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7章 大切な人

 元々エリーは、剣を振るうのが好きだった。

 読み書き計算から刺繍や礼儀作法など、ありとあらゆる教養を叩き込まれてきたが、そのどれもが退屈なものに感じられた。もっとも興味を持ったのは、弟が学んでいた剣術だった。父が遊び半分でエリーにも剣を教えると、その飲み込みの早さで周囲の者たちを驚かせた。父や弟の木剣を持ち出し、使用人たちを付き合わせて、気が済むまで手合わせをした。この娘はとにかくじっとしていられないたちだったのだ。

 息女が剣を振るうのはあまり歓迎されない。それでも、子供のお遊びだと周りは寛容な態度を取ってくれていた。しかし、そろそろそんなことにうつつを抜かすのは許されない年齢になってきたらしい。年齢が上がるにつれ剣の時間は短くなっていき、講義の時間が取って代わって行った。

 エリーにとってそれはもちろん苦痛であった。が、実はエリー自身も剣を置くことを考えたことがあった。

 弟の実力を、エリーがゆうに超えてしまっていたからだ。当然、父は弟を叱責した。エリー様を護る身でありながら、主君より剣の腕が劣るとは何事だ、と。

 父も弟も、エリーと血の繋がりのない乳母家族である。

 弟への配慮のためにエリーは剣技を諦めようと思った。しかし、彼自身がエリーに剣をやめないよう言ってくるものだから、やめられずにいる。

 剣がお好きなら、諦めないでください。弟のその声に背中を押されていた。女が剣を振るうなんて。そんな周囲の陰口は弟の声に相殺された。


 街にお忍びで遊びに行っては、酒場で傭兵たちに手合わせをねだったこともあった。しかし、エリーが負け越した相手は存在しなかった。家を出てもなお、エリーは最強の存在だった。

 ヴァンに出会うまでは。

 エリーはヴァンに負けてから更に剣術にのめり込んだ。家に帰っても時間の許す限り、弟や衛兵を借り出して、庭で手合わせの相手をさせた。が、やはりエリーの練習相手としては力不足だった。

 エリーの知る限り唯一、相手として不足のないヴァン。

 口では迷惑だと言っていても、結局は手合わせに応じてくれる。自分の相手をし続けてくれる。

 それがエリーにはありがたくてたまらなかった。


「おぬしの父君の弟子というのは、おぬし以外には居ないのか?」

 詮索するのを嫌がるようなヴァンの態度から、エリーはヴァンに剣以外の話をするのは避けていた。しかし、エリーの頭の中にはいつもヴァンについて無数の疑問があった。たまについ抑えきれなくなって聞いてしまう。

 この日もそうだった。色んな相手と手合わせをしてきたつもりだったが、ヴァンと同じ剣術を使う者とは出会えない。この剣術はヴァン一人だけのものなのではないか、なんて考えが頭に浮かんでずっと消えなかった。それが口をついた。エリーの問いに対して、ヴァンは表情を変えなかった。

