#2「さくらんぼ」
「お疲れ様です…」
できるだけドアベルを鳴らさないようゆっくりドアを押し開けると、すでに1組のお客さんがテーブルで談笑をしていた。almondの内装を見て心臓の音が大きく聞こえるようになった。
カウンターにはalmondの店主、富士見さんが口に手を添えながら「おつかれさま」と唇を動かした。そして右目に清潔なガーゼを当てた顔で俺に微笑みを投げかける。
その微笑に答えるように俺は下手くそな笑顔を向けると足早にスタッフルームに駆け込む。どんどん熱くなる顔を必死に冷まそうと手で団扇を作りながら。吊り上がって仕方ない量頬を押し抑えながら。放課後の楽しみがやってきた喜びを抑えきれない。
荷物を置き、ブレザーを脱いで見えかけた左手首の傷跡を誰かに見られているわけでもなく慌てて隠す。かけてあるエプロンを腰の後ろで結んだ。胸には「柳」のネームプレート。すぐそばにデスクトップを置いた机があり、その下には富士見さんの荷物が置いてあった。
ここは富士見さんの甘酸っぱい匂いが強すぎる。肋骨を叩き割ろうとばかりに強くなる鼓動。
ふと、カウンターへのドアに取り付けられた小窓を見る。カウンター側から見るとただの鏡だが、スタッフルーム側から見ると小窓になっているマジックミラーだ。
富士見さんの細長い背中が見える。掴めば頭が落ちてしまいそうな首。細くて柔らかそうなブロンドの髪。短く切りそろえられた桜色の爪。襟にだらしないしわが入った麻のシャツ。ふわふわと軽い仕草。俺とそろいのキャラメル色のエプロン。
暫く見惚れていた。富士見さんと、その背後の霊に。
almondは店主の富士見輝莉生が一人で切り盛りしている。というのは、嘘だ。
富士見さんの背後にはその身には似合わない、どす黒く揺らめく背後霊が体をぴったりと這わせている。その両腕は富士見さんの腕の中へと消えていっている。輪郭がはっきりとしない頭を重たそうに彼の肩に乗せているのだ。その横で富士見さんは笑う。
ここでバイトを始める前。学園のゴシップ好き女子の噂話を小耳にはさんだ。元々富士見さんは両腕が不自由の障がい者であり、カフェを営み始めた頃に亡くなった恋人の強い想いで腕が動くようになったという噂。
恐いもの見たさにカフェに足を運んで、このざまだ。
見える俺にはそれが噂でないことがすぐにわかった。ドアを押し開け、カウンターへ出る。1組しかいなかったお客さんはすでにいなくなっていた。
「帰りましたか?」
「うん。たった今ね。しばらくお客さん待ちだね」
富士見さんが食器を片付けるためにカウンターを出た。言いつけられたように後を追い、片付けを手伝う。1歩だけ引いて見る富士見さんはもっと綺麗だった。すっとするようなムスクの香り。
「そうだ、猫君」
テーブルを満遍なく拭きあげながら富士見さんは俺の方へ顔を向けた。
「教えたクッキーのレシピ、どうかな。やっぱり甘さ控えめの方もメニューに入れてみようかな」
almondではサービスとして小さなお菓子を毎回1品お出ししている。富士見さんの気まぐれで焼いた焼き菓子がほとんど。甘いもの好きの富士見さんが作るクッキーは少し甘すぎるくらいで、それをお客さんに指摘されたことで悩んでいた。
「俺は好きですけどねあのクッキー。しゃくしゃくしてて、1枚1枚が特別って感じがして。2、3枚提供するなら尚更」
俺の意見を聞いても首を傾げて悩んでいる。それほど富士見さんはお客さんが好きなんだ。食器を水場へ移動させる間も悩み続け、泡まみれの手をせわしなく動かしながら彼は提案した。
「そうだ、猫君。猫君の好みのクッキーもサービスしてみようよ」
「え…俺っすか?」
うん、とやわらかい笑顔の富士見さん。細められた瞼から覗く黒い瞳。小さなシミと杏子色の頬がベルベットの布のように吊り上がった。そんな表情をされると一瞬しか顔を見ることが出来なくなる。頬が痒くなったふりをして、必死に顔を隠す。
見られたくない。見られたくない。見られたくない。
「どうせ君、宿題出されても提出しないだろ?代わりになんでもいいからクッキーを焼いてきてよ。僕が味見をして、オッケーならお出しする…完全に僕の趣味なんだけどね。楽しそうじゃない?」
富士見さんが思い描いているのは俺じゃない。クッキーだ。クッキー。
クッキー。
背中を下から上へ、百足が這っていく感覚に身悶えした。誤魔化す様に咳ばらいを1つ。
「プレーンじゃなくてもいいよ、ジャムとかココアとか練乳とか…混ぜ物しても鮮やかで良いよね」
「…わかりました、何か作ってみるっす」
いつの間にか呼吸は鼓動と同じ速さになろうとしていた。