#5「隠し味」
引かれた腕をうっとりと眺めながら1番奥のテーブル席につく。
すぐに富士見さんが向かいに座り、机に置かれた古いタッパーウェアの中身を嬉しそうに覗き込んだ。クリスマスに大きな菓子袋をもらった子どものように瞳を輝かせている。
「まっさらな見た目だね…バタークッキーかな、それともプレーン?…あはは、猫くん、僕の趣味に付き合うのにそんなに緊張しないでよ。心配しなくてもそんなに舌は肥えてないよ」
ずっと俯いているのを恥ずかしがっていると勘違いされたようだった。富士見さんがあのクッキーを手に取っただけで。罪悪感で背中に電撃が走る。
両頬が熱くなるのを感じた。胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちの悪い感覚。病熱に浮かされて夢を見ているみたいだ。
「普通の…普通のやつです」
「そっか!何も混ぜてないんだね」
その言葉に視線が泳いでいく。ばれているかもしれないという憶測に鼓動が反応する。
自分の快楽を得るためだけに賭け出る。
「…混ぜてます」
「ん?何をかな」
「…秘密です…うまく秘密になっているかどうかを、当ててみてほしくて」
「なるほど!僕の舌を試すんだね。よぉし…頑張るぞ…」
富士見さんはつまんだ1枚を舐め回すように見つめた。どこかに色が入っていないか。何かの香りがしないかどうかを確かめている。自分の裸体を隅々まで見られているような恥ずかしさを感じ、自然と乾いた作り笑いが漏れてしまう。
ついに富士見さんは見た目や香りで判断するのをあきらめ、虫も殺さぬような優しさでクッキーに乳白色の歯を立てた。その光景を目の当たりにした瞬間、理性と後悔の波が押し寄せ、突発的に何かを言おうとし「あっ」と小さな声が口を突いて出る。しかし、その声は富士見さんがクッキーをかじる軽快な音にかき消され、もう2度と戻ってはこない。
声も、クッキーも
理性と後悔も。
あぁ、富士見さんにクッキーを食べさせてしまった。あの優しい富士見さんを、騙してしまった。
自分の恥ずかしい欲求を満たすために、綺麗な富士見さんを汚く使ってしまった。
今、富士見さんが俺の目の前で、
正真正銘、俺の血液が混じったクッキーを口の中で丁寧に転がしている。
「混ぜ物」しているクッキーを
「…大丈夫?猫君」
冷や汗が止まらない。これは求めていた快楽とは程遠い何か。そう、一瞬忘れかけた罪悪感だ。
富士見さんの顔を見ることが出来ない。いや、咀嚼しているその瞬間を見ることが出来ない。なのに、どうしてこう思うんだろうか。
もう1度食べさせたい、と。
「…いやぁ、厚着しちゃってて蒸すなぁって。どうですか?はじめて作ったんすけど」
「あぁ、美味しいよ。1人で作ったにしては上出来で…ネットでレシピを調べたの?」
「調べました。余熱って言葉もはじめて知ったくらいで。生地がべたべたしたからレシピとは別に小麦粉ふったり、俺の好みで砂糖をきび砂糖に変えたりしてますよ」
俺も、言葉も、クッキーも、何も疑わずに2枚目を口にする富士見さん。
本当に可愛い。優しいが故に俺みたいな異常性癖持ちの的にされてしまっている。何の疑いもなく、俺の大好きな表情で「美味しいよ」なんて言ってのける。たまに口に指をあててはいまだに何が混ざっているかを真剣に考えるんだ。絶対にわかりもしないことを。
可愛い。可愛い。可愛い。
ほんの数滴だけの隠し味。俺の血液はエッセンスになりえない。つまり、俺以外の誰にも分らない隠し味。
帰り道はあっという間だった。必ず通ったであろう道を歩いたことを思い出せなかった。いつの間にか自宅の門の前に立っていた。昨日とは打って変わって、泥棒のようにゆっくりと門を開く。小道に咲いたリナリアと砂利を見つめながらドアまで歩き、冷静に鍵を回すと案外スムーズだった。後ろ手に鍵を閉め玄関へ荷物を投げる。
頭の中は甘いクッキーでいっぱいだった。別に好きでもないクッキー。どうして次があると考えたんだろうか。どうして、次も混ぜ物を考えているのだろうか。
救われたからだ。富士見さんの笑顔に。俺をほんのちょっぴりも疑わない純粋さに。
階段を上り、明かりをつけるためカーテンを引こうと窓に近寄る。隣のアパートに明かりがついている。三途川先生の部屋だ。かろうじて見えるスペースはほとんど物がなく、黒い骨ばかりのデスクと卯の花色のソファがあるのみ。思わず息を止めて窓の下へ身を隠してしまった。アパートの窓から三途川先生ではなく、
蛇籠先生が見えたからだ。