表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/18

12 井戸端会議

牧人の名をジゼルに変更




 ほの暗い水底の隧道から浮き上がるような感覚とともに、アーニャは眠りから覚めた。

 意識は覚醒しているが、まだ目は開けない。

 周囲は深い闇に包まれていたが、夜明けが近いことを身体が感じとっていた。

 初秋のしんとした冷たい夜の空気。その気配が微かに変わるのだ。

 それは匂いであるかもしれないし、微かな音かもしれなかった。

 微かに身じろいだアーニャは、布団にした藁から漂う獣っぽい匂いに気づいて動きを止めた。

「……ん?」

 それで昨日、牧者の娘ジゼルと友人のクリスに家まで送ってもらったことを思い出した。

 ほとんど完全な闇の中で、もぞもぞと動く気配がした。薄く目を見開く。

 小さな妖精がよだれを垂らして、目の前のわらに埋もれていた。

(この子たち、ジゼルやクリスに見つかったらどうするのだろう?

 どうなるものでもないかもしれないけど)


 アーニャは再び、目を閉じた。脳裏では、昨日の喧嘩を反芻してみる。

 優位に運んだのは最初だけ。後半はあっさりとひっくり返されてしまった。

 負けたのは兎も角として、同年代の少女とあれほどの差があるとは思っていなかった。

 イルマが普段から鍛えているとは耳にしていた。

 それでも体重を乗せた蹴りを叩き込んだのに平然としているとは思わなかった。


 勝ち負けにさほど拘っている訳ではないが、自信を砕かれるような負け方だった。

 負けたのは悔しいが、後に引くほどでもない。

 一番の問題は、イルマがただの娘でしかないことだ。

 引退した老兵にちょっと剣を習っただけの村娘相手に、アーニャの技は通用しなかった。

 つまり騎士の従者やら、本物の冒険者の徒弟やらは、あれよりも強いのだ。多分。


 このありさまで本当に冒険に出れるだろうか。

 もうちょっと強いと思っていたんだけどな。とアーニャは声には出さずに呟いた。

 うぬぼれていたのかも知れない。いや、うぬぼれていたのだろう。

 同年代相手の喧嘩では、素手でも棒でも負け知らずだった。

 たまに負けても、相手の技や攻撃の組み合わせのパターンを見抜くことで、以降は大抵勝っている。

 それがイルマには通じなかった。アーニャよりも技は多彩で磨かれていた。

 突きも、払いも、威力は大きく洗練されていると刹那の組討で思い知らされた。

 考えて、戦っている。そんな相手は初めてだった。だが、世の中は広いのだ。当たり前にいて当然であった。

 いつかは出会うと予期していた。そして出会い、負けた。

 今日までしてきたのも、所詮は、農民の子供の喧嘩だったのかも知れない。アーニャはため息を漏らしつつ、枕を抱きしめた。


 イルマ相手に負けたことよりも、自身の非力さが問題だ。

 アーニャは今日までそれなりの研鑽を積んでいるつもりだった。

 街に出たとき、遠目に見た騎士の訓練を真似て毎日、素振りもしているし、考えて戦うようにしている。

 『戦う人』である騎士や冒険者には及ばずとも、大人になる頃には、ゴブリン程度には勝てるんじゃないかなーなんて、薄々だが思っていた。

 だが、それはただの思い上がりに過ぎないのかもしれない。

 考えてみれば、ゴブリンとは大人の男よりちょっと弱いだけなのだ。

 ぎざぎざ短剣を使いこなすすばしっこいゴブリンの討伐に赴いて、命を落とした傭兵や冒険者の話は枚挙にいとまがない。身近なところでも、近隣の狩人やら武装農民が小競り合いで命を落としている。

 少し、吟遊詩人の歌を鵜呑みにし過ぎたかもしれない。

 ゴブリンやオークがやられ役なのは、物語の中だけの話なのだ。


 もちろん、アーニャが考えていたのは、混沌の軍勢に属したり、悪の魔法使いに仕えるようなおっかないゴブリンの戦士ではなく、羊泥棒する程度のゴブリンなのだが、この分ではゴブリンどころか、チビのコボルド相手だって怪しいものだ。

