#2「本心」
会議室ではすでに高等部の2年生と1年生が集まって、教科書をそれぞれの机にしまっていた。
特に決められたチームはなく、年上の生徒が自分の学習をしながらも年下の生徒に勉強を教えるのがこの学園のやり方。学年が上がるほど年下の生徒に教える回数が増えるからアクティブラーニングは難しくなる。
その中で僕は深緑の髪の毛を一瞬で見つけ出し、声をかけた。
「愉嬉歓、おはよ」
東三条愉嬉歓はこの学園の2年生で、保育士を目指している唯一の男子生徒だ。
そして唯一、高校卒業後に上京することを望んでいる生徒でもある。
「知真輝!おはよう」
僕は鞄を愉嬉歓の隣の席に置き、彼の頭をクシャクシャと撫でた。彼は手では嫌がりながらも綺麗に並んだ白い歯を見せながら笑っている。最初はおふざけで彼を子ども扱いしていたが段々とそのやりとりが日常になっていった。
愉嬉歓はこの学園の誰よりも僕に懐いている。
絶対に僕が1番だと思う。
「じゃあ、知真輝先生今日もお願いします!」
愉嬉歓は元気よく机から教科書を出した。他の生徒とは違う保育方法論の教科書。
眉毛の内側が勝手にぴくりと疼く。むず痒い感覚を払拭しきれない。
「…それ、大学で習う内容だろ。やっぱり今はしなくてもいいんじゃないか?そもそも僕だって内容全てがわかるわけじゃないし、いつも一緒に教科書を読んでるだけじゃん」
彼は僕がぶつぶつと文句を言っている間、ひと時も僕の顔を見なかった。
「え、でも行きたい東京の大学は指定校推薦で入るから他の試験勉強はしなくていいし、もう高校3年生レベルの授業内容までやったからさ。普通の勉強はいつもの授業で十分だよ」
ほんの数回、僕の授業のおさらいをしただけでもう三年生気取りをしている。彼は付箋の付いたページを開き、続いてノートを広げた。はやく保育の勉強をしたくてわくわくしているように見える。筆箱には僕が以前プレゼントした布のストラップ。家庭科の授業で刺繍した「YUKIKA」の文字。
まだ付けててくれたんだ。良かった。
でも胸の奥の重いものが更に重くなっていって息が苦しくなる感覚が抜けなかった。
「そう…だよな」
「あ、わかった。知真輝、自分より僕がどんどん賢くなっていくのが悔しいんだ…年上のくせに!」
愉嬉歓はさも僕が言いたい胸の内を勝手に見たとでも言うようにニヤニヤしはじめた。元々細い目元をさらに細めながら。
僕は言い返せないでいた。
一人っ子の僕は愉嬉歓のことをいつの間にか弟のように可愛がっていた。唯一僕のことを頼ってくれる愉嬉歓が、僕が卒業した後たった一年で遠い東京へ行ってしまうと思うともやもやする。
彼は僕の所有物ではないけれど、僕の大切な物を知らない人が勝手にどこかへ持っていった気分だ。
「今日は新しい章の半分まで勉強したいんだ。間に合うかなぁ」
僕がプレゼントしたストラップを引っ張って筆箱を開けた。
午後は学園全体のアクティブラーニング。体育で下級生のお世話だ。
体育と称して寒空の下に出るのは嫌いだ。友達とふざけ合いながら楽しく球技が出来るわけでもなく、年下にレベルを合わせなければならない。怖がらせないように笑顔でいなければならない。長く感じることになる。
どうやってさぼろうか。俯き気味に校庭へ出ると、砂とコンクリートの間から顔を出すおかしな形の花を見つけた。
「なんだ、この形…気持ち悪ぃ」
黄色味の白で触手のような花弁が印象的だ。たった2つ花が咲いているだけで周囲を見渡しても同じ形の花は見当たらなかった。不自然なその花は僕みたいに俯いて咲いている。
「…色は綺麗なのに、やな奴だな」
花に見入っていると、背後から消極的な声が聞こえた。
「それ、碇草です…」