07 きょうふのついせきしゃ
オーガという種族がいる。7尺(2メートル)にも届かんばかりの体躯に強靭な筋肉を併せ持った、狂猛な亜人であり、忌むべき食人の習性を持っている怪物であった。俗に人食い鬼とも呼ばれており、他の種族からも似たようなあだ名をつけられている。彼らオーガは、人間のみならず、ゴブリンも、ドワーフも、エルフも、オークさえも、区別せずに食事とみなす為に、等しく他の種族から恐れられていた。
例えば、ゴブリンは、オーガを単純にゴブリン語で大口野郎と呼んでいるが、オークはウルク・ガット・シュタット。つまりウルクを食らう胃袋と呼んでいた。ウルクとはオーク語の父祖、かつオークが自身の種族を呼ぶときの呼称であって、言ってみれば、殆んどの全ての亜人に人食い鬼呼ばわりされている訳なのだが、これでオーガ族がどんな連中かは理解してもらえたと思う。
ところで、殆どのオーガはおつむの出来があまりよろしくない。童話や昔話などで、正直な農夫や徳の高い坊様、時に子供などに出し抜かれて、せっかく捕まえた捕虜に逃げられたり、機知と機転で退治されたりする人食い鬼は、大概がこいつである。
しかし、稀な話ではあるが、オーガには奇妙な個体や、とてつもなく恐ろしい奴がいたりする。
そうしたオーガは、人間並みに知恵が回るだけではなく、中には、武芸の鍛錬に狂って途轍もない達人になった奴もいる。(それは例えば、ゴブリンやあのトロルにさえ、研鑽したり、或いは魔術を使いこなす奴もいるのだが)
生まれつきの食欲が何処かに行ってしまったのか。音楽家に弟子入りしたオーガなども有名な事例であるし、何をとち狂ったのか、北のほうの王国で料理人になったやつまでいる。幸いなことに材料は豚や羊であるそうだが。
しかし、一方で、オーガには、生まれながらにおぞましい魔法の力を持ち、使いこなす奴がいることも知られていた。
オーガ族独自の魔術のうちには、食べた相手そっくりに化ける魔法があって、こいつを覚えたオーガはもう手の付けられない、恐ろしい脅威であった。なにしろオーガというのは、普通の……つまり、頭の悪いオーガでさえ、歴戦の騎士や熟練の狩人などが命がけで立ち向かう相手なのだし、そうした勇者でさえ、返り討ちにあってオーガのおやつにされてしまうことも珍しくないのだ。
クリスが見るに、最近、友人のアーニャの様子はおかしかった。
いや、元から変な娘ではあったけれども、いささか度が過ぎている。
アーニャは年若い娘で、きらきら輝く金髪に翠玉の如き瞳、整った鼻梁を持ったエルフのように美しい顔立ちをしているが、四六時中、眉間に浮き上がっている険しい縦皺が折角の美貌を台無しにしてしまっていると言うのが、村の衆目の一致するところであった。
主に大麦と蕪を育ててる畑を持っていたが、両親から引き継いだ土地を熱心に手入れをすることもなく、簡単に仕事を済ませては、木製の剣を腰に吊るして落ち着かない様子で昼も夜もなく村の中を歩き回ったり、村はずれの丘で何度も木に登ったりで、遠方の様子をじっと睨んでいる姿を幾度となく目撃されており、村人の中には物狂いになり果てたかと懸念する者もいた。
とはいえ、なにぶん、両親を亡くしたばかりの気の毒な娘でもあり、事情が事情であるために、村人たちは眉を顰めつつもアーニャの奇行を咎め立てはしていない。していなかった。
ところで、奥深い森というのは、オーガの好む環境でもある。森に入り込んだ娘がオーガに入れ替わられて戻ってくる。それは小さな農村にとっての悪夢だった。
実際に小さな村が人に化けるオーガに丸ごと食われてしまった事例もあるし、逆に、単純に迷子の行方不明者が出ただけなのに、オーガが誰かに化けているのではないかとの疑心暗鬼から魔女狩りが引き起こされたこともある。
だから、オーガは恐ろしい怪物なのだ。それは、戦慣れした農民が粗末な武具を振り回したところで、素手で引き裂いてしまうような人語を喋る人食い熊にも等しい存在だった。
そうして、背筋の凍るような雄たけびを上げながら、太いこん棒をぶんぶんと振り回している。アーニャの顔形をして全裸で吠えているあれは、果たしてクリスの幼いころからの友人のアーニャだろうか?小娘の腕力としては少しおかしくないだろうか?そしてあの大人たちから警告の昔話でよく聞かされたオーガやトロルによく似た咆哮は?
