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05 森

 冷たい雨がしとしとと降り始めた。

 降ってくる前に薪を拾ってと、或いは豚に食べさせるナラの実でも集めようと思っていたが、天候ばかりはままならない。肌寒さに白い息を漏らしたクリスは、木陰から鈍色の天を見上げた。

 トスカ村の外れにある森は、奥深く鬱蒼と翳っている。

 

 木立の下で小ぬか雨を避けながら、クリスは視線を彼方と広がる地平線へと転じた。

 村の外になだらかに広がる大地には、麦を刈り入れたばかりの赤茶けた地面が広がっている。

 危険なのは森の生物ばかりでもない。

 時期的に冷雨の降るのがもう少し早ければ、凶作になっていただろう。それほどでなくとも例年、不作が続いている。

 戦乱や飢饉で土地を追われる人々は、ますますその数を増しており、昨今では、放浪者や浮浪者の姿を街道に見ることも珍しくない。

 集団で町から町へと移動する流民は、大概が武装しており、常に村や町の人々の不安の種となっていた。


 例年であれば、麦で10籠の種籾を捲けば、17~18籠の実入りを期待できたのが、今年の収穫は15籠に過ぎなかった。しかも、このうち10籠を種もみとして残しておかなければならない。

 クリスは七人家族であった。両親と子供が5人。姉を筆頭にして弟二人と妹がいる。

 五籠では、七人家族の胃は十分に満たせない。

 育ち盛りの子供がいるのだ。市場に持っていって交換する小麦は勿論、エールを醸造したり食べる大麦にも不足があった。

 食事の量も節約気味で、だから今、クリスは森で薪を拾うついでに、食べられそうなものもあればと探している。

 だが、奥深い森は一つの異世界であった。村人たちも慣れた外縁を歩くだけ。けして深入りしない。奥に行けば実りも豊かとなるが、そこには狼やゴブリン。そして得体の知れぬ生き物が巣食っている。

 獣を狩る狩人でさえ、森に潜るのは枯葉の落ちて見通しが良くなる冬だけなのだ。


 農民といっても、麦だけ食べて暮らしている訳ではない。

 豚も飼ってるし、牧人に羊も預けている。古の帝国時代から伝統の食事である玉ねぎや蕪も育てている。鶏の卵、チーズ、山羊や牛の乳。インゲンやソラマメといった豆類にキャベツやネギ。野を歩けば木いちごやこけももといったベリー類に栗や杏、クルミなども見かけられる。特に秋といったら栗だ。格別に美味しい。だから、今年は乗り越えられるだろう。きっと、今年は。


 憂鬱な気分で遠くなだらかに隆起している彼方の丘陵の稜線を見つめてから、クリスは小さく身震いした。

 ……売られるかもしれない。

 クリスは不安を押し殺すように唇を軽く噛んだ。

 わたしは大丈夫。たぶん。うちには、まだ、いくらかの余裕が残されている。

 そう、まだ大丈夫。

 雨が激しくなってきた。できるだけ枝葉の密集した箇所の下を選んだつもりだったが、木の幹へと体を押し付ける。

 だけど村には、余裕のない家も何軒かあった。

 

 村の子供たちの年齢は、ある程度、集中している。豊作が続き、余裕のできた年に多くの子は生まれ、健やかに育つことが出来た。だから、村にはクリスと同年代の子供が多い。

 元より、畑が大きい家ほど人手を抱えている。だから、村のどの家も余裕がないのは同じなのだ。

 同じ村の中での奉公では意味がない。幾人かは、町に働きに出ることにだろう。

 女中や召使いよりましな仕事が見つかるとは思えないが、しかし、奉公で済むならまだしも幸せかもしれない。

 顔見知りの顔を思い浮かべてから、考えても仕方ないことだ。思いつつ、クリスは目を閉じた。

 売られるとしたら、誰が最初になるだろうか?


 雨は益々酷くなってきている。土砂降りに近い。

 村へと駆けるか?だが、少し先の視界も覚束ないこの雨では、道を見失う恐れもあった。

 遠く、雄たけびのようなものが耳に届いたと思えて、わずかに緊張し、クリスは薄く目を見開いた。

 すん、と鼻を鳴らして匂いを嗅いでみるが、濡れた土と緑の香りしか漂っていない。

 なにか、生き物の雄たけびのように聞こえた。それとも空耳だろうか。

 また聞こえた。空耳ではない。森の奥。繰り返し響いてくる。

 そっと身を伏せる。茂みに身を沈めるように、幹に身を隠すように。

 

 ……ゴブリンだろうか?いや、それにしては獣じみている。

 クリスは、近隣の丘や森に潜んでいる醜悪な亜人を思い浮かべた。

 ゴブリンは、性質の悪い亜人である。人間やオークに比べて体格で劣り、身長は4尺(120センチ)から5尺(150センチ)。農耕や採取、狩猟などで暮らしているが、旅人や巡礼への追いはぎを生業とする者も多く、子供をさらって奴隷にすることもある。

 街道をゆく旅人にとっては、狼や盗賊に並ぶ大きな脅威の一つであり、邪悪なものが多く、自分のほうが有利と踏めば、強盗を躊躇う性質ではない。とは言え、基本的には臆病であり、家畜泥棒などはしても、よほど人数に勝ってなければ、防備の整っている村への襲撃などへは及び腰であろう。


 どうする?どうしよう。クリスは悩んだ。

 このまま、ここに隠れていれば、見つからないかもしれない。

 でも、森の中で、こんな風に騒いで、一体何者だろう?

 正体が気になる。知っておくべきかな。悪だくみしているゴブリンかも知れないし、もっと性質の悪い生き物かもしれない。家畜泥棒以上のことを目論んでいるかも。


 少し考えてから、クリスはそっと森の奥。今も猿に似た叫び声の聞こえてくる方角へ歩き出した。

 濡れた地面と雨が、村娘の気配と足音を消してくれている。茂みに身を潜め、神経を張り詰めて歩けば、ほんの百歩ほど先か。「ほきゃあああ!」と猿に似た叫び声が木立の向こう側から響いてきた。

身を伏せながら、目を凝らせば、木立の切れ目から小さな空き地が見えて、何か肌色の変な生き物が動き回っているのがちらちらと目に入った。


 オークやゴブリンじゃない。喜んでいいのか、警戒するべきか。分からずにクリスは眉をひそめた。

 叫び声を聴くに、ゴブリンよりも頭が悪そうだ。半獣だろうか。

 クリスは、緊張にのどを鳴らす。いよいよ慎重に。万が一にも気取られるわけにはいかない。

 手もした杖を握りしめて、木陰からそっと様子を窺ってみれば、そこは開けた空き地。全身素っ裸になった村娘のアーニャが、奇声を上げて走り回っては棒切れを振り回していた。


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