12章 ヴァンの家
扉を叩く音でヴァンは目を覚ました。布団を脱いで玄関横の棚に立てかけてある剣を取り、扉を開いた。
「すまない。まだ眠っていたかい?」
にこやかに笑う赤毛の青年が一人、扉の前に立っていた。
「わかってんじゃねえか」
何でも謝ったら許される訳ではないだろうと思ったが、わざわざ忠告するのも億劫だ。ヴァンは眉間にしわを寄せた。
朝から爽やかな笑顔を振りまく兄者。胡散臭いのにエリーと同じ無邪気さが透けて見えるから困る。
兄者はヴァンの左手に視線を落として、肩をすくめてみせた。
「僕で落胆したかい?すまなかったね」
兄者が意地の悪い笑みを浮かべるので、ヴァンは兄者の視線の先、自身の左腕を見た。その手には護身用の剣ではなく、木剣が握られていた。
ヴァンは自分でも呆れた。どうやら扉を開けるとき、咄嗟に掴んだ剣が木剣の方だったらしい。もし、扉の前にいるのが賊だったら、どうなっていただろう。
途端に、朝の冷え込んだ空気が肌を刺すように感じられた。兄者は前回と同じ深い茶色のローブに身を包んで、手には何も持っていなかった。ヴァンは気づいたら身体を右に避けていた。
「入れ」
「良いのかい?」
兄者は目を大きく見開いた。瞳まで燃えるような赤色だった。
「手合わせしないんだ。外で話し続けるのも何だからな」
「ありがとうヴァン」
エリーも入れたことのないこの家に、兄の方を先に招き入れることになるとは。何が起こるか分からないものだ。
ヴァンの家は、居住用の部屋と倉庫部屋の二部屋からなる。
ヤナギのシングルベッド、一人用の小さな丸テーブル、コルマール地方で買いつけた足の細い椅子が三つ。この部屋にある全ての家具はその昔、父が買い付けてきたものだった。玄関付近と台所付近に小さな棚と細長い棚がそれぞれ置いてある。
灯りはテーブルの上の茶色いランタンだけ。
扉に近い方の棚には二本の剣が立てかけてある。そのうち、一つは木剣で一つは真剣である。ヴァンはこの二本を取り違えたのである。
奥の扉が倉庫に繋がっている。幼い頃、怪しい者が家を訪ねてくるとヴァンは父から倉庫に隠れておくよう指示されたものだ。
ヴァンは兄者に奥の椅子に座るよう指示した。奥を指定したのは、いざというとき扉を塞がれ逃げ道を押さえられないようにするためだ。兄者もそれに気づいただろうが、彼は素直にその椅子に座った。
ヴァンはその態度を見て警戒を少し緩め、台所に立って茶を沸かすことにした。棚の最も下段から小瓶を取り出し、汲み置きした水が入ったケトルにスプーン三杯分の茶葉を入れ、火にかける。兄者はヴァンが背を向けているのも御構い無しに話し始めた。
「ヴァン、ちょっと僕の話を聞いてくれないかい?」
「今忙しい」
「でも耳は空いているだろう?」
ヴァンは何も言わなかった。その沈黙は肯定を意味していた。実のところ、家に招き入れたときからヴァンは兄者を拒むことを諦めていた。この兄妹は、そういう部分が似ていた。あまりに積極的だから、だんだん拒む方が億劫になってくるのだ。兄者はヴァンの沈黙を受け、話を続けてきた。
「ねえヴァン、君は、右を向けと言えば人々がみんな右を向くような権力を、欲しいと願ったことはないかい?」
突然、飛躍した問いかけをされて、ヴァンは眉をひそめた。ヴァンもその昔そんな妄想をしたことがあった気がする。自分のわずかな経験を元に答えることにする。
「そんな権力があったって、できることは多くないと思うんだがな」
意地の悪さを滲ませるような口調で、兄者はヴァンの答えを確認してきた。
「じゃあ、ヴァンは要らない?」
