5章 遥かな空
路地裏の強者ヴァン。エリーが今一番気に入っている剣士だ。
何処か浮世離れしている彼の三白眼には、いつも何処か遠くの景色が映っているように見えた。
ヴァンの髪は、朱の国では珍しい銀髪。焼けた肌と対照的で好印象だが、その銀髪がヴァンのくたびれた雰囲気を際立たせていた。しかしその一方で、立ち姿からは力強さが滲み出ていて、ちぐはぐな印象を受ける。だからといって、決して老けているようには見えない。まあ、エリーはヴァンの年齢を知らないから、老けてるかどうかは印象の話でしかないのだが。彼の纏う強さは、身体的なものか、精神的なものか、はたまたその両方か。ヴァンは多くを語ってはくれないから、謎だらけだ。でも、エリーはヴァンのそんなところも、気に入っていた。
エリーがヴァンの素性を知ったのは、出会って一年の三分の一近くが経ってからだった。
「ヴァーーーーン!!」
扉を叩いても返事がないので名前を呼ぶ。
「静かにしろ。睡眠の邪魔だ」
扉を開けて顔を覗かせたヴァンは、いつも以上に目つきが悪かった。どうやら本当に今の今まで眠っていたらしい。
たしかにまだ午前中だが、日が昇ってからだいぶ経つ。此処に来るまでに見かけた店々はもう開いていたし、こんな時間まで眠っている人は珍しい。
「ヴァンよ。おぬし、何故毎日寝てばかり居るのだ?」
エリーは長い間思っていた疑問をヴァンにぶつけた。エリーが朝のうちに訪れた場合、だいたいヴァンは寝起きだ。
「眠いからだ」
「……理由になっておらぬぞ。そもそもおぬし、こうして寝てばかり居て、どうやって生計を立てておるのだ?」
一つ聞くと、さらに聞きたくなってしまった。でもこれは、質問に対して捻くれた回答をするヴァンのせいだ。
答えてくれないかもしれない。そう覚悟していたのだが、エリーの予想に反してヴァンは家から出ると、さらりと答えた。手にはしっかり木剣が握られていた。
「商いだ。此処の特産物を別の土地で売り、別の土地の特産物を此処で売って、生計を立てている。最近は休業気味だがな」
「ヴァンは商人だったのか」
エリーはヴァンが市場にテントを立てて、訪れた婦人に果物や野菜を売っている様子を思い浮かべた。が、どうもしっくりこなかった。
「……似合わぬな」
ヴァンはエリーの呟きを鼻で笑った。否定はしないらしい。
「土地の行き来はもちろん徒歩ではないよな? 馬車か?」
「いや、飛竜だ」
「飛竜とは珍しいな!」
エリーは思いのほか自分の声が大きくて驚いた。
だが、移動手段が飛竜だと聞いて、納得した。商人ヴァンには違和感があったが、飛竜に乗って各地を飛び回るヴァンは非常にしっくりくる。
「そうでもないさ」
ヴァンは相変わらず、何を考えているのかわからない遠い目をしていた。その目には、遥かな空が映っているのかもしれない。エリーはそう思って、雲一つない青空を見上げた。
きっとヴァンは、自分が知らないことを沢山知っているのだろう。
「ヴァンは色々な土地へ行ったことがあるのだな? 良ければその話を聞かせてはくれぬか?」
ヴァンは地面に座り込んで自分の家の壁にもたれかかった。エリーもそれに倣う。
好きしろ、と言ってくれた日も、こうして二人並んで座り込んだんだった。
向かいの家の扉はヴァンの家と違い、ちゃんと路地に面していて、目の前には灰色の壁があるだけだ。
「此処はだいぶ整備されているが、南部は荒野、岩と砂ばかりだ。国境に近づくとまだましになるがな。常に不足してるから、食料が良く売れる。中央の山脈には小さな集落が点在しているが、飛竜以外で往復するのは困難だから、他所の商品が高く売れる。帰りは特産の乳製品なんかを仕入れてくる。東に向かうときはついでに蒼の国のディラモースに仕入れに行く。彼処は小麦やら何やらが良く穫れるからな。北部は人が居る場所には必ず田がある。米は何処でも良く売れる。あとは遠方までは運べないが北海の魚が定番だ。西の砂漠は……何もないな」
ヴァンは淡々と語った。
一つひとつ思い出しているのだろう。ヴァンはずっと、目の前の壁を見るともなく見ていた。
「ヴァンはそれぞれの土地を商人の目で見ておるのだな。面白い」
それがエリーの素直な感想だった。
「俺もそんな風に色んな土地を回りたいものだ」
エリーは空を仰いだ。ヴァンの話を聞いていると、その光景が順に思い浮かぶ。
南の青い空の下には、鮮やかな茶色で彩られた荒野。飛竜は地平線へと飛んでいく。勇者ハヤトを称える詩の場面の一つみたいだ。
険しい中央の山脈には絵画で見た集落が本当にあって、本当に人が暮らしている。そんな人々と話して、美味しいチーズを購入して、此処サントタールへ帰ってくる。
北の空を飛竜で飛べば、眼下には本で読んだような豊かな緑色をした田が広がっているはずだ。ずっと行けばこの国の果て、北海があって、魚が上がってくるのだろう。
