#3「1人のキッチン」
今回は残酷な描写を含みます。
苦手な方はご注意ください。
バイトが終わるのは19時30分。学校が6時間目までの日は長くはカフェにいられない。
整備されていないアスファルトの上を歩きながら、似たような形をした自分の左腕をさすり家路を急いだ。この日は久しぶりに疼いて仕方がなかった。
大きな門を開き、急いで閉めて鍵をかける。うちはドアまでの距離が長すぎる。
切れるような息は汽車のように白く色ついた空気を何度も送り出す。やっとたどり着いた自宅のドアを開こうと鍵をポケットから取り出すが、1度落としてしまい、拾い上げたが今度はうまく鍵穴に刺さらない。ドアを開け、慣れた手つきで後ろ手に鍵をかける。自室に駆け込み、誰が入るともなく再び鍵をかける。
「はぁ…はぁ…はぁッ…」
張り詰めた部屋。明かりのスイッチを押すと同時に荷物を放り出し、ペン立てからカッターナイフを掴むと引っかかって他の文房具もぶちまけてしまった。
我慢できない。我慢できない。我慢できない。
2メモリまで刃を出しブレザーも脱がずに左手首に押し当てた。
刃の鋭い感覚を感じ、恥ずかしげもなく震えたため息がこぼれる。さっきまでの荒れた呼吸が嘘のように。ふと目に入った鏡の中の俺は、頬をさくらんぼの様に赤くしていた。
そのままゆっくりと引く。暖かい痛みに膝がくすぐられ、俺はその場に崩れ落ち膝をついた。快楽に肩が喜び、背中は痙攣し、体が跳ねながら仰け反った。切なく鼓動を打つ下半身よりも左腕の熱に心を奪われる。天井は相変わらず数えるシミがない。
眉間が力み、代わりに口角は脱力しきり、だらしなく唾液が零れようとしていたがそれをせきとめる理性は残っていた。
「はぁ…やべェな…」
太ももの力が抜け、床に尻をつく。膨らんだものが心地悪くその場に収まった。再びカッターナイフを左腕に当てさっきよりも力を込めて引く。
「…う、ぐぅあッ…ッ…!」
瞳の両端から熱い体液が滲む。みっともなく声を漏らしながらさらに熱を帯びていく頬と左腕のじんわりとした感覚に全神経を集中させていた。腰にうまく力が入らず、がくがくと震えだす。
一瞬の痛みを我慢すれば、この暖かく心地よい感覚を感じることが出来る。体の動きを制御できないほどの快楽。胸の先端まで電撃が走るように痺れた。
瞬間、はっと我に返った。
何をしているんだろう…
そんな考えは、体液の滴る左腕を見て一瞬でなくなった。
もっと切りたい。もっと痛めつけたい。
さらなる痛みを求めれば、その先にはさらなる快楽と暖かさが待っている。そう考えるといてもたってもいられなくなり、貪るように、鷲掴みするように、求めるように、左腕に無数の傷を刻み始める自分がいた。
飢餓に苦しむ犬が豆の山を見つけ、唾液を滝のように零れさせながら噛みつくように。
すっかり落ち着いた胸をなでおろし、静かに左腕の傷にガーゼと包帯を巻いた。
まるで心臓がいなくなったかのような感覚。白紙の脳内のままただ作業的に傷の治療をする自分がいた。もう傷を見ても切りつけたいだなんて思わないほどにまで満足していた。
「…サージカルテープがない」
迂闊だった。そういえばこの間足首を痛めて湿布を貼った時にそのままにしてしまっていた。キッチンかリビングに置いてあるはず。
包帯を右手で止めたままリビングへ向かった。誰もいない自宅。フローリングを踏む耳障りな音がやけに大きく響く。
両親は海外で仕事。弟は療育施設に入所。
1人だとこんな特殊な性癖をしていてもなんとか欲望を満たすことが出来る。慣れてしまった冷たい空気にひたひたと裸足を這わせ、左肩でキッチンの明かりのスイッチを押す。サージカルテープはテーブルの上のかごの中。
ふと食器棚を見る。全く使わず、埃を薄くかぶったボウルが置いてある。
富士見さんの言葉を思い出した。
「クッキーを焼いてきてよ」。その言葉が脳内で再生された途端、傷口がずくんと痛んだ。続けざまに俺の大好きな痺れるような心地。
富士見さんに抱きしめられる妄想が突然大きく膨らんだ。まるで今ここに富士見さんがいるかのような感覚。あの甘酸っぱい匂いが鮮明に鼻腔を通り抜けていく。彼の左肩に埋もれる俺の頭。背中に力強く添えられた両腕。そして俺の耳朶に落とされる微かなキス。
その血肉になりたい。
包帯ははらはらと螺旋を描きながらフローリングの上へ落ちた。