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10 村の酒場で

 西の空が茜色に染まっていた。草むらの蔭から蔭へ、野兎が飛び跳ねている。

 風の匂いを嗅ぐように、鼻をうごめかせて立ち止まった。

 草陰からもう一匹。顔をのぞかせる。

 一年を通して繁殖期にある野兎だが、過ごしやすい春と秋は特に出会いの季節。

 見つめあった兎たちが、そっと鼻先を近づけて、互いの匂いを嗅ぎあった。

 瞬きし、親しげに体を擦り付け、そして、片割れの頭蓋を突然飛来した礫が粉砕した。


 ひょこひょこと小柄な影が村の中央にある石造りの建物へと近寄っていく。

「だれか開けてー。かいもーん。開けろー」

 分厚い樫の扉を乱暴に叩く。

 扉が開くと、ずんぐりした体形の親父が顔を出した。

「アーニャか。どうした?」

 親父のどんぐり眼を向けられて、木の枝を腕一杯に抱えたアーニャ。

「薪を持ってきた。おつまみも。これでエール頂戴」

「うーん?お前また森に行ったのか?」

「平気、ゴブリンなんか恐くねえ」

「仕方のない奴だな」

「わたしが薪を持ってこないと困るくせにぃ」

「まあ、助かってるけどな」

 溜息洩らした親父は、アーニャが腰から吊るした兎に視線をくれた。

 アーニャは、中々にスリングの達者であった。至近であれば大体、四度に一度は兎を仕留めてのける。

「ダメ、こっちは晩飯」

「シチューつけてやるぞ、食っていけ」

「もも肉は、わたしのだからね」

「塩と香草つけて焼いてやる。ほれ、入れ。薪は後ろに積んでおけ」

「了解」


 村の集会場兼酒場の一角、主人のくれた熱々のシチューと黒パンを食べながら、アーニャはエールを啜っていた。

 晩飯込みで手伝いに給仕していたクリスが、手を休めてアーニャの対面に座った。

 一仕事を終えた秋の黄昏時。薄いエールと肴を持ち寄って一杯やるのが村の大人たちの楽しみだった。

 来訪者用の宿泊施設も兼ねているが、村人以外の僅かな客も、近隣の森近くに住む炭焼きに樵、村と取引のある牧人が幾人か。近場の農場の働き手や召使いといった顔馴染みばかりで、ここ数年かは新顔の旅人が訪れてくることも滅多にない。


「そういうわけで、ヒューのやつ。

 クリスに嫌われるぞって言ったら、いや、別に。全然、好きじゃないですからとかほざいてましたよ。

 あんなのと結婚しちゃいけませんよ」

 昼の出来事を愚痴りつつ、アーニャはヒューの言動を教えてやる。

「あははっ。でも、ヒューには、他に本当に好きな子がいるんじゃないかな?」

 軽やかに笑って流すクリス。目尻を細めてアーニャを見る。

 クリスの親御さんが、ヒューの家に幾らかの麦を借りてる。

 困窮した農民の娘が、僅かな麦のために奉公に出されたり、年の離れた不幸な結婚をするのは、取り立てて珍しくもない話で、アーニャとしては、幼い頃から知ってるクリスに、出来れば幸せになってほしい。

 ぶっきらぼうなヒューがいい旦那になるとは到底思えないと、偏見交じりに決めつけている。

「クリス。気を落とすことはないですよ。

 もっといい結婚相手がいるから。いざという時は、私がお嫁さんに貰ってあげますからね」

 酔っぱらったアーニャは支離滅裂な言動をしている。

 隣の席でエールを飲んでいた年若い牧人たちが、アーニャのセリフに目を瞠ったが、疑わしげにアーニャを眺めてから胸を見て、何やら納得したように小さくつぶやいた。

「なんだ、男の子か」

 幸い、アーニャの耳には届かなかった。


 酒場の隅では、盛んに火に焚かれていた。野菜や豆でごった煮のポタージュを入れた大鍋が、グラグラと煮立っているが、調理や酒を暖めるのにも使われる。

 アーニャは隅の席で素早いペースでエールを啜っていた。

 摘まんでいる木の実とエールの減りが、今日に限って妙に早い。

「ありゃあ?俺のハムが消えたぞ?食っちまったか?」

「俺のエールもだ。どこ行った?」

「ぐんー」

 すでに酔ったらしい、へべれけになった大人たちが呻いたり、騒いでいた。


「あまり呑みすぎないように」

「大人は好きにエールを呑めるのですよ?」

 慣習法では十五歳が成人で財産の相続を認められ、それ以下では後見人がつくことになっている。村の大人では末席だが、アーニャも一家の主として一応、成人扱いされている。


 辺土は水事情が悪いので、飲料水は貴重であった。土壌は石灰を多分に含み、河の水なども澱みがちで、迂闊に飲めば、汚れや寄生虫で地元民でも腹を壊す。飲料水は、岩の割れ目からの湧き水や森の中の澄んだ泉、深い井戸などからわざわざ清水を汲んでこなければならない為、エールのほうが水よりも安くつくのだ。

 水は腐る。エールも、普段飲みの代物は、アルコール度数は1%から2%。酔うためというよりは、水分をとるための飲料であったが、アーニャが今、飲んでいるのは酔いを楽しめる少し強めのエールであった。


 顔を赤くしてアーニャが壺から杯にエールを注いでいる。

「大体けしからん。なんで、あいつらはいい歳して遊んでいるの?

