13章 エリーの話をしよう
「エリーは、僕にとってたった一人の大切な妹なんだ」
ひんやり冷えた空気が流れる家の中、エリーの兄は愛おしそうにそう言った。
「妹な……そうは見えなかったが」
ヴァンは皮肉の色を織り交ぜてそう言った。父親のことを思い出していた。自分と父も、まるで外見が似ていなかった。
だが、兄者はヴァンのこの発言の理由が性別にあると思ったらしい。
「妹には見えないかな? エリーは男勝りだからね。僕と正反対だと言われることもある。弟に間違えられることもあった。でも、エリーはああ見えて、なかなか女の子らしいところもあるんだよ」
誇らしげにそう言って、兄者は両の掌を開いて見つめた。
「ほう」
素っ気ない返事も兄者は意に介していないようで穏やかな顔をしていた。ヴァンは言葉を付け足した。
「大切にされてるな」
兄者は返事替わりに息を吐くように笑い、掌を閉じた。
「エリーは、よく君の話をするんだ。君と、君の剣の話を」
ヴァンは、そんなこともあるだろうと予想していたから、それを聞いて驚きはしなかった。兄者はヴァンが反応らしい反応を返さなくても、話を続けた。
「君のことをとても楽しそうに話すんだ。ねえヴァン、君はどうだい?」
兄者の言葉に責める音が込められ始めてきたことに、ヴァンは気がついた。
「君はエリーに迷惑をかけられただけかい?」
ヴァンはそう問いかける兄者の瞳がいつの間にか恐ろしく冷たなっていたことに、不覚にも驚いた。
それと同時に、兄者の回りくどい言い方にうんざりした。
「エリーにもう来るなと言ったのを、撤回してほしいのか?」
「そうか、君はエリーにそんなことを言ったのか」
ヴァンは唾を飲んだ。兄者は涼しい顔でお茶を一口飲んだ。
「どうしてエリーを拒絶したんだい? いや、違うな、この質問は違う。むしろエリーの相手を続けていたことが、不思議でならない。ヴァン、君に何の利益があって、エリーの相手を続けていたんだい?」
兄者は氷のような瞳でヴァンをじっと見つめていた。これほど強く底冷えするような目の力を持っている者は珍しいだろう。逃げるわけではないが、ヴァンは視線を逸らした。
ヴァンは兄者が口にした利益という言葉を思った。商人の男が貴族の娘の相手をしているのは何か合理的な理由があってのことだろうという兄者の当然の懸念が伝わってくる。もしかしたら兄者は、エリーが政治的目的に利用されることを危惧しているのかもしれない。ヴァンの元を初めて訪れたときの目的も、ヴァンの狙いを知ることにあったのかもしれない。
ヴァンはそういうことに思い当たっていたが、正直に心に思い浮かぶ言葉を口にすることにした。
「何故だろうな」
自分の狙いなどそんなもの、ヴァン自身にだって解らない。
「あの時の俺はどうかしていた」
「それが理由かい?」
「俺にもわからない」
終わりの見えないヴァンの回答に、兄者は黙った。きっと兄者はヴァンが本心を隠していると考えているだろう。だが、ヴァンは正直に話した。それをどう解釈されようが構わなかった。
お茶の湯気がだいぶ薄くなっていた。兄者は低い声で語り始めた。
「エリーに自由はない」
ヴァンはその断言の意図がまだ掴めなかった。兄者は続けた。
「今はまだ何とか、自由にしがみついている。だけど、すぐにその自由も無くなる。剣を振っていられるのは、あとどのくらいだろうね」
貴族の娘として生まれ落ちた運命か。ヴァンは心の中でそう呟いた。兄者はヴァンの返事など求めていないらしく、言葉を続けた。
「ねえ、ヴァン。僕の妹は残された時間全部、剣と、君とに注いでいるんだ。君がどう思っているかは知らないし、どうしようと君の勝手だ。でも、僕はやっぱり、エリーに来るなと言ったことを撤回してほしい」
ヴァンが何かを画策している可能性を憂慮してもなお兄者はそう頼むのか。ヴァンは鼻で笑った。兄者が懇願せずとも自分に選択肢がないことくらい察している。
「撤回しようがしまいが、エリーは此処に来るぞ」
「傲慢だね」
兄者は低い声でそれだけ返した。ヴァンは兄者の言葉を否定しなかったが、悪態を突いておいた。
「お前が言うか」