蒼の国のディラモース地方には金の麦畑が広がっていて、それが風を受けて美しくそよぐ。飛竜の上からならば、空からその様子を一望できるのかもしれない。
そして西の砂漠には、何もないという風景がある。
大きな飛竜に乗って北に南に飛んで、色んな商品を人々から買い、そして売って回る、なんて素敵だろう。
だが、そんな生き方は自分にはできない。エリーは無い物ねだりだと分かっていたが、素直にヴァンが羨ましかった。
「それにしても」
悲観しそうな心に打ち勝つため、口を開く。
「竜の姿は此処には無いようだが?」
「そりゃ放し飼いだからな」
ヴァンは答えた。
「それでは竜に乗るとき、どうやって竜を呼んでいるのだ?」
「呼んだりはしない。俺が竜のところへ行く」
「竜が何処にいるのか分かるのか?」
「まあな」
「どうしてだ?」
「竜にも住処がある。其処へ行けばだいたい居る」
「だいたいということは居なかったこともあるのか?」
「たまにな。居なければ帰ってくるまで待つだけだ」
エリーは感嘆のため息を吐いた。
一問一答の質問攻め。答えの内容にはもちろん、よどみなく答えるヴァンにも感嘆した。エリーは未知の世界の話が次々と聞けて心が弾んだ。
「なるほど……興味深い話だ」
「これくらい商人の間では常識だがな」
ヴァンの返事は気だるげだった。
「あいにく俺は商人では無いのだ」
「そうか」
そんなそっけない返答も、エリーにとっては面白かった。
ヴァンは少しの間、目を瞑っていた。
エリーも黙っていた。そして、路地裏の景色を眺めていた。
じっとしていると、表の喧騒がうっすら耳に届いた。たまに、一際大きな子どものはしゃぎ声や若い女の笑い声が聞き取れた。
日陰でひんやりとした空気の中、土埃の匂いが薄くした。ひんやりとした空気が、肌に沁みる。
此処が、ヴァンが日常を送っている場所なのだと思うと、なんだか不思議だった。
「それにしても、これほど腕が立つのに兵士では無いなんて。傭兵ですらない」
ヴァンに聞こえても聞こえなくてもいいと思って、エリーは呟いた。
ヴァンは黙り込んだままだった。エリーはヴァンが眠ってしまっているのではないかと少し不安になった。
ヴァンと初めて出会ってから、もう一年の三分の一が過ぎようとしている。もうヴァンとの手合わせにも慣れてきてしまった。
それなのに。ヴァンにずっと勝てずじまいだ。ヴァンは、今まで出会った誰よりも強かった。
ヴァンは本当に眠ってしまったのだろうか。
エリーには、この男が不思議でたまらなかった。
表通りの喧騒がだんだん遠くに感じられてきて、この路地裏が、切り取られた別世界のように感じた。
此処は、色彩も音も何もかもが乏しくて、だからこそ、色んなものが強く感じられた。
「その、父君は何をしておったのだ? おぬしの剣の師だという……」
「人の情報を根掘り葉掘り聞き出しやがって」
沈黙にたまりかねてエリーが問うと、ヴァンが静かな口調で遮った。静かだが、その口調にはわずかに熱がこもっていた。
ヴァンは眠っていなかった。
先ほどの呟きにはヴァンは返答しなかった。この言葉も、聞こえていなくとも構わないと思っていた。それもあって、ヴァンの言葉に度肝を抜かれた。
「そんなつもりでは……!」
エリーの胸がずきんと痛んだ。色々と答えてくれるのが嬉しくて、つい聞きすぎた。ヴァンはずっと、他人に干渉されたくない様子だったのに。
ヴァンに心の底から拒絶されるのは怖かった。
彼はおもむろに目を開いた。
「騎士だと言っていた。……俺が物心ついた頃には既に怪我で引退していたがな」
拍子抜けするほど穏やかな声だった。
「それを言っても、困らぬのか?」
「なんでだ?」
ヴァンは不思議そうに聞き返した。申し訳なさで口ごもりながらエリーが答える。
「おぬしの情報を聞き出されるのは嫌だと言っていたではないか」
「嫌だとは一言も言ってないぞ」
間髪入れずにヴァンはさらりと言った。本当に嫌ではなさそうな口調だった。
わけの分からないやつだ。
「そ、そうか」
エリーは苦笑した。
「不思議な奴だ」
ヴァンが何を見て、何を考えているのか、エリーにはよく分からなかった。
でも、そこが好きだった。
底が見えない彼のことをもっと知りたかった。
「何か言ったか」
「いや、何も」
エリーは首を振って立ち上がった。
「手合わせだ、ヴァン」
ヴァンも腰を上げる。
「ああ」
手合わせを済ませないとエリーは帰らないとヴァンも分かってきたらしい。文句を言わずに相手をしてくれるようになってきた。
いつまでこんな関係が続くか分からない。
でもエリーは、こんな幸福な時が永遠に続けば良いと本気で思っていた。
此処は、エリーにとってかけがえのない非日常だった。