21章 泡沫
川へ向かう途中、三人ほど人間を見かけたが、その誰もがうつろな目をして、こちらを見るともなく見るだけだった。それでも人を見つけると恐怖に駆られて、胸の鼓動が早まった。その音がヴァンに聞こえないよう祈った。
何度目かわからない分かれ道を曲がると、突然川が現れた。思わず兄者とエリーは息をのんだ。
ヴァンがエリーをゆっくりと下ろしてくれた。
運の良いことに川辺に人はいなかった。夕日が川面を煌めかせていた。
川にはゴミが捨てられていて異臭がしたが、そんなこと今は気にならなかった。
痛いほど冷たい水に手を浸し、体に付いた血を洗い流す。顔に腕に脚にこびり付いて乾いてしまっている血を水につけてこすり落とす。
三人とも無言だった。聞こえるのは川のせせらぎと鳥や虫の声だけ。
ヴァンはこうなることを予想していたのだろうか。ヴァンが言う通り、自分が来なければ、こんなことにはならなかったんだ。自分の身を危険に晒しただけではない。兄者にも、ヴァンにも、心配と迷惑をかけた。三人ともこうして生きていることの方が奇跡なんだ。
水の冷たさに手も冷え込み、やがて指先の感覚を失われていった。血を落とし終えるのが一番早かったのはエリーだった。
ヴァンは爪と指の隙間に入り込んでいる血の跡が気になるらしく、川に両手を付けると躍起になって落とし続けていた。ヴァンの短い銀髪も夕日に染まっていた。
顔を上げてみると、対岸に憲兵の姿が見えてはっとした。兄者の服の裾を引っ張って知らせると、兄者は立ち上がった。赤い瞳に鋭い光が宿ったが、それも一瞬だった。
「ヴァン、お別れだ」
兄者が重々しく口を開いた。ヴァンが立ち上がるのを待って、兄者は言葉を続けた。
「もう、エリーが此処に来ることを許可できない」
エリーは心臓を勢いよく掴まれたように呼吸を乱した。わかっていたことなのに、いざその真実を口に出されたら、動揺せずにはいられなかった。
「ああ、当然だな」
ヴァンは素っ気なくそう言った。引き留めてはくれない。わかっていたことだった。
「僕が君と会うことも……無いと、思う」
迷いや悩みを吹っ切るためか、強い口調だった。兄者だって辛いのだ。声の裏に苦痛の色が透けていた。
また目頭がじわっと熱くなった。
ああ、駄目だ、泣いちゃ駄目だ。
今度は何とか涙をこらえた。
「とても残念だ」
声色と内容が完璧に一致したその兄者の発言に、ヴァンは何も返さなかった。それをどう解釈したものか。エリーの目には、ヴァンの表情が切なげに影を落としたように映った。それは自分にとって都合の良いように解釈し過ぎだろうか。
ヴァンは話題を切り替えた。しかし、内容は自分自身のことではなかった。
「お前たちはこのままどうするんだ、二人で帰るのか? 二人だけなら危険だ」
「ヴァン、僕たちは大丈夫だ」
兄者は言い聞かせるようにそう伝えた。エリーも頷いた。自覚はないのだろうが、無愛想なヴァンにはその実、自分より他人の心配を優先してしまう人の良さがあった。エリーも兄者もそれを知っていた。
「僕たちより君自身の身を案じてくれ。もうじき此処に憲兵が来る。でも君は、本当は他人と関わってはならないのだろう?」
胸中に寂しい風が吹くのを感じた。ヴァンは今すぐ此処を去らねばならないのだ。父君の言いつけを守るために。
だが、一つ問題があることにエリーは気がついた。
「だが、服の返り血がすごいな……これでは目立つだろう。あ、そうだ」
エリーは自分のローブを脱いで裏返しヴァンに着せた。
「俺のローブを使ってくれ」
ヴァンは頷いたが、放心しているように反応が鈍かった。
兄者がエリーを肘で小突いた。
ヴァンをまっすぐ見据えた。ヴァンは不意を突かれながらも、表情を固くした。黎明の空のような紫色の瞳にエリーの姿が映っていた。
「感謝している、心から」
「どういたしまして」
取り繕ったようなやたらお堅い返答をして、彼は目を逸らした。
「俺は明後日から、此処を留守にする」
唐突なヴァンの発言は、妙に硬い声色で違和感を含んでいた。
「商売か?」
「ああ」
ヴァンはエリーを見ないまま、まさしく朱の色に染まっていく空を眺めていた。
「来るか?」
「え?」
「飛竜に乗って北の海へ。お前、行きたいと言っていただろう」
ヴァンは夕日に照らされた横顔を、眉一つ動かさずにそう言った。一瞬のうちにエリーは何度も自分の耳が正常か疑った。だが、どうやら現実にヴァンはエリーを旅に誘ってくれているらしい。
「行きたい。が……」
ヴァンの横顔がもの悲しげに見えたのは、沈みゆく太陽の光のせいだろうか。
だが、言わねばならないし、本当はヴァンだって、エリーの答えがどんなものか分かっているはずなのだ。
「俺は行けぬ。ここを離れる訳にはいかないのだ」
「そうか」
「だが感謝する、ヴァン。本当にありがとう。嬉しかったぞ」
どれだけ言っても足りないほど感謝していた。しかし、それ以上の言葉を見つけられなかった。
「ああ」
ヴァンがこちらを向いて目を細めた。胸の奥が熱かった。何かが溢れてきそうだった。
それをエリーは必死に押さえ込んで、頭をめまぐるしく回転させて、言葉を探した。
「ヴァンは俺の師だ」
直接何かを教えてくれたわけではなかったが、ずっと手合わせを続け目標であり続けてくれたヴァンは、師と呼ぶに相応しい存在だと常々考えていた。
「好きに言え」
感慨のかけらも無さそうなヴァンの返事はいつも通りだった。顔が綻んでしまう。
「では俺はヴァンの一番弟子だな?」
言った後に自分でも調子に乗りすぎたかと思ったが、ヴァン視線を外して口を曲げながらも肯定してくれた。
「……そういうことになるな」
「ふふ……」
エリーは笑った。そして、右手を差し出した。
「ありがとう、ヴァン。達者でな」
「ああ、そっちも」
ヴァンも右手を出して手を取った。
ごつごつした手の感触が、エリーの心の一部分を刺激した。以前、ヴァンがエリーの手を取って立ち上がらせてくれたことがあった。あのときのことが思い浮かんだ。
ヴァンのこの姿を目に焼き付けたくて、その目をじっと見つめていた。ヴァンも見つめ返してきて、むず痒くてたまらなかった。ヴァンも微笑んでいた。
先ほどまでの事件と、直後に起こるであろう別れは辛く悲しいものだった。だが、いまこの瞬間は満たされて幸福だった。それは紛れもない真実だった。
それだけでエリーには十分だった。
――再び物語が進み始めるのは、三年後、ヴァンと兄者が再会する秋の夜のことである。