「一人、居るにはいるが。親父が死んでから会ってない」

 態度や雰囲気とは裏腹に、ヴァンは聞けば答えてくれることも多かった。

 この質問にもさらりと答えた。

 ヴァンに兄弟弟子が居たなんて。エリーは少し意外に思った。

 ヴァンがこの剣術を使うこの世で唯一の人間、というわけではなかったのか。しかし、その弟子と会っていないとは。

「そ、そうなのか。理由を聞いても良いか?」

「理由も何も、顔を見せなくなっちまった。それだけだ」

 その横顔が少し寂しげに見えたのは、エリーの気のせいだろうか。

「それだけ、か。その者も強かったのか?」

「剣の腕は俺と同じくらいだった」

「強かったのだな。その者とも手合わせしてみたいものだ」

 エリーは心が弾んだ。さらなる強者の存在。しかも、ヴァンと同じ師に学んだという。これを知って冷静でいられようか。

 ヴァンは静かなまま、青空を見上げた。

「何処にいるんだかな……あいつは……」

 その呟きを耳にして、エリーははっとした。ヴァンにはヴァンの大切な人がいる。

 何処か浮世離れした雰囲気を持つヴァンの、その浮世離れした雰囲気が、静かに剥がれて崩れ落ちた気がした。ヴァンも自分と同じ、人間であるということを強く感じた。

 ヴァンの心のうちの言葉が、ようやく口から溢れてきた。エリーにはそんなふうに思えて、おかしな話、初めてヴァンがちゃんと人の手が届く存在に見えた。

「寂しくはないのか?」

「ああ」

「そうか……」

 それが本音なのか嘘なのか、エリーには分からなかった。

 ヴァンの心のうちにも、誰にでもある感情がきっとたくさん渦巻いている。寂しさだって、きっと。

 エリーは黙り込んでいた。


「久しぶりだな、ヴァン」

「まだ来るか。飽きないな、お前も」

「全く飽きぬ」

 無表情のヴァンに、エリーは強気な笑みを返した。

 慣れた手つきで木剣を手に取り、距離を取る。

 またいつもの手合わせが始まろうとしていた。東の空には直視できないほど明るい太陽が昇っている。薄暗いこの路地裏を訪れたのは三日ぶりだ。

 エリーは深呼吸をすると、一歩前へ出た。

 二歩目からは走り出すと、ヴァンめがけて木剣を勢いよく振り上げた。

 ヴァンがエリーの攻撃を受け止めようと木剣を左肩へ持ってくる。それを受けて、エリーは左へ振り下ろす構えから右を狙うよう切り替えた。

 ヴァンが身体を捻って避けようとする。が、エリーの木剣はそれより一瞬速かった。ヴァンの右肩にエリーの木剣がかすった。

「かすったあ……!」

 初めてエリーの木剣がヴァンに届いた瞬間だった。エリーはつい歓喜の声を上げた。

 しかし、だからと言って、ヴァンが冷静さを欠くことはなかった。

 素早くヴァンは体制を立て直した。

 そのあまりの素早さにエリーは不意を突かれてしまった。

 その隙にヴァンがエリーの両肩を叩く。

 衝撃で木剣を落とすとともに体勢も崩され、エリーは硬い石畳に尻もちをついた。

「くっそお……」

「気を抜くからだ」

「むう……正論だ」

「はあ」

 ヴァンがため息とともにふてくされるエリーに手を差し伸べる。

 ヴァンがエリーに手を差し出すなんて、初めてのことだった。

 いつもはエリーが負けて悔しがっていても放っておいてばかりのヴァンが。

 エリーは信じられなかった。その手をまじまじと見つめていた。

「立て、エリー。どうせお前は、こんなもんじゃ満足しないんだろう?」

 顔を上げると、朱の国の太陽の光が目に飛び込んできた。

 逆光になったヴァンの顔は相変わらず、眠そうで、つまらなさそうだった。

 月のような白銀の髪が目にかかっていた。その合間から、暁の空のような深い紫の瞳がエリーを覗いていた。その瞳に映る自分の顔は、ほころんでいた。

「当然だ!」

 その返事を聞いたヴァンの口元に柔らかな笑みが浮かんだ。

 その瞬間、エリーは胸の奥に温かいものを感じた。

「明日は雨かな」

「ん、なんでだ?」

「ふふふ……何故だろうな?」

 エリーがそう言って笑うと、ヴァンは美しい微笑を引っ込めてしまった。

 ヴァンが笑った。

 しかも、ヴァンは自分が笑ったことに気づいていないらしい。

 エリーは、ようやく一つ、ヴァンに勝てた気がした。

 自分は、ヴァンの知らないヴァンを知ったのだ。

 怪訝そうな顔をするヴァンの手を取り、立ち上がる。

 皮膚が硬くてゴツゴツした大きな手。

 心の奥が燃えていた。とかく嬉しかった。

「さあ! もう一戦、行くぞ!」

 エリーは再びヴァンへ向かって突進し、木剣を振り上げた……。

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