 子供は家の手伝いをするべきです」

「農閑期だからね。それよりアーニャ。冬越えの準備は済んだの?」

 冬から春にかけて、段々と食料が乏しくなっていく。

 冬が来る前に家畜を太らせ、1~3月までを持ちこたえるのだ。

「だいじょうぶだー。豚を絞めます。

 収穫祭の後にモーゲンさんのところへ連れていって、皮と引き換えに手伝ってもらう予定」

 げっぷしてから、アーニャは机に頭を寝かせて愚痴を垂れ流す。

「あーあー、いいなー。男の子は。戦争ごっこできてさぁー

 騎士やら傭兵は、女でも肩を並べて戦ってるのにさー。

 村で若い娘がやろうとすると、爪弾きにしてさー」

「はいはい、そうだね」

「ヒューの野郎。子供の時にコボルドに追いかけられてひんひん泣いててさー

 私が助けてやらなかったら、コボルドの餌です。今頃、森の中で腐葉土になってましたよ」

 頬を膨らませるアーニャ。

「原っぱで足くじいた時もべそべそ泣いててさー。

 私が見つけてやらなかったら、そのまま、野垂れ死にですよ。

 背負って連れ帰ってやったのに……それが、ちょっと背が伸びたからと言って、えばり腐って」

 ヒューの物真似して、気取った鼻声を出した。

「女なんかと戦えるかよー」

 クリスが吹き出した。

「ヒューも報われないなぁ」


「おまえは、誰の股から生まれたってんだよー。

 お前はケヴィンのおっさんの尻の穴からひり出されたのかよー。蟯虫かよー」

 アーニャは酔っぱらうと、ものすごく口が悪くなった。

「顔はエルフなのに、口の悪さはゴブリンだよね」

 ため息を漏らしたクリスがしみじみとつぶやいた。


「木剣だけは立派な代物を振るって、気取っちゃって。

 ……恩知らずの腰抜けが」

 アーニャが言った瞬間に、ガタンと背後で大きな音がした。

「取り消しなさい」


「……はあ?」振り返ったアーニャの先に、何時やってきたのか。

 イルマが険しい目つきで睨んでいた。

「あの人は……ヒューは腰抜けでも、恩知らずでもない」

 イルマの言葉は怒りに震えていた。

「取り消しなさい!アーニャ!」


 尋常ならざる怒りを感じ取って、クリスが立ち上がった。止めようと周囲を見回すが大人たちは興味津々で囃し立てている。

「おお、ヒュー坊やをめぐって女同士のさや当てか」

「いいぞぉ、やれぇ」

 アーニャは据わった眼でニヤニヤしていた。完全に酔ってるように見える。

「なんら。ヒューの腰巾着。なんかようなのらぁ?」

「あの人が、どれだけの気持ちで鍛錬に励んでいるかを、知りもしないで」

「ぷっ、鍛錬に励んでって。村の子供たちと棒遊びのことぉ?

 コボルド相手に泣いていた腰抜けが、ものになるわけがないのら」

 アーニャは手をプラプラと振って、へらへらと笑っている。

「お前も無駄なことはやめるようにヒューに進めてやるのが、よい奴隷というものらよ」


「ヒューへのそれ以上の侮辱は許さない、アーニャ」

 イルマの声の震えが止まった。底冷えするような声の響きにクリスの方の顔色が悪くなる。

 明らかに激発寸前のイルマではあるが、アーニャも挑発をやめないし、止めるととばっちりを食らいそうなので、自業自得なアーニャの幸運を祈るに留めた。


「我慢ならなかったら、どうなるにゃ?」

 いったアーニャがこてんと首を傾げた。

「ひゅーが泣きべそかいちゃう?

 そんときは、この立派な胸でヒューのベッドを暖めてやるといいのらよ?」

「……表に出ろ」

 イルマが棒を突き付けた。


「イルマちゃん。やめてよう」

 現場で唯一の良心であるクリスは、だれか止めてくれないかと、すがるように周囲の大人やお客を見回したが、どいつもこいつも無責任に囃し立てるか、気の早い炭焼きが隣の木こりに、どっちが勝つかで小銭を賭け始めている。賭けに乗ってる連中の中に自分の父親の姿を見つけて、ろくでなし共め、地獄に落ちればいいのにと、クリスは思った。


「イルマちゃん。決闘ごっこ?

 男の子と一緒に戦争ごっこに混ざって腕に自信ですか?

