16章 斑点
ヴァンと兄者は思わず顔を見合わせた。
扉と壁の隙間から覗く茶封筒は得体が知れず恐ろしかったが、はやる気持ちは抑えられなかった。兄者らしくもない乱暴な手つきでそれを抜き取り、封を切った。ヴァンもその様子を、瞬きを忘れて見つめていた。
中には安っぽい紙が一枚だけ。綺麗とは言い難い文字で残酷な言葉が書き殴られていた。
──人には知らせるな。
短い文章の下には二人を招くように番地と簡素な地図が書かれていた。
「そんな……!」
兄者の声も両手も震えていた。
「誘拐か……」
ヴァンも苦々しい気持ちで文面を覗き込んでいた。
「なんでヴァンの家に……。誘拐犯はヴァンの家を知っていたということかい……?」
「監視されているのかもしれんな」
「そんな……」
兄者は息を飲んで、そのまま窒息してしまいそうな様子だった。
必要以上に兄者を怖がらせてしまったように思えて、今し方の発言が申し訳なくなった。
だが、ヴァン自身兄者を慰める余裕はなく、ひとまず口をつぐんだ。
一般的に誘拐というのは、誘拐それ自体が目的ではない。
エリーを捜して歩き回っていた間にもエリーが誘拐されている可能性は否が応でも頭に浮かんでいた。そしてその場合、原因は身代金やエリーの身分に起因するものだと考えていた。こんな街中に一人で無防備に訪れて、それこそ襲ってくださいと言っているようなものだ。自業自得だ、が……。
ならば何故、ヴァンの家に脅迫状が届いているのか。
彼女の素性も知らない一介の商人に何を要求するのだろう。ヴァンではなく兄者に何かを要求したいのだろうか。だが、それなら此処ではなく兄者の家へ脅迫状を送るのが自然だろう。
兄者に伝える気にはならなかったが、ヴァンの頭にはこの不可解さに対する答えが浮かんでいた。
おそらく差出人が脅迫したい相手は、ヴァン自身である。
単純明快だ。家を知られていたことも含め話の筋が通る。
それを口にできないのは、この兄妹を巻き込んでしまっている罪の意識からだろうか。それとも、得体の知れないものが自分を狙っていることに対する不安からだろうか。いや、今はそんな自己意識についての問いに当たっている場合ではない。
ヴァンを狙って何の得があるのだろうか。その謎は先日ヴァンを襲った二人の男のことを思い出させた。
あの招かれざる客と何か関係があるのかもしれない。
父の頃からの因縁は、無関係の少女を誘拐されるほど大きなものなのか。
ヴァンにはわからない。父は伝えないまま逝ってしまった。
情報が不足していて、わからないことばかりだった。思考するより、行動するべきだということだろう。
ヴァンの家へ足を踏み入れることもなく、二人は地図に書かれた場所へと向かう。
どうやらヴァンの家から大通りを挟んで北東へ進んだ路地の奥らしい。
「あの『おやすみ』が最後の言葉になったら……どうしよう……」
早歩きで進む中、俯いた兄者がぽつりと呟いた。
「しっかりしろ。そんなこと言っても時間の無駄にしかならん」
「そうだね……。すまない、ヴァン」
これほど悄然とし、生気の抜けたような兄者は見ていられなかった。
罪悪感が胸を覆う。自分に悄然とする権利はないのだと、ヴァンは自分を叱責した。
ヴァンと関わったからか、それともエリーが貴族の娘だったからか。どれだけ考えても正解の理由はわからない。だが、どちらにせよ、ヴァンの元を訪れることが無ければ、エリーが襲われることはなかっただろう。これは事実だ。
やはりもっと早く、エリーが来るのを止めていれば。いや、止めてもあいつは来る。……出会わなければ?
