#9「犯人」
今回は残酷な描写を含みます。
苦手な方はご注意ください。
病院の受付に立っているだけなのに周囲の視線が酷く体中を突き刺す感覚がある。私の問いかけに対して看護師さんが困ったように奥に行ってしまったからだ。両眼を固く閉じただ時間が過ぎるのを待っていると数秒前と変わらない表情をした看護師さんが顔を覗かせた。
「ごめんなさいね。その患者さんはもういないの。これ以上のことは教えてあげられない決まりになっているから…」
「そうなんですね…すみません、ありがとうございました」
今すぐ愉嬉歓に会いたい。
今度こそ愉嬉歓の心の奥底へ行きたい。
全てを聞きたい。彼の力になりたい。今度はあたしが守ってあげなくちゃ。
私にそんな資格があるかわからないけど。
富士見さんが死んだ。
誰かに殺されていた。
僕が話したからだ。
そうに違いない。
あの優しい富士見さんが、穏やかな富士見さんが、働き者の富士見さんが、誰かの怨みをかうわけがない。
僕が話したからだ。
本当は花如が嫌がらせを受けていると話したから
きっとそうだ。
じゃあ、あの「しんでしまえ」のメッセージは
僕が花如の机を毎朝こっそり片付けているのを知っていて
わざと僕に向けたメッセージを花如の机に仕込んだんだ。
そうだ。絶対そうだ。
だって、富士見さんは死んでた。
確認した、何回も何回も確認した。
鼻からも口からも空気は感じなかった。血は本物だった、鉄っぽくて口の中が熱くなるような味がした。
お腹から飛び出たあのモノの感触も、触ったことがない不思議な感触。ぬるぬるして、手で掴むとつるんと床へ落ちた。いつも清潔なシャツとエプロンを纏っている富士見さんが、汚らしく血液にまみれて、その辺で踏みつぶされて誰にも知られずに死んだような虫と同じように、そこでごみになっていた。
レジのお金も手付かずで富士見さんの荷物はスタッフルームにきちんと置かれていた。
犯人はもう既に僕の存在を知っていて、花如への嫌がらせの邪魔をする敵だと思っているんだ。つまり、
次は僕なんじゃないのか?僕も殺されてしまうんじゃないのか?ただの子どもの嫌がらせを邪魔しただけで?
僕が?殺される?
「ふざけんな…」
なんてくだらないんだ。こんなことで人殺しをする人がいて、今度は僕が狙われている。
僕の未来、こんなことで殺されて終わるのか?
1番落ち着くはずの自分のベッドの上。両手を見つめる。
「ごめんねぇ花如ちゃん。愉嬉歓、呼んでも返事しなくって。呼吸の音が聞こえるからまだ寝てるみたいなの。せっかく心配してきてくれたのに」
愉嬉歓のお母さん、久しぶりに見た。少し細くなったように感じる。
「いえ、いいんです…お母さんこそお仕事の途中なんじゃ」
愉嬉歓のお母さんは表情をころりと変え、突然嬉しそうな笑顔に切り替わる。
「いやいや、あたしは少し抜けて来ただけだったんだけど、戻ったら会社の上司に『早く息子さんとこに行きなさい』って逆に怒られちゃってねぇ!うちの会社の人とってもいい人ばっかりで…あら、花如ちゃん、学校は?」
「あっ…あの、お邪魔しました!」
今更気付いた。愉嬉歓はすでに精神的に追い込まれているかもしれない。いくら事実を知りたくてもこれ以上愉嬉歓を傷つけたり、傷に塩を塗るようなことは嫌だ。
だったらもう手段はひとつしかない。
翌日のまだ車通りも少ない暗い早朝。私は足早に街頭の下を何度も通り抜けた。
私は今日、愉嬉歓いじめの犯人を力ずくで捕まえる。
自分の気持ちを落ち着かせるためにイヤホンを耳に詰め込んだ。普段聞きもしない川のせせらぎを聞いている。落ち着く為とはいえハイテクなものを使ったかなり原始的なやり方だと思う。
緊張でいつもより歩く速度がどんどん早くなる。犯人が先にいたらどうしよう。すでにいたずらをした後だったらどうしよう。いたずらをされる前に、出会ってしまったら…
ついに昇降口に着いてしまった。イヤホンを巻き取って鞄に押し込む。音を立てないよう慎重に靴を履き替えた。
自分のクラスを通り抜け、横目にまだいたずらをされていないことを確認する。なぜか安堵のため息が漏れた。そのまま奥の女子トイレへ向かう。リノリウムの床と上履きがこすれないように踵から静かに着地しながら。
女子トイレの明かりを灯さないまま入口に敷かれたすのこの上に荷物を置く。ブレザーとカーディガン、シャツを脱ぎ捨て鞄から引っ張り出した黒のジャージを着た。揃いの黒のジャージに足を通す。
鼓動が高鳴っていく。まるで自分が泥棒でも働いているようで。
寒さからか吐く息は白く、私の口の前に溜まっては音もなく流れて行く。頭の中でシミュレーションをする。どう捕まえるのか…武器もなしにただ掴みかかる事しか考えていなかった。
息をひそめて私以外の何かの音をひたすら待つ。
だけど、その音は私をそう長く待たせなかった。
私の教室へと入っていく小さな1つの足音。落ち着いた足音。一瞬の怒りで私の瞼が痙攣する。呼吸をもう一度整え、自らの胸を拳で叩く。恐怖と緊張で拳は震えていた。
愉嬉歓を救うんだ。愉嬉歓の笑顔をまた見たい。
いつもの日常に戻りたい。みんなと。愉嬉歓と。
毎日が楽しくて仕方がなくて、明日を考えて眠ることが出来なくなっていたあの日々に戻りたい。その為なら私はなんだってやる。たとえ愉嬉歓が嫌がったとしても、守るんだ。
私が悪者になったとしても。
これは仕方がない事。
私の幸せを、愉嬉歓の幸せを邪魔する奴は
私が許さない。
女子トイレから思い切り飛び出し、無人の廊下を駆けていく。今度は音すらも気にせず、自分の存在さえも隠すことなく、ただ堂々と教室のドアにしがみついた。
ふと、今までの感情全てがよみがえる。怒り、悲しみ、憎しみ、それと、
この感情にはまだ名前はない。
愉嬉歓、待ってて。私、今まで以上に頑張りたい。早く私と学校に行こう。みんなと一緒に帰ろう。心の中で微笑む愉嬉歓にそう告げる。熱くなる目頭にぐっと力を入れながら。
呼吸ひとつ挟む間もなくガラガラと大きな音を立て、勢いよくドアを開くとそこには私より小さな、そして小柄な人影。大きな音に一瞬体をびくつかせて私の方へ顔を上げ、後ずさりをしていた。
その犯人は、
愉嬉歓の机ではなく、
私の机の前に立ち尽くしていたのだ。