アーニャは、じっとクリスを見つめていた。
「……なにをしているの?」
凍り付いたように固まっていたクリスは、やっとのことで喉から絞り出すようにして声を出した。
声は掠れていたと思う。
アーニャは応えない。棒を捨ててクリスに向き直った。ドス、と重たい音が響いた。
クリスは重ねて問いかけた。
「なにしてるの?」
「えーっと、その」
下穿き一枚のアーニャは一歩進んだ。クリスは一歩下がった。
アーニャは、首を傾げた。
「なんでにげるの?」
「なんでこっちにくるの?」
アーニャがじっとクリスを見つめた。瞳は異様に輝いている。
「どう説明したものか」
頭をポリポリと掻いてるアーニャの肩に、小さな妖精がぴょこんと乗っかった。
「なにをやってるー。おーがらしくほえるんだー」
分かって言ってるな、こいつ。と、アーニャは渋い顔でデコピン。妖精を跳ね飛ばした。
「あうち」
「ちゃうねん」
言ったアーニャだが、クリスがほほ笑んだ。アーニャも微笑んだ。
二人は同時に地を蹴った。アーニャはクリスに向かって。そしてクリスはアーニャに背を向けて。全力で走り出す。
「逃げないでー、どうしてにげるんだー」
アーニャが淡々と呼びかけた。
「無表情で追いかけてこないで!怖いから!本気で怖いから!」
クリスが叫んだ。
「ちがうー、ちがうんだー」
「いやああ!こないでぇえええ!怖いから来ないでぇえ!」
クリスは必死だった。恐怖に引き攣った表情で叫んでいる。村で評判の美人の面影もない。
あかんですよ、これは。
「みちにまようよー、あぶないよー、とまってー」
アーニャの忠告にも、返ってくるのは支離滅裂な叫び声であった。
「やだばあああ!こっちくんなああ!」
このまま村まで逃げられてあることないこと吹聴された場合、ちょっと村での社会的地位的に致命的な影響を受ける気がしてならないので、アーニャはクリスを全力で追いかける。
クリスは全力で走った。人生でこれより早く走ったことはないと断言できるような速度だった。
葉っぱや木々が飛ぶように背後に消えていく。にも拘らず、小さな足音は徐々に近づいてくる。
「クリスー、クリスゥ」不気味で平坦な呼びかけの声。
声音はアーニャだが、アーニャではない。そうクリスは、確信する。
アーニャの姿を模した何かが徐々に距離を詰めてきている。
悲しみと悲嘆と恐怖と絶望で頭がぐしゃぐしゃになって胸が張り裂けそうだった。
発狂寸前で兎に角、森の外を目指すクリスだったが、方向が分からなくなってくる。
だが、止まるよりは走ったほうがましだった。
木の幹を横に曲がった途端、クリスは深い泥濘に足を取られた。僅かに滑るが、体勢を立て直し、背後を見る。いない。足音が消えていた。
ぜいぜいと息をしながら、背後に視線を凝らした。気配が消えている。
振り切ったのだろうか。思った瞬間、横から飛びかかってきた影に背中から抱きすくめられた。
「だめりゃあああ!」変な叫び声がほとばしった。
「くりすぅうう、くりすぅうう」抱きしめてくるのはアーニャ。だみ声で呻る。
「あーにゃやめて!やめてぇえ!
この間の畑の境界の件で味方してあげたじゃない!」
手を拘束されたので、足をバタバタして本気で暴れるクリス。
「くりすぅ、なんて柔らかいんだろう。ぐへへ」
肉の柔らかさを確認しているのか。なぜか胸を揉んでくるアーニャ。
「うわああああ!なんっつよいちから」
暴れるクリスを、アーニャはものともしない。ひょいと持ち上げる。
クリスは2歳年上である。上背もあるのに、びくともしない。
「うそおお!?」クリスの全身に冷や汗がぶわっと吹き出た。
あかん、これはオーガです。人生終了。お父さん、お母さん、ごめんなさい。
クリスの気が遠くなった。生暖かく黄色い液体が太ももを伝いながら地面へ滴り落ちて湯気を立てた。
すすり泣いているクリスを抱えて、アーニャは軽い身のこなしで森の奥へと歩き出した。
切り出した岸壁に戻るため、ひょいひょいと根っこを乗り越えながら、潰れた声でクリスに呼び掛ける。
「なんで逃げるのさー」
「たべないでぇ。たべないでぇ」
すすり泣いてるクリス。からかい過ぎたようだ。
「食べないよう」
宥めるアーニャの頭の上。
「せんりひんだー、おかせー」
「ひいいい!」
アーニャの髪の毛に乗っかってる妖精たちのうち一匹が、また余計なことを叫んでいた。
「するーず、こいつ」
こういう下品なトークをぶっ放すのは、するーずと決まってる。アーニャ覚えた。
頭の上のするーず目掛けてでこぴん。飛ばされた妖精が地べたに向かって飛ばされる。
「ぐんー?!」
あ、間違えた。悲鳴とともにちっちゃな熊の着ぐるみの妖精が泥濘にぽちゃん。