14章 夢現
家に帰ると、父が仰向けになってベッドで眠っていた。初めて一人で遠方へ出向き、売買をして帰ってきたのだった。ベッドの傍で椅子に腰掛けていた弟弟子が、振り返って俺を見る。彼は何も言わない。弟弟子の表情が読めなかったのは、複雑だったからか、空虚だったからか。
父の表情も読めなかったが、これは別の理由だった。父の顔に白い布が置かれているのだ。
弟弟子の無言の眼差しが俺の背中を押して、親父の元に向かわせる。胸の鼓動が、嘘だ、嘘だと叫んでいる。弟弟子の目がそうするよう命じていたから、白い布を両手でゆっくりと持ち上げる。布の下には、血の通っていない父の寝顔があった。
俺はそのまま凍りついて、動けなかった。
見たくないのに、父の顔から目を逸らせない。
同情のかけらもない棘のある声がする。
「親不孝な奴だな。父親の死に目にも会えないなんて。育ててもらった身なのにな。病の兆候にも気づけなかった。お前は父親に何一つとして返せていない。何も……何も……」
弟弟子が責め立てる。
視界が揺らぐ。
揺らぎながら暗くなっていく。そして凍えるような寒気を感じ、震えが止まらなくなっていった……。
ヴァンはベッドの中でくしゃみをした。身体が冷えるとよく悪夢を見るような気がする。
冷たく新鮮な空気に雪の匂いが混じっている。外を見ずとも分かる。この冬初めての雪が降ったのだ。今頃相棒は朱色の鱗の隙間に雪を積もらせて、巣で丸くなっているだろう。
父は雪が降ると、此処より降雪量の多い北部ノールリッジ地方産のハーブ茶を沸かしていた。身体を温める作用があり、薬にもなるのだと売り子は語っていたが、真偽のほどは定かではない。だが、寒さの厳しい北部地方で好まれていることは確かだった。
ベッドから出て上着を羽織り、キッチンに向かいケトルを火にかけた。
沸騰するまでの間に隣の倉庫へと向かう。倉庫はいっそう冷え込んでいる。壁際の質素で剛健な棚に雑多な商品と少しの私物が並べられ、床には大小さまざまな木箱や袋が放られている。右の棚の上から四段目、胸の高さの段にあるハーブの瓶を手に取り、倉庫を出た。
ケトルが音を立て始めたら倉庫から取り出してきたハーブを入れる。雪の日の空気とハーブが混じった香りに、懐かしい感覚が蘇って胸が詰まった。
今年は何度雪が降るだろうか。去年は一度も降らなかったはずだ。つまり、一人になって初めての雪の日でもあるのだ。父が死んで、一人になった。そうして初めて、弟弟子が自分の生活において大きな部分を占めていたことに気がついた。
しんとした空気を破る、扉を叩く音がした。
ああ、そうだった。俺はもう一人じゃなかった。やかましいエリーと癪に障る兄者がいる。こんな冬の日にも来るのか。二人を迷惑だと感じてはいるが、失ってから気づくなんて愚かなことはもう、したくない。俺は一人ではない。
「ヴァン、居るかい? ヴァン?」
声は兄者のものだった。走って来たりでもしたのだろうか、息が上がっていた。ヴァンは不思議に思いながら扉を開けた。
扉の先には、雪で湿ったローブを身に纏い、目深に被ったフードの端を左手で押さえて顔を隠している兄者一人がいた。
「今日、エリーは此処に来てないかい?」
その質問にヴァンの顔は曇った。嫌な予感が胸をよぎる。
「来てないな」
「そうか……ありがとう」
落ち着かない様子の兄者に、ヴァンは否定を願って懸念を口にした。
「エリーが見当たらないのか?」
空は低く垂れ込めた雲に覆われ、路地裏は鈍い無彩色に染められている。
兄者が手を下げて顔を上げた。フードから覗くその整った顔は、青ざめていた。
「うん……今朝、目が覚めたときから行方不明なんだ」
願い叶わず、嫌な予感は当たってしまった。ヴァンはこの前、殺人鬼か暗殺者かに出くわしたときと同じ緊張を覚えた。
「最後に見たのは?」
「昨日の夜、寝る前だ」
「それは珍しいことか?」
赤毛の美青年は、今にも泣きだしそうに見える表情のまま首を縦に振った。
「此処にいないのなら、いったい何処に……」
兄者はおぼつかない足で足踏みをして、足元の雪を固めていってしまっていた。
「昨日会ったときもね、エリー、ヴァンに会いに行くんだって嬉しそうに話してて……」
エリーが眩しい笑顔で喋っている様子がありありと目に浮かんだ。突き放されてもなお、エリーは自分との手合わせを楽しみにしていたのか。ヴァンは胸に針で刺したような痛みを感じた。
それと同時に、会ったとき、という言い方がヴァンには少し気になったが、貴族の事情を悟って詮索しないことにした。ひとつ屋根の下で過ごす家族でも、顔を合わせる頻度は少ないのだろう。もし万が一腹違いのきょうだいだったりでもすれば、尚更だ。
「だから、本当に見当がつかないんだ。エリーが何処へ向かったのか」
兄者がローブをきゅっと握った。
「よし、俺も捜そう」
「いいのかい?」
「ああ」
「ヴァン、ありがとう……」
少しは安心したらしい。顔色は悪いままだったが、兄者の表情が明るくなった。その表情の機微にエリーの面影があった。
それを見ると尚更、彼を放っておく訳にはいかないと感じてしまうのだ。
「ヴァン、君は僕より地の利がある。この辺りを見て回ってくれないかい?」
ヴァンはかぶりを振った。
「いや、俺も一緒に行こう。万が一ではあるが、一人では危険なこともあるかもしれない」
兄者はその提案に身を強張らせた。危険があるとは認めたくないのだろう。
それを認めれば、エリーにも危険が降りかかっている可能性を肯定してしまうことになる。しかし、彼は頷いた。
「分かった。そうしよう」
兄者は感情を理論で抑え込むことに成功した様子だった。奥歯を食いしばっているのは無意識なのだろうか。
人の悪い笑みを浮かべて余裕ぶっていた先日の青年は何処へ行ったのだろう。今目の前にいる兄者の心のうちでは、様々な感情がせめぎ合っているらしく、覇気も落ち着きもなかった。
この世間知らずの金持ち息子であろう兄者を一人にしておくのは危険だろう。
だがそれ以上に、冷静さを失いかけ、脆さを感じさせるこの兄者の傍に、いてやるべきであるように感じた。彼を一人にしておきたくはなかった。
厄介ごとなのは間違いない。
だが、やたら優雅な態度を取っていたあの兄者が弱り切っているさまなんて、とても見ていられるものではなかった。
「少し待ってろ」
ヴァンは一旦家に入ると、キッチンの火を消し、扉の傍に立て掛けてある二本の剣のうち、木剣では無い本物の剣の方を手に取った。棚から革ベルトを引っ張り出して腰に巻いた。そのベルトで剣を腰に固定すると、扉を開けた。
「行くぞ」
兄者は両手を握りしめて、口を一文字にして、頷いた。
歩きながら、ヴァンはそれとなく兄者の様子をうかがっていた。兄者はちらりとヴァンが腰に携えている剣を見ると表情を一層こわばらせた。
ヴァンはその様子に気づいていたが、黙っていた。
そして二人は並んで、薄暗い路地裏から大通りへと足を踏み出した。