっての『宝物』だった。



 確かに、初めは偽りの気持ちだった。


 だが、それはいつしか本物へと変わった。



「――――――――シオン!」


 彼女の名前を叫んだ。


 彼女の動きが止まった。生じた一瞬の隙で正也は間合いに入り込む。そして、その刀を振り下げて―――――。




『――――――先輩』


 そう微笑む彼女の姿が思い浮かんだ。








 ――――出来なかった。



 正也に彼女を斬る事なんて出来なかった。正也の手から刀が滑り落ちる。地面に落ちる刀。


 正也は紫苑に寄り添って抱き締めた。彼女の頭を自身の胸に押し付ける。



「⋯⋯好きだ」



 彼女の目から涙が零れた。







 ♦♦♦



 数日後。



 正也と和斗は負傷を治すために神社で眠り続けた。紫苑も鬼神化したせいか苦しみながら眠っていた。


 蛇男とローブの女の姿はいつの間にか消えていた。



 そして、12月25日。


 正也は紫苑との集合場所へと急いで向かった。


「ごめん。待った?」


「いえ、全然です」


 既に待っていた紫苑に謝る。紫苑は笑顔で答えてから正也の隣にピッタリとくっついて歩き出した。


 鬼神化した後遺症か、紫苑は髪の毛を染める事が出来なくなった。


 髪は常に紅かった。カラーコンタクトも身体が受け付けないようになってしまい、彼女の眼は綺麗な紅のままだ。


 鋭い爪と歯は削れる事に変わりはないが、以前より伸びてくるのが早くなったそうだ。


 額の小さな2本の突起物は以前より大きくなってしまった。


 それでも、なんとか前髪で隠せる程度の大きさだった。



 その日、映画を観て夕飯を一緒に食べた。


 その帰り。


「好きだ。付き合ってください」


「はい。喜んで」



 幸せな2人の姿がそこにはあった。





 ―――――かつて人として過ごした私は醜い化け物じゃなかったのかもしれない。


 普通に学校に通って恋愛して、人として生きてきたつもりだった。そして、これからも人として生きたかった。

 でもそれは叶わない。私は私の中に眠る力を知ってしまった。故に、私は私自身を人と認める事が出来ない。



 かつて人だった私へ。


 私はついに本物の化け物となってしまいました。


 それでも私は今、幸せです。


誤字、脱字があったらすみません


この話で回収出来ていない『時を超えれる妖』、『リュウさん』などの伏線は今後書く作品で回収できればなと思っています。すみません!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 異なる種族だろうが心を通わせられるということに胸がじんと温かくなった、とても優しい作品でした。 最初は紫苑の境遇を見ていたので和斗が何も悪いことをしていない彼女を襲ったのに理不尽なものを感…
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