深夜の馬車行と遠ざかる思い出
二頭立ての一台の馬車が、中央首都の夜道をひた走る。
ブルームと言われる箱型の二頭立て四人乗りの馬車だ。
馬車の両サイドにはオイルランプ製の灯火が備えられており夜道を照らしている。
夜空には雲が立ち込め、私は馬車の中から闇夜に沈んだ街を眺めていた。
街の名は中央首都オルレア。
壮麗な伽藍の建物が並び、街路は石畳とアスファルトで丁寧に舗装がされている。
道端には文明的都市の象徴であるガス灯が一定間隔で並び夜の道を照らしている。
それは何年も見慣れた光景だった。
馬車の窓をから見える夜景の一つ一つに思い出がある。
幼少期、初めて通った学び舎、
親友たちと何度も歩いた繁華街、
自分の人生を自分の意志で決めて門をくぐった軍学校の正門、
親愛なる親友たちが暮らしているはずの邸宅も遠くに見える。
その一つ一つを思い起こしつつも、二度と見ることはないだろうと私は覚悟する。思わず涙が目尻に滲んでくる。
「泣くな」
自分自身に言い聞かせる。覚悟した上でここに居るのだから。
再び窓の外を見れば親友たちとの思い出は遠くへと離れていく。私はただ自らの心のなかで、親友たちへと別れを告げた。
『行ってくるね、みんな』と、
お爺様が私を案ずるかのようにその肩をそっと叩いてくれる。私はお爺様に問いかける。
「ユーダイムお爺様」
その声にお爺様は柔和な口調で諭してくれた。
「さすがに親友たちに別れを言えぬのは辛いだろう。だが、お前自身が安全に出立するためには夜の帳に紛れるほかはない」
「はい、承知しております」
それはすでに覚悟したことだ。今さら後悔すべくもない。だがお爺様はこう言っていた。
「私がお前の出奔を知ったのは今日の夕暮れすぎだ。セルテスに打ち明けられたのだ」
「セルテスが?」
「そうだ。お前の力になってほしいとな」
そう語るお爺様の声にはかすかな怒りが感じられた。
「お前の軍学校での輝かしい実績を全て無視して強引な婚姻の強行、普通の親ならそんな無慈悲な事はせぬ。さすがに承服しかねていたワシは対策を講じようとしていたのだが、そこにお前の出奔の知らせが舞い込んだ」
お爺様は少し困ったふうに笑みを浮かべてこう告げる。
「儂も流石に驚いたぞ」
「申し訳ありません。お爺様」
私は思わず不安を感じた。だがお爺様は何よりも優しかった。
「なに、謝る事はない。お前が不当な婚礼から逃れ自由を得るために出奔を決意したという事ぐらい分かる。だが、本当はそれだけではあるまい?」
お爺様は私の全てを見通していた。何を思い、何を覚悟して、モーデンハイム家から、そして、この中央首都オルレアから旅立とうとしているのか、その何もかもすべてを。
「それは――」
私はお爺様に本心の全てを口にしようとした。だが、それを遮るかのように馬車はその速度を落としはじめた。
私は思わぬ状況に不安を感じた。胸の中で心臓が鼓動を強く打っている。
だが、お爺様は馭者席につながる小窓を開けて問いかけた。
「何事だ?」
馭者が焦りをにじませてこう答えてくる。
「正規軍・軍警察です。停止を命じています」
それは起こってはならない事態だった。
「まずいな」
「いかがなさいますか?」
「どこの所属の者だ?」
「おそらく夜間の巡回警備部隊かと」
お爺様と馭者が対策を考えようとしているその隣で、私は自ら尋ねた。
「隊員たちの歳の頃は?」
「年齢ですか? 18から20かと」
その答えに私は少し思案した。ある予感がしたのだ。
「軍学校を卒業して首都警備部隊に配属されてすぐ。もしかすると」
ぶつぶつと呟く私をお爺様が祖父が見守っている。かたや私は馭者へと命じた。
「開けてください。私が出ます」
「お嬢様?」
驚く馭者に私はなおも言った。
「私が話します。想像している人たちなら話せば分かってくれるはず」
それは賭けだ。分の悪い賭けだ。だが私はその賭けに挑んだのだ。
自らの旅立ちを価値あるものへとするために。