「そんな権力を持って命を狙われたり面倒ごとを押し付けられたりするくらいならな」
たまに襲撃を受けるのですらこりごりなのに、権力者はそんなの日常茶飯事だろうと想像すると、権力が欲しいなんて口が裂けても言えなくなる。
「ふうん」
お前の方はどうなんだ……そう問いたくなったが飲み込んだ。わざわざ会話を転がしてどうする。
ヴァンが黙って会話が途切れると、兄者は新しい話題を振ってきた。
「ヴァンは剣が好きかい?」
突然の質問に、ヴァンは即答できなかった。好きか嫌いか、剣をそんな見方をしたことはなかった。今まで見ないようにしてきたのかもしれない。
「さあな」
はぐらかしたのではない。自分にも分からないことは、答えようがないだけだ。明確な答えを出そうとしなかった、というのが最も正しいだろうが。
「僕はあんまり好きじゃない」
ヴァンが会話を続けようとしないからだろう。兄者は聞いてもいないことを口にした。
「エリーは好きみたいだけど」
茶葉を入れたケトルが沸騰して、音を立て始めた。
そんなこと、改めて言われなくたって分かっている。エリーがどれだけ剣を大切に思っていることか。
彼女の怒りの表情と哀しみの透けた瞳の記憶が蘇ってきた。右足を大きく踏み出して、握り拳を振り下ろして、彼女は声を振るわせながら叫んでいた。
『本気のヴァンに勝たないと意味がないのだ!』
意味とは、何だろう。自分は剣を振るうことに、意味なんて求めたことはあっただろうか。
ヴァンはケトルに視線を落として胸に浮かんだ言葉をそのまま呟いた。
「俺は、剣を振らないと生きていけない」
兄者は一呼吸置いて、滑らかな声で問いかけてきた。
「だから剣を振っているのかい?」
ヴァンは答えなかった。答えられなかった。
「そもそも、君が剣を振るう理由は何だい?」
その声は、ヴァンを責めているかのように耳に響いた。意味? 理由?
そんなもの、無い。
ヴァンは火を弱めると、棚からコップを二つ取り出してケトルのお茶を注いだ。
湯気が上がって、良い香りがする。それを両手に一つずつ持つと、じんわりと熱が伝わってきて、心地良かった。
机にコップを置いてヴァンも席に着くと、兄者は諦めたように息を吐いて、自分に差し出された茶を口に運んだ。
「美味しいね」
こんな庶民の茶が貴族の坊々の口に合うとは思えない。ヴァンは返事をせずに、自分の茶を口にした。 表情には出さなかったが、心の内では眉をひそめていた。久しぶりに二人分の量を沸かしたから、分量がわからなくなっていたのだ。
「すまん。濃く入れ過ぎた」
兄者はそれを耳にして一瞬動きを止めたが、すぐにクスリと笑った。その笑いは大きくなっていて、やがて彼は大声を上げて笑い始めた。
ヴァンはその様子を、ばつが悪い思いをしながら眺めていた。こんな思いを抱くのはいつ以来だろうか。しかし、兄者の笑顔それ自体には何の不快感も抱かなかった。自分でもそのことは不思議だった。もう一度コップを口に運び、今度は音を立てながらお茶を飲んだ。やはり渋みが強すぎるし苦い。
兄者はひとしきり笑うと、赤い瞳に溜まった涙を細長い人差し指で拭った。コップを机に置いて、手を軽く組んだ。しばらくぼんやりと部屋を眺めていたが、ついにヴァンと視線を合わせた。そして、何か覚悟を決めたように鼻で深呼吸をして、口を開いた。
「ねえ、ヴァン」
兄者は赤い瞳に強い光をたたえて笑みを浮かべていた。しかし、その表情の裏の一抹の切なさを感じ取って、何を言われるのかも分からないのに、ヴァンも覚悟のようなものをした。
「エリーの話をしよう」