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8章 兄者

 この日もまたヴァンはエリーと手合わせをしていた。

 ヴァンもそろそろ慣れてきて、エリーが家を訪れると無言で木剣を手に表へ出るようになった。

 どうせエリーは手合わせしてやらないと、てこでも動かないのだ。無駄口を叩く暇があったらその間にエリーの相手をしてやった方が時間も体力も消費せずに済む。

 相変わらず実力はヴァンの方が上で、エリーは連戦連敗していた。

 しかし実のところ、ヴァンはエリーを負かすのに骨が折れるようになってきていた。初めてエリーの攻撃を肩に食らってからまだ十数日しか経っていない。その短い期間で、エリーはめまぐるしい進歩を遂げていた。ヴァンはエリーの攻撃をかわしきれず、痣を作ったこともある。

「簡単には勝たせてくれぬな。もう一戦だ!」

 おそらくエリーもそれに気づいているだろう。たしかにヴァンは勝っている。だが、少しずつその実力差は狭まりつつある。

「はいはい。かかってこい」

 しかしだからといって、すぐに勝てるというものでもない。それでも、いやだからこそ、彼女は手合わせを続けた。

 きっとエリーは、今までずっと心の何処かで、ヴァンには勝てないと思い込んでいたのだ。その枷が先日の一撃で外れた。抑え込んでいた分の実力も解放されたから、エリーは凄まじい速さで強くなっているのだろう。

 手合わせを始めて数刻後、ヴァンは路地裏を覗き込んでいるローブの人物に気がついた。フードを目深に被っていて、表情は窺い知れない。

 また一戦、決着がつくと、悔しがるエリーをよそにその人物に視線を送る。

 その人物は自分の存在に気付かれたのだと悟ったらしい。フードを取って路地裏へ足を踏み入れた。

「へえ、彼がエリーの話していた剣士かい?」

 深い茶のフードの下から現れたのは、目鼻立ちの整った青年だった。眉目秀麗な顔も、みるみる路地裏の影に飲まれていく。

 彼の登場に驚いたのはエリーである。

「あ、兄者!どうして此処に!?」

 この発言にはヴァンも驚いて、兄者と呼ばれた青年とエリーを見比べた。

 なんと、この青年がエリーの兄らしい。

 品があって大人しそうで、エリーとは似ても似つかない。

 手入れの行き届いた艶やかな赤髪は朱の国の上流階級者の鑑のように見受けられた。

 浮かべた微笑は爽やかだったが、ヴァンの目には何か含みがあるように写った。

「僕もこの者に興味があったんだ。どうだい、僕とも手合わせしてくれないかい?」

 柔和に笑う青年に嫌な予感がして、返事を躊躇した。

 黙り込むヴァンの顔をエリーが覗き込む。

「ヴァン?」

 このエリーの兄なる者が現れたことで確定したことが二つある。

 一つ目は、目の前にいるこの少女が上流階層出身だということ。本人たちの口からそう伝えられたわけではないが、ほぼ確定したと考えていいだろう。それも、騎士や職人の家系ではないはずだ。この青年には貴族特有の品がある。ヴァンにとってその特有の品は、鬱陶しいものに感じられたが。

 ヴァンにとって意外だったのは、エリーが貴族の出身ということだ。彼女の方からは兄のような品は感じられない。だが、エリーが騎士や職人の息女でも、実は特筆すべき家の者ではなかったとしても、いずれにせよ納得できなかっただろう、とヴァンは思い当たった。何故かエリーにはどれも似つかわしくないように感じてしまうのだ。

 二つ目は、この場所がエリーの家の者に特定されているということ。兄がこの場所を訪れることができたのが何よりの証拠だ。剣術を習ったと言っても、しょせんヴァンは一介の商人に過ぎない。突っ立っていただけのこの兄は別として、監視の視線に気づけたことはない。しかし、エリーの保護者か何かに監視されている可能性は高い。貴族の息女が一人でこんな路地裏に通うなんて、普通ならありえない話だ。きっとエリーに護衛がついて、手合わせの様子を監視しているのだろう。

 うっすら覚悟はしていたが、気持ちの良い事実ではない。人との関わりを最低限にしろという父の言いつけを思い返すと、監視までされている現状に怒りや恐怖を抱くより先に、自分が情けなくなってくる。いくらその監視がエリーに向けられたものだとしても、結果的に自分も視られている事実に変わりはない。

