20章 夕暮れ
まず知覚したのは、血の匂いだった。
そして、ひんやりと冷えた床。
何があったのか瞬時に思い出しぞっとする。ヴァンの家に向かおうしていたら、路地で見知らぬ男たちに捕まって、街外れの建物に連れこまれたんだった。
恐る恐る重たい瞼を上げると、そこには心配そうに自分の顔を覗き込む二つの顔があった。
「兄者……ヴァン……」
「ああ、良かった……」
兄者が胸をなでおろした。
ヴァンは不器用に微笑んでいた。
そのどちらも自分に向けられたものだという事実に、凍てついていた心が満たされ、全身の痛みが和らいでいくように感じた。
良かった。やはりヴァンが勝ったのだ。
ヴァンが助けてくれたのだ。
意識をはっきりさせるべく頭を振って、エリーは二人に微笑み返した。
心配されることで時間を食いつぶすのは不本意だ。木箱に体重を預けながら、立ち上がった。
不覚にもよろめいてしまい、兄者が慌てて手を差し伸べてきた。兄者をここまで心配させていることに胸が痛んだ。
立ち上がるとき、ローブが落ちた。自分のローブではなかった。毛布代わりに兄者のローブをかけていてくれたのだ。
拾って埃を払って兄者に手渡す。
「もういいのかい?」
真心のこもった兄者の問いに頷いた。
まだ肌寒さを感じてはいたが、兄者の方がよっぽど寒そうに見えた。兄者は血で両腕を染めていた。怪我かと思い一瞬ぎょっとしたが、それは返り血であった。でも、本当に怪我する可能性だってあったのだ。自分だって、ヴァンだってそうだ。そのことに思い当たった途端に、エリーは自分の表情がこわばっていくのを感じた。
「兄者!」
頭で考えるより先に身体が動いた。エリーは兄者に抱きついた。兄者もエリーを抱きかえしてくれた。
「エリー、良かった……本当に……」
兄者が頭を撫でてくれる。昔はこうして、兄者がよく頭を撫でてくれた。恐怖がさっと引いて行って、胸の奥から安堵と後悔が溢れ出てきた。そしてそれは涙になって零れ落ちていった。
「ヴァン……ありがとう」
兄者の優しい声が聞こえた。
エリーも同じ言葉を伝えたかった。
だが、喉から出てくるのは情けない嗚咽だけだった。
止まれ、涙よ、止まって。
必死に念じて、両手で涙を拭った。でも、拭っても拭っても溢れ出てきた。これ以上、二人に迷惑をかけたくないのに。
顔は熱くて、唇は震えて、どうにかして涙を止めようとすればするほど、思い通りにならなかった。
その様子を見兼ねたのか、兄者は腕に力を込めて強く抱きしめた。
エリーは自分の力で泣き止むことを諦めて、兄者の胸元に顔を押し付け泣き続けた。
ようやく涙が枯れたときには、泣きすぎで頭が痛くなっていた。泣くのにも体力が要るのだと思い出した。また、疲労が全身に降りかかってきていたことに気がついた。だが、もちろんそれは口に出さない。
「もう大丈夫だ」
兄者とヴァンの気遣わしげな表情から逃げるように目を逸らすと、建物中に散らばっている死骸が視界に入った。
「こんなところ、早く出よう」
次は視線を死骸から逸らし、自分の足元を見ることにした。彼らに謝罪はしない。一歩間違えれば今地面に転がっているのは自分たちの方だったのかもしれないのだから。
「でも、こんなに真っ赤だと目立つから街中には出られないね」
兄者がそう言うと、ヴァンが口を開いた。
「ここから西の川辺に出るぞ。河川敷の方は人が少ないはずだ。それに、あの辺りは治安が悪い。血を付けて歩いても騒ぎにはならんだろう。血の跡はある程度、川で流せるはずだから、その後に大通りに向かえばいい。寒いのは我慢しろ」
兄者が静聴しているということは、二人で既に話し合ったことなのだろう。ならばエリーにも異議はない。
「そうと決まれば早く行くぞ。もたもたしてると日が暮れてしまう」
エリーは最大限の空元気を発揮してそう言ったが、二人の表情から心配の色を消すことは叶わなかった。
「無理はするな。俺がお前を担いでいこう」
ヴァンの突然の厚意に度肝を抜かれて、ヴァンの顔をまじまじと見つめてしまった。
「担ぐ?」
ヴァンの発言に、兄者は眉間に皺を寄せていた。
「物じゃないんだ。せめておぶってくれないかい?」
「あ、ああ……すまない」
ヴァンが素直にしょぼくれるさまを、エリーは初めて見た。
その様子がおかしくって、吹き出してしまった。
「ヴァンが謝る必要も、兄者がヴァンを責める理由もないだろう」
エリーの笑い声に、二人の青年は罰が悪そうに肩をすくめた。ヴァンはエリーに背を向け、膝を曲げた。この際なのでヴァンの厚意に甘えることにした。
自分の足を宙に浮かせたまま建物を出る。外の眩しさに目を細めた。朝から降り続いていた雪は止んで、厚い雲の切れ間から差し込む夕日が放射状に地上へ降り注いでいた。
とても長い間、あの空間にいたような感覚だ。背にした建物の中にいくつもの死骸が転がっているなんて、何処か別の世界の話みたいだ。できることなら、それが事実であって欲しかった。
ヴァンはエリーを背負ったまま路地を歩き続けた。兄者はやはりフードで顔を隠し、無言で隣を歩いていた。そのローブには血が付いていたので、怪しいことこの上なかったが。
通る道は何処も衛生状態が悪くて、自分が見ていた街の景色は光の当たっているほんの一部分だけだったのだと思い知った。ヴァンの家のある路地裏なんて、まだ清潔で治安の良い方だったのだ。先ほどより遥かに微々たるものではあったが、恐怖を感じて早くこの区域を抜けたいと思ってしまった。初めて感じる空気に、身体がこわばった。
歩く速度は遅くもなかったが、速くもなかった。それはエリーをおぶっているという理由に加えて、二人が疲弊しているからだということは明らかだった。自分の足で歩くと言おうとしたが、そうすれば尚更二人の足手纏いになるだろうと容易に想像できて、言い出せなかった。
ヴァンの背中は大きくて温かかった。柔らかくはないが、ぬいぐるみのように優しく心を落ち着かせてくれる何かを持ち合わせていた。
でも、きっと、もうヴァンに会いに行くことは叶わないだろう。今までだって、こっそり家を抜け出してきてた。何かあってからでは遅いのだという忠告には耳を塞いできた。でも、その何かが起こってしまったから、もうどうしたって許されない。自分がへまをしたからだ。兄者もその影響を受けて自由に出歩けなくなるだろう。
無事だったことを喜ぶべきなのだろうが、エリーの心は苦々しいもので一杯だった。
「ヴァンは、俺が来なくなって清々するか?」
馬鹿な質問だと自分でもわかっていた。
投げやりにそう問いかけると、ヴァンはぶっきらぼうに答えた。
「こうして助けに来たろう」
そうだった。エリーは喜びが湧き上がってくるとともに、自分の失態を心の底から後悔した。来ないでほしいなら放っておけばよかったのに、ヴァンは助けてくれた。
「すまぬ……」
エリーの口からかろうじて出てきた言葉はそれだけだった。