エリーはヴァンの許可がなくともどうせ此処を訪れるだろう。どうやらそれは共通認識らしかった。空気がほんの僅かに緩んだが、すぐに兄者は険しい表情を作ってヴァンに釘を刺した。
「でも、君がもしエリーを利用しようとか至らぬことを考えていたら、そのときは覚悟してほしい」
ヴァンは兄者の忠告を笑わず、自分も真面目な顔を作って答えた。
「俺には、あいつを利用するような状況は訪れないし、利用する術もない」
二人は見つめ合った。火花が飛ぶような視線のぶつかり合いではなかったが、二対の瞳は冷ややかに燃えていた。
先に視線を逸らしたのは兄者だった。口元に優美な笑みを浮かべて頬杖をついた。
「わかった。信じよう」
「こんな話を信じるんだな」
「うん」
そう深く頷く兄者に対し、ヴァンは信じるという兄者の言葉を信じられなかった。ヴァンのそんな想いは表情に出ていたかもしれないが、兄者はそんなことには触れず、小動物を愛でるような目をしてヴァンに語った。
「君が扉を開けたときの表情を、そして僕を見たときの表情をエリーに見せてあげたかったよ」
兄者はコップをもてあそびながら、余裕ぶった笑顔を浮かべた。
「君って冷たくて無愛想に見えるのに、意外とわかりやすいんだね」
ヴァンは反応らしい反応を返さず、渋いお茶を流し込んだ。テーブルの足元に落ちている塵が視界に入った。
普段から政界で意味のない駆け引きをして、人を騙す術ばかり磨いている貴族どもと比べれば、たしかに自分はずっとわかりやすい存在だろう。客や仕入れ先からは何を考えているのかわからないと言われたことが一度ならずあるが。
兄者はヴァンの内面がどうこう掘り下げるつもりはないらしく、話題を変えた。
「ところでヴァン、椅子が三つあるのは、ヴァンと父君と、母君のぶんかい?」
ヴァンはかぶりを振った。
「俺と父と弟弟子のぶんだ。母親は俺が産まれてすぐに死んだ。俺は顔も覚えていない」
三人で使うにしてはテーブルが小さいのは、元々ヴァンと父の二人で使用するためのものだったからである。母が亡くなったあとになって購入したらしい。
ほとんど出番がない客人用の椅子は、いつしか弟弟子の特等席になっていた。だが、その弟弟子が訪ねてくることも、もうないだろう。
「そうだったのか、すまない」
兄者はまつ毛を伏せた。閉口してしまった。変えた話題の先がまずかったと考えたのだろう。
そのまま二人でしばらく沈黙していた。
「ヴァンは」
兄者がわずかに戸惑いながら口を開いた。
「僕の素性を聞かないんだね」
兄者は真剣な、でも何処か儚げな顔をしていた。
ヴァンはエリーも含め、既に暗黙の了解となっていたつもりだったのだが、兄者は気にしていたらしい。
「聞いて欲しいのか?」
「いいや」
「じゃあ、聞かないさ」
兄者とヴァンの素性に深入りするつもりはない。面倒事に巻き込まれたくない以上に個人情報を知ることで親密になるのを避けたかった。それにわざわざ聞かずとも、貴族の坊々だろうということくらい子どもにだって分かる。
「逆に、俺の素性をお前は聞きたいか?」
ヴァンの皮肉に、兄者は底の見えない意地悪い微笑を浮かべた。その表情はまさしく政治に生きる貴族のそれだった。
「聞いたら答えてくれるのかい?」
ヴァンも意地の悪い笑みを浮かべたが、兄者より品のない替わりに健全な表情をしていたはずだ。
「いや」
「じゃあ、聞かないよ」
兄者は微笑を浮かべたままだったが、もうその表情からは毒気が抜けていた。
互いに素性など分からずとも、ある程度親密になれることを証明しているようだ。ヴァンはそれを認めたくはなかったが。
「また来るからね」
その日、兄者は去り際にそう言って笑った。
兄者を見送りながらも、ヴァンが考えているのはエリーのことだった。我ながら単純なもので、また彼女が訪れたら手合わせをしてやる気になっていた。自由な時間を失っていく彼女を憐れんでのことだと思う。
エリーもまた来ると言った。兄者と違って笑ってはいなかったが。
その約束を果たすのは、やはりエリーが先だろうか。そんなヴァンの予想は二分の一の確立を見事に外すこととなる。