 やあ、アーニャ恐いよう」

 眠たげな瞳を向けて、ケラケラ笑っていたアーニャが刹那、前兆なく足を跳ね上げた。

「ひゅっ!」

 同時に杖を拾い上げると、飛び退ったイルマに素早い横薙ぎの一撃。

 アーニャの一撃を杖で受けるイルマだが、軽い。

 嘲笑を浮かべて、弾き返そうとしたイルマの腹部に次の瞬間、衝撃が走った。

 杖の一撃は牽制であった。杖の攻撃を受けるために体重を使ったイルマに対し、アーニャは足を軸に思い切りの蹴りを叩き込んでいた。


 床に転がって苦痛に呻くイルマを、アーニャは上から覗き込んだ。

「んふー、毎日、妄想していた通りの動きができた」

 けっほ。咳き込みながら立ち上がったイルマが棒を構えた。

「あれ?まだやる?」口元に笑みを浮かべながら尋ねるアーニャに、イルマも構えなおした。

「……当然だ」

「あっそ」

 頭をかいたアーニャの再び、突然の突き。

 奇襲を受け止めるイルマ。

「素直にゃ」

 イルマの動きを前もってほぼ予想していたのか。

 強烈に体重を掛けてイルマの棒を逸らし、体の揺れた奴隷少女の褐色の腕に杖を叩きつける。

 苦痛に呻きながら後退するイルマの額に冷や汗が吹き出した。

「もうやめたら?」アーニャがせせら笑う。


「舐めるな!」

 突進したイルマ。待ち受けていたアーニャの突き。

 しかし、白いマントでアーニャの杖の先端を巻き込んで動きを封じ、飛び込んでアーニャの脇腹に膝を叩き込んだ。

「……っつたぁ」

 苦悶に顔を歪めつつ、強引に杖の先端を引き抜いたアーニャが素早く後退った。


「女の子の喧嘩じゃないよぅ、だれか止めてよ」

 クリスが訴えるも、周囲の大人たちは、派手な技の応酬にやんややんやと騒いでいる。

「おう、大したもんだ」

「町で見た決闘裁判よりも面白いぞぉ、こりゃ」

「あの子ら、収穫祭の腕比べには出んのか?」

 いざという時、農民もまた武器を手にして、領主や盗賊と争うほどに殺伐としている世の中である。

 まして自治村。都市や領主に防衛力を依存してない分、男たちの気質も荒っぽくて喧嘩っ早い。

 子供が喧嘩しても止めるどころか、焚きつけるのが関の山だった。

 なお、喧嘩や石投げ合戦での死人や負傷も、多い年は二人、三人出ることも珍しくない。


「クリス。女の子にも意地があるんだ。そりゃあ、だれにも止められん」

 クリスの親父が娘の肩に手をかけて首を振った。

「うちの父さん。どっちに幾ら賭けたの?」

 父親を無視して、賭けの胴元らしい炭焼きの親方に尋ねるクリス。

「銀貨でアーニャに30ペンス」

 顎髭を撫でながら親方が言った。

 クリスの顔から血の気が失せた。そんな大金どこにある。

 ちなみに自由農民の1年の現金収入が、平均的な一家4人でおよそ140~160ペンスほどである。


「放してぇ!アーニャが優勢だからって!」

 アーニャの為にも、貴重な現金を守る為にも、この戦いは止めねばならぬ。

 喚いたクリスが割って入ろうとするが、父親が肩をつかんで離さない。

「まあまあ、お前の友達を信じなさい」

「このろくでなしぃ!」


 咳き込んだアーニャ。

「……このぉ」

 杖を滅茶苦茶に振り回し始める。ように見えて、杖の軌道は横に8の字を描き、的確にイルマの急所を狙ってくる。

 が、イルマは、アーニャの連続した技をあっさりと凌いでのけた。

 左の鎖骨へと振り下ろされた一撃をいなし、右の脾腹を狙う突きを躱し、当たれば頬を砕くだろう薙ぎ払いに頭を下げて、跳ね上がった側面からの足への一撃を棒を地につけて弾いてみせた。

 全ての打撃を防がれて、アーニャが動揺に目を瞠った。

 


 アーニャの杖が僅かに泳いだ瞬間、膂力と体重に勝るイルマが一気に押し込んだ。

(技の練習を他人の目があるところでやるべきではなかったな)

 間合いを詰めたイルマの無言の声が届いたのか、顔を歪めたアーニャの腹部に膝が叩き込まれた。

 同時に接近されたアーニャ。躊躇なく手元の杖を手放し、拳を跳ね上げていた。

 が、一瞬早く、イルマの膝がアーニャの胃の腑をとらえていた。

 心臓の上に叩き込まれたアーニャの拳の威力は完全に殺されていて、

「びゃん!」

 氷水を掛けられた猫のような悲鳴とともに硬直したアーニャの鼻っ面に、もう一発。骨を折らない程度に手加減した拳をイルマが叩き込んだ。


「……ちにゃあ」

 アーニャが膝から崩れ落ちた。

「俺の30ペンスがぁ!」

「アーニャ!」

 悲鳴を上げている父親を振り払って駆け寄ったクリス。

 げろと鼻血を吹きつつ、白目を剥いて膝から崩れ落ちたアーニャを受け止めるも、

「わあ、気持ちの悪い失神の仕方」

 気持ちの悪い顔に驚いて思わず手放し、アーニャは床に頭をぶつけた。







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