「お前の相手をして」

 沈黙ののち、ヴァンはため息とともに言葉を吐き出した。

「それで俺に何の得があるんだ?」

 青年は笑顔をほんの少し曇らせて、問いかけた。

「迷惑かい?」

「迷惑だな」

 ヴァンはこの青年への警戒を解いていなかった。

 まだこの男は自分が何者か名乗ってすらいない。父親のことを思い出すとなおのこと、彼の相手をする気は失せた。

 この男について何も分からないのだ。だからと言って、ヴァンはこの男について分かろうと努めるつもりもなかったが。

「そうか……残念だな……」

 苦々しく青年は頭を掻いた。

「おぬし! 兄者がせっかく会いに来たというのに……!」

「俺の知ったことじゃない」

「むう……」

 ぴしゃりと言い放ち、エリーの言葉を遮る。エリーはまだ何か言いたげだが、上手く言葉が出ないらしくふてくされていた。ヴァンの発言は正論だから当然だ。ヴァンは視線を彼女から兄者に戻した。

「エリーとは手合わせしてくれるのに、僕は駄目なのかな?」

 残念そうに聞くその表情や口調も、やたらと上品だった。

「ああ」

 ヴァンにはこれ以上、誰かと親しくなるつもりはない。

 エリーが必死になって叫び始めた。

「ヴァン! 兄者は私よりも強いのだ! 俺はヴァンと兄者が手合わせするところが見てみたい! 手合わせしてはくれないだろうか?」

「……お前より強いのか?」

 つい、そう聞き返してしまった。

 エリーはヴァンの目をまっすぐ見据えて頷いた。

「そうだ」

 その目から、もう逃れられなかった。ヴァンが折れた。

「……一戦だけだ」

「ヴァン……!」

「感謝する」

 兄者は深々と頭を下げた。

 兄者はエリーから木刀を受け取ると、ヴァンと距離を取った。エリーは邪魔にならないよう路地裏の奥へ身を潜めた。

 興奮を抑えられない様子で、エリーは二人の青年を見つめていた。

「二人とも、準備は良いな?」

 ヴァンも兄者も静かに頷く。彼ら二人だけの空間が生まれていた。

「三、二、一、始め!」

 エリーの掛け声が路地裏に響くと、兄者はゆっくりと距離を詰め始めた。

 そして、一気に加速して距離を詰め、右に持った木剣をヴァンの横腹へ向けた。

 横腹を叩こうとしたそのとき、ヴァンの一撃が兄者の右手首を叩いた。

 兄者の持っていた木剣が弾き飛ばされる。

 たった一撃。その一撃は速く、的確だった。

 木剣が石畳に落ちて、乾いた音を響かせる。

「兄者を……一瞬で……」

 エリーは信じられないものを見たといった表情だった。ヴァンは硬直しているエリーに問いかけた。

「エリー、お前が最後にこいつと手合わせしたのはいつだ?」

「いつだっただろう……。兄者はいつも忙しく最近は手合わせの機会がなかったからな」

「そうか」

 ヴァンの返答はそれだけだった。

 エリーの方がよっぽど強い。その事実をヴァンの口からわざわざ明言するのは面倒だった。そもそも、必要もないはずだ。この一戦で、エリーも気づいただろう。

「やっぱり強いな……ヴァンと言ったね?」

 左手で右手首を押さえ、手を前後に振りながら兄者はヴァンに微笑んだ。

「ああ」

 ヴァンは手に持った木剣へと視線を落としていた。

「君のことが知りたい」

「お前の妹に聞け」

 兄者を見ることすらせずにヴァンは言い放った。こいつの笑みは苦手だ。

「兄者に対してなんと冷たい……」

 ヴァンがエリーを見やると、彼女は恐ろしいものでも見たかのように震えていた。

 兄者はそんなヴァンの態度を気にする様子もなく、笑ってエリーをなだめていた。なだめると木刀を拾って、伸びをした。

「さて、そろそろ帰らなくちゃね」

 まだ半刻も経っていなかった。普段エリーが居座っている時間を平均して、その四分の一にも満たない時間である。

「また来るよ。手合わせしてくれてありがとう、ヴァン」

 兄者はフードを被ると、ヴァンに背を向けた。軽く振り返って横目でヴァンを見ると、微笑んで歩き出した。

「はあ……迷惑なんだがな」

 面倒ごとが増えてしまった。しかも、兄は妹より難敵と見える。

「あ、兄者! 俺も帰るとするかな。さらばだヴァン」

 エリーが忙しなく兄者に駆け寄る。

 兄妹は表通りへ繋がる路地へと消えていった。

 嵐が去った後の静けさ。ヴァンはため息を一つ吐くと、家の中へ入った。

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