ヴァンはその恐ろしい考えが脳をかすめたところで思考を止めた。
大通りを横切って、路地へ進む。路地に並ぶのは小さな雑貨屋や画家の工房や鍛冶屋だった。
この路地も手前の僅かな距離だけならヴァンも商品の購入のために訪れたことがある。
奥に進むに連れて店や作業場の数は減って行き、民家が増えていった。空き家も多く、そういうところに住み着いているのか、路地裏から黒猫や寒さに震える乞食がこちらを伺っていた。
たまに生ゴミの匂いが鼻について顔をしかめた。
やがて突き当たりに、正面に他の民家より三倍ほど大きい倉庫が現れた。
「地図に書かれていた場所は、此処のようだね」
兄者が手に持った手紙と目の前の倉庫とを見比べる。ヴァンもその手紙を覗き込んで頷いた。
「ああ」
手紙に雪が染みていく。空は先ほどより一層暗くなり、風も強くなっていた。
鉄の匂いが鼻を突いて、胸に鈍く重たいものが落ちて来た。
それは流血があった証拠だ。
「エリー……」
ふらりと引き寄せられるように建物へ入ろうとする兄者の肩を掴む。
「待て、いきなり中に入ろうとするな。まずは外から様子を伺うぞ。」
「あ、ああ。そうだね」
兄者の肩を掴んで、塀の影に身を潜める。
「落ち着け。冷静になるのは無理だろうが……せめて周りに目を向けるようにしろ。視野を広げるんだ、良いな?」
脅迫したい相手が兄者ではなくヴァンなら、人質がエリーである必要性はない。兄者だって標的になりうる。エリーを気にするあまり、敵に足元をすくわれるのが怖かった。
「わかった。ありがとうヴァン、君がいると心強いよ」
兄者は深呼吸をして、ぎこちなく笑って見せた。それがまたヴァンの胸を痛ませた。
「そうか、そいつは良かった」
ヴァン自身、自分が冷静であるなどとは思っていなかった。平常心はとっくに消え失せてしまっている。
その中で最善を尽くすしかない。
隣に慌てている兄者がいることで、かえってヴァンは落ち着けていた。
「必ず、上手くやるさ」
それは兄者をなだめるためというより、自分自身に覚悟を決めさせるための言葉だった。
息をひそめて建物の中を覗き込むと、武器を持った男がざっと十五人ほどいた。
何処かの商会の倉庫らしい。大小さまざまな木箱が積み上げられていた。
エリーは、倉庫の中央奥にいた。
男に胸ぐらを掴まれ、身体は地面を離れていた。
エリーは足をばたつかせて必死に抵抗していた。何かを叫んでは身体を揺らしローブをはためかせるのだが、男たちの腕力に負けて、身動きは取れないままであった。
ヴァンは飛び出したくなる気持ちを抑えると同時に、兄者を手で制した。今飛び出してしまえば、エリーを人質に取られ八方塞がりになるのは目に見えている。
何とか、男にエリーを手放させることができれば……。
ヴァンがその方法を見つけるべく思案を巡らせていると、想定外の事態が起こった。
エリーが男の金的を狙い、蹴りを入れたのだ。
それは見事に命中し、男は呻き声を上げながら腕を掴む手を緩めた。
エリーは着地するより早く、男の腰に掛けている鞘から剣をひったくり、その剣で男の腕と腹を斬りつけた。
男が鮮血を噴き出しながら二度目の呻き声を上げたのとともに、今度は他の仲間たちも声を上げた。
「おい!」
「なんて事しやがる!」
「ちゃんと押さえとけ!」
騒めく男たちを余所に、エリーはついに自分を捕らえていた男の左胸を剣で貫き、とどめを刺した。
兄者が息を呑んだ。
「今だ!」
怯む兄者を置いて走る。
加速しながら剣を抜いた。
ヴァンが倉庫に突入したときは既に、エリーは男二人がかりで両腕を掴まれていた。
しかし、エリーが顔を上げヴァンの姿を視界に捉えると、憎悪に歪めていた顔をぱっと明るくした。
「ヴァン!」
白い息と飾り気のない名が少女の口からこぼれた。表情は希望に満ち溢れているが、目には涙をためていた。黒髪は乱れ、前髪ははらりと垂れ下がっている。全身に赤い斑点が付いていた。考えるまでもなく、それは返り血だった。
「エリー、これは……」
ヴァンを追ってきた兄者が放心したような声で尋ねた。その問いに、エリーはまた表情を強張らせた。
エリーは口を開いたまま何も返せない。そのエリーの背後に男が迫っていた。
「後ろ! エリー!」
ヴァンが声を上げたが、エリーが振り返るより早く、男がエリーの後頭部を鈍色の剣で殴りつけた。
エリーの首が、がくりとうなだれ、エリー自身が斬って作った血だまりへと前のめりに崩れ落ちる。
「エリー!」
兄者の悲痛な叫びが倉庫に響き渡った。
人間こんな声が出せるのかと、愕然とする叫びだった。