「ふぐぅー、ふぐっ、ふぐぅ」

 藁の詰まった枕に顔を押し付けて、アーニャは身悶えした。同時に不安にさいなまれる。

 このようなことで冒険に出られるのだろうか。すぐに死んでしまうのではないか。


 ふと、視線を感じた。多分、妖精の視線だ。じっとアーニャを観察している。

 以前から時々、この視線を感じていた。だからと言って普段の生活が変わる訳でもないが。

 この奇妙な妖精たちは、何者なのだろう。オーディンも聞いたことがない神であった。

 まあ、構わない。この子たちのお陰で、ある意味、踏ん切りがついた。


 妖精たちは、アーニャを腕利きの剣士に育ててくれると請け負った。それはそれで魅力的な誘惑であったが、実際には、アーニャにとって副次的な望みに過ぎない。

 もしかしたら、言うほどの力はないのかも知れない。

 だが、かまわない。もし妖精たちが来なければ、アーニャは村の中で旅を夢見つつも、悶々としながら代り映えしない日々を送っていたに違いない。


 アーニャは旅に出たかった。迷いを断ち切る切っ掛けとなった。それでいい。

 心躍る冒険。未知の世界がアーニャを待っているのだ。

「旅に出るのだ」吹っ切った心の思いが、呟きに漏れた。


 農村の生活で朝一番に起きて行うことは水くみである。

 クリスが起床すると、アーニャが朝飯を調理していた。

 アゼルはまだ寝ている。藁の山に埋もれてよだれを垂らして眠っている。

 油に浸した皮を張った窓から、早朝の黎明の光が差し込んできている。

 ベッドから起き上がったクリスは、眠たげに目をこすりながら部屋を見回した。


 アーニャは火起こし弓を器用に使って火を起こし、よく乾燥した薪で小さな鍋を温めていた。

 お粥をベースにチーズの欠片、切り刻んだマッシュルーム、レタス、コンソメなどを入れていく。

 乾燥した肉も入ってるようだ。香ばしい香りが寝台まで漂ってくる。 


 クリスはベッドの下の靴を探すが見当たらない。勝手知ったる友人の家。裸足ですぐ傍にあるアーニャの家の奇麗な水を貯めた壺までペタペタ歩くと、清水を柄杓で掬い取ると一口飲む。

 体が汗ばんでいてお酒臭い。昨日は少し強めのエールを飲んだ。

 外が明るくなってきた。酔っぱらっていたからか。とんでもなく離れた床の上の靴を見つけて履くと、布と水を汲むための綺麗な木桶をもって外へと向かう。

 これも結構な手間なのだが、朝の水汲みくらいはしておこう。


 村の中心にある井戸には、既に幾人かの女たちが並んでいた。

 清水を得るには、深く掘らなければならない。畢竟、井戸は深く水を汲むには時間と手間暇がかかる。 20ヤード(18メートル)はある井戸から、水で満たされた木桶を引き上げるのは重労働である。

 一人が木桶2~3杯汲むとしても、四半刻(30分)で3~5人くらいか。

 30家族から40家族くらいに井戸が一か所という土地も珍しくなく、そうした集落では井戸の使用順も決められている。

 幸いにして、村は内にも外にも複数の水源があって、それほど待つことなく水を汲むことができるのだが、順番待ちの間にお喋りをするのが女たちの楽しみである。

 村の中でも事情通の中年女を中心に、少女も老婆も輪になって話に加わっている。

 村はずれの川の水は、家畜の飲用やら洗濯はともかく、人が飲むには向いていない。

 大事な衣類であれば、洗濯も井戸水か清水で行うのだ。さもなければ、服に石灰の粉が付着して汚れてしまう。


「ヨーカスんところの娘が街へ奉公に行くことになったのよ」

「あらあら、まあまあ……」

「あそこの家は麦の出来が悪くて……」

 辺土の閉ざされた共同体なれば、村人のほとんどは顔見知りとなるが、しかし、それなりに大きい村でもあるし、賦役や税も自助の為だけの軽い自治村ともなれば、付き合いには当然に濃淡がある。


 ヨーカスさんのところの娘さん。売られるんだ。

 クリスは他人事のように、中年女に曖昧な相槌を打った。

「気の毒ですね」

 この場合、町への奉公とは、人身売買とほぼ同義の単なる言い換えでしかない。

 無教養な村娘にできる仕事など、重労働の女中くらいであって、しかし、数年から十数年の契約を結んでの年季奉公で本人に支払われる俸給は、週に1ペンスか多くても2ペンス程度だろう。


 おおよそ、自作農一家の平均的な現金収入が年に140~160ペンスほどだろうか。

 土地を持たない小作農で30~40ペンス。一人前の牧人で60~80ペンスほどだから、数字だけ見ればさほど悪いとは思わないかもしれないが、しかし、農民はその財産の大半を家畜や収穫物といった形で保持しており食料を自給できるのに対し、都市での生活には万事、金がかかるのだ。

 田園では物々交換が主流であり、貨幣は物々交換の補助通貨でしかないが、都市では貨幣こそが主要な取引の大半に用いられる通貨の顔なのであった。


 主人によって食事と住居は手当てされるとしても、地位の低い女中に与えられるそれらの多くは貧しい代物であったし、都市で職に就いた自由労働者たちが日に5ペンスから7ペンスの賃金を得ているにも関わらず、それほど良い暮らしはしてないことを鑑みれば、1年で30ペンス(これは本当に最低の扱い)から80ペンス程度の俸給では、下級の女中にとって生活の向上は殆ど望みえないと言って間違いないだろう。


 もちろん、クリスがそれらの詳しい事情を知っている訳ではなかったが、都市に奉公に出された娘たちの末路がけして明るいものではないというのは、伝え聞く噂話だけでも十分に想像できたのだ。


 ヨーカスは自作農ではあったが、猫の額程度の小さな土地しか持たない貧農であった。しかし、上の娘さんには確か恋人がいたのではなかったか?

 結局、その疑問を口には出さずに、クリスは順番が回ってくるまで陰気に沈黙し続けたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