17章 護る者
峰打ちだったらしく出血はしていなかったが、それでもエリーは気を失ってそのまま動かない。
妹が、エリーが、人を殺した?
いや、それどころではない。エリーは大丈夫なのか?
金縛りにあったように兄者の身体も思考も動かなかった。
「こいつがどうなっても……」
男が言い終わる前に、ヴァンは右手に置かれた木箱からワイン瓶を取り出し投げつけていた。
男が悲鳴を上げて顔を抑える。ワインと血で男の頭は真っ赤になっていた。
「走れ!」
ヴァンの鋭い命令でようやく金縛りが解けた。頷くより先にエリーの元へ走っていく。胸の鼓動と足音がやけに大きく響いていた。自分に襲いかかる者を視界の端に捉えることもあったが、彼らは兄者に触れる前に並走する銀髪の青年に斬られて、指一本すら触れることは叶わなかった。
それは兄者にとって、微かではあったが抗いがたい快楽を感じさせる瞬間だった。
ヴァンに護られながらエリーの元へたどり着くと、兄者は妹の肩を抱いた。何度も名前を呼ぶが、エリーはぐったりとしていて反応しない。つい顔を上げてヴァンに目を向けると、彼は自らの剣で迫ってきた男の頭をかち割っているところだった。今や倉庫の出入り口付近は誘拐犯に陣取られていた。
「下がってろ」
敵を睨んだままヴァンは兄者に指示した。
既に倉庫の奥にいたが、エリーの肩を抱きながらさらにじりじりと後退し、再奥に積み上げられた木箱を背にするように立つ。
追い詰められてしまったが、これで背後の心配をしなくて済むという見方もできる。
ヴァンは依然、兄者とエリーを背にして男たちと向き合っていた。ヴァンの強さを目の当たりにして、数で大きく勝る誘拐犯たちも怯んでいる。ヴァンは既に六人の人間を亡き者にしていた。単独で動けば即座にヴァンが飛びかかってきて、死の深淵へ落とされる。それがわかっているだけ、彼らは賢かった。
だが、それにしても。兄者の頭をとある疑問が掠めた。ヴァンは僕が背後から襲いかかってくる可能性を考えていないのだろうか?
張り詰めた空気を破り、兄者のそんな愚かしい思考を遮ったのは、出入り口に最も近い場所に立つ首領と思しき男の足音だった。
一度地面を踏み鳴らしたその音が合図となり、男たちが一斉にヴァンへ襲いかかってくる。
「ヴァン……!」
兄者はヴァンの剣技が並大抵の兵士をはるかに凌ぐものと知っている。
しかし、それでも流石に十人近い男たちに囲まれるヴァンを見ると、絶望で胸が塞がれた。
心臓が脈打ち、息が上がり、頭が白くなっていく。悪寒が走り、死との距離が縮まっているのを感じる。
これが夢なら、とつい願ってしまう兄者の目に、剣を振り上げるヴァンの姿は、時の流れが緩やかになったように映った。
剣が振り下ろされたのを境にして、世界の速度は元どおりになった。
もちろんそれは兄者がそう感じただけである。
名も知らぬ男が深紅の血を流して倒れるのを目にして、死が急速に自分から遠ざかっていくような感覚が湧き上がった。
やはり、ヴァンは強い。
ヴァンは一転して防御に徹していた。だが、攻撃を避け続けたかと思えば唐突に男のうちの一人の懐に潜り込んで、左胸を突き刺した。
兄者はその様子をぼうっと見つめていた。
彼なら誰にも負けない。彼に敵う者などいない。エリーが見つけてきた剣士はとんでもない者だったのだ。
まだ自分の心臓は五月蝿いが、感情の方は冷静になりつつあった。
ヴァンの白い刃が翻る。
鮮血を散らしながら、男たちが倒れてゆく。
ヴァンはのらりくらりと攻撃をかわし続ける。
身体に傷一つ受けることなく男たちを倒していた。
ある者は身体を十字に斬られ、ある者は首を飛ばされ、ある者は利き腕をやられ、倒れ込んでいた。
ヴァンは一瞬の隙を見逃さず、男たちを一人ひとり斬っていった。
犠牲者の一人が兄者からたった三歩ほどの距離に倒れ込んだ。無意識のうちに身体がぴくりと動いた。
ほんの一瞬前まで動いていた人間が紅い血溜まりの中で無残に倒れ込んでいるのは、気分の良い光景ではない。
見ないようにしようと自分に言い聞かせながらも、見ずにはいられなかった。
その男が死の間際、何か呟いたようにも見えた。
だが、その言葉は永遠に誰にも届かない。背筋が凍った。
鉄臭い血の匂いが鼻をつき、男たちの怒号や悲鳴が耳を貫く。
つい先ほどまで何の関係もなかった商人が、いつの間にか仲間の仇と成り果てている。
この空間の憎悪が膨らんでいくのを感じた。
そしてその憎悪は、ヴァンにばかり向けられていた
その様子に、胸が焼け焦げていくような罪悪感に襲われた。無実の彼をこんな負の感情の標的にしてしまったのは、他でもないエリーと、そして、この僕だ。
一対一では敵わないと思い知った男たちが、三人まとめてヴァンへと襲い掛かかる。
その後ろから、もう一人の男が駆けてくる。
だが、その男はヴァンを見ていない。兄者と目が合った。男は口元を歪めて笑った。
ヴァンはその男の存在に気づいてくれてはいないようだった。