#8「カーネーションの花弁」
今回は残酷な描写を含みます。
苦手な方はご注意ください。
富士見さんの後退った先はレンガが後付けされた壁だった。俺からひと時も目を離さない。鼓動の震えは俺の鼓膜を突き破るほどだった。
身体はこんなにも緊張しているというのに俺の願望はたった1つで、思考はどんどん巡る。
包丁を突き付けていれば富士見さんは俺から目を離さない。ひと時も離さないんだ。自分にそう言い聞かせる。
この後は何をすればいいんだっけ…確か、そう。クッキーだ。クッキーを食べてもらわないと。
揃わない指先でタッパーを手に取る。
「あの、あのこれ…これ、食べてほしくて…自分で、考えたんです使う材料とか…うん、だからこれ、食べて、食べてみてくださいっ…!」
言いたいことをきちんと全て言えた。嬉しさで震える右手でタッパーを差し出す。富士見さんは顔を真っ赤にしてタッパーを見つめ始めた。温かいスープの入った鍋よりも真っ赤。濡れた両目をわなわなと震えさせながら、ゆっくりと俺へ向き直る。
「ク、ッキー?…たべる、食べるよ!だから、包丁を置いて…」
あぁ、なんて答えよう。ただただ、かわいい富士見さんから目が離せない。
富士見さん、なんて表情をするんだ。今までそんな表情、見たことがない。
すごい、すごいぞ。ふわふわしたブロンドの隙間から、怯えた真っ黒の瞳がオレンジの光で輝いている。そして俺のことをずっとずっと見つめているんだ。
きっと俺しか見たことがない表情だ。ずっと見ていたい。他にもたくさん見たい。
もはや富士見さんはスープのことなんてすっかり忘れて、下唇を噛みしめていた。俺が無言でいたせいか、富士見さんは諦めて腕を伸ばしタッパーを受け取る。
「猫君、本当に落ち着いて…どうしちゃったの?」
「あの…本当、うまくできたから…」
俺に語り掛けながら富士見さんはタッパーを開く。おかしな色のまだらが入ったチョコチップクッキーをその指でつまむと、もう1度俺を見た。
富士見さんが、俺の作ったクッキーを持っている!はじめて手作りクッキーを食べてくれた時の興奮を思い出した。いや、あの時よりもひどい興奮と嬉しさに包まれている。両手首の傷がじんじんと熱を帯びるのが包帯越しに伝わった。
俺の1部だったものが、富士見さんの1部になろうとしている。その肌に触れることが出来たら、愛でることが出来たら、どんなに幸せか。
はやく、早く食べてほしい!
「食べるからね…猫君、食べたら、その包丁を置いてくれる?」
「食べてください!そうしたら俺は包丁を置きます!置きますから!絶対に!毒なんて入れてない!早く!早く食べてください!」
俺がそう言うと、富士見さんは急いでクッキーを1口かじった。
俺にはその様子がスローモーションのようにも、はたまた早送りのようにも見えた。完璧とは言えない、少し長さの揃っていない歯で、クッキーとチョコチップを噛み砕く。ほんのり赤黒い生地と普通の茶色の生地が口の中で混ざっている様が想像できる。
胸が張り裂けそうだ。鼓動が止まらない。うるさいんだ。彼の咀嚼の音が、俺の気持ちを抑え付けて行く。気持ちが良い。
今度は俺じゃなくてクッキーを見つめている。まだら模様が気になって仕方がない、という具合に。
心臓が強く、何度も俺の胸の肉を叩く。
耳に響く。
目にも。
うるさい。
彼の嚥下の音が、聞こえなかった。
「…っ猫君、食べたよ、クッキー…だから包丁を」
「あ、あぁ、待って、待ってください、聞けなかった…聞けなかったから、ごめんなさい、もう1口だけ…!」
俺が半歩近付くと、富士見さんは反射的に一瞬顔を覆った。
ああ、あと1口。あと1度だけ、きちんと嚥下の音を聞きたいだけなのに。
鼓動やコバンソウが邪魔をする。
富士見さんを怖がらせてしまった。
あと1度だけ聞きたい。そうしたら今度は、
警察でも刑務所でも何でも行く、これが罪なら、この感情が全てダメなものだったとしたら、
どこへでも行くのに。償うのに。
「富士見さん、ごめんなさい…だけど、あと1口だけ!今度こそはそれで終わるから…!」
富士見さんは困ったように顔から腕を下ろし、
俺を見る。
もう一息だ。食べてもらうまで、もう一息!
また鼓動がうるさくなる。
俺の幸せを邪魔しようとしてくる。だから、
だからだからだから、
富士見さんに食べてもらえない!!!
「あぁ、そっか、うるさいよね、ごめんなさい、待ってて、待ってて富士見さんッ!ちょっと、すぐに落ち着くからッ!待ってて、待っててください…!」
ほんの数秒、
たったの8秒くらい間が空いただろうか。
俺はひどく落ち着いていた。
肺いっぱいに、富士見さんの甘い香り。
富士見さんは泣きながら俺の首の真横に顔を擦り付けていた。
しあわせだ。これがしあわせ。何もかもが満ちている。首で感じ取った富士見さんの鼻の形。
落ち着いた胸が、富士見さんの温もりでどんどん暖かくなっていく。
富士見さん、富士見さん、富士見さん。
彼の腕が俺の背中をしっかりと掴んだ。くすぐったくて、足の力が抜けていく。
そのうち俺の腕は言うことを聞かなくなってだらしなく垂れ下がった。
「猫君…ッ…どうして…どうして…っ…なんで…」
俺の耳元で、富士見さんはそう囁く。
静かだった。
俺は胸の感覚で思い出す。鼓動がうるさくて、コバンソウがうるさくて。
富士見さんの音がうまく聞こえなくて。
だから、
鼓動を無理に止めたんだ。
「ふじみさ、お、おれ」
「うごかないで、お願いだから…血が…出血がひどい…猫君が死んじゃう、死んじゃう…!」
俺の胸に突き立った包丁を動かしまいと、富士見さんは必死に俺を抱きしめる。
でも、かわいいなぁ富士見さん。もう無駄とわかってて、こんなに必死なんだ。
俺が何度自分の胸を刺したか、見ていたはずなのに。
俺はもう助からないってわかっててこれかぁ。
こんなに目の前で見る富士見さんははじめてだ。綺麗な顔立ち。透き通る涙がまた頬を流れ落ちていく。男なのに泣くなんて。
これを幸せというんだろうか。昨日の俺なら言っていたかもしれない。
でもこれは、なんだか違うなぁ。
俺はどっかで間違えたんだろうな。あー…どこだっけ?
静かになった。もう耳の奥をごうごうと流れる血の音ですら聞こえない。あれだけ簡単に出すことが出来ていた声だって。でも俺の考えはきっと
あそこの白いカーネーションが伝えてくれる。
もう、世界は富士見さんの音だけだ。
「ねぇ、猫君、どうしてこんなこと…猫君?…猫君!猫君!!しっかりして!!ねぇ!猫君!!動いて…動いて、お願いだから……動いて!!猫君!!猫屋敷君ッ!!!」
あは、富士見さん、面白い。
さっきと言っていることが真逆だ。




