11章 この日常に終止符を
こんなに真剣に言葉を伝えるのは、いつ以来だろうか。
「もう此処には来るな、エリー」
重くて暗い声色は、ヴァン自身にも冷たく染み込んだ。
エリーは目を大きく開いて、身じろぎもしなかった。驚き戸惑っているのが分かった。
父も弟弟子もいなくなった頃は、人の機微になんて全く気づけなかったのに。
相手がエリーだから気づけたのか、それとも、ヴァン自身が人間のそういったものに気づけるようになったのか。それは分からなかった。
ヴァンはエリーから目を背けた。自宅の暗いねずみ色の壁が視界に入った。
やがて、エリーはおずおずとヴァンに問いかけた。
「そんな、当然、何故だ?」
エリーの返答は、ヴァンが覚悟したものとは違う穏やかな声だった。
「ずっと言っているだろう。お前が此処に来るのは迷惑なんだ」
「でも、もう来るな、なんて。ヴァンがそんなこと言うのは初めてだ」
声は穏やかだが硬く、語尾は震えていた。
ヴァンは黙っていた。言葉を見つけようと努めたが、見つからなかった。
重苦しい沈黙が降りてきた。その沈黙が地に着く前に、エリーはもう一度問いかけた。凛々しい強さのこもった声だった。
「何故だ?」
ヴァンはついにエリーを見た。その声に押されて見ざるを得なかった。
彼女は口を固く結び、ヴァンをまっすぐ見つめていた。いや、睨んでいるの方が正しいかもしれない。黒い瞳がじっと、ヴァンを捕らえていた。
瞳の奥では炎が燃えていた。何かに負けたような悔しさを滲ませた瞳だった。
その炎はゆっくりと弱まって、やがて消えて、エリーは閉ざしていた薄い唇をおもむろに開いた。
「ヴァン、何かあったのか?」
子を想う母親のような口調だった。実の母の記憶など無いが、その声に一瞬心が揺らいだ。いっそ襲われたのだと素直に伝えてしまえば良いではないか。そう思ったが、エリーは自分の出入りがヴァンの家の位置を明かしてしまったのだと考えるだろうし、実際、その可能性はある。
だが、襲撃のあった日にちを考えると、賊に此処を知られた要因は例の人物である可能性の方が高い。
ヴァンは、脳内に浮かんだ青年の笑みを躍起になって払った。
おそらく、あの兄者が呼び込んで来たのだ。じっと路地裏を覗き込んだりすれば、見つかるのは当然だ。
だが、賊が兄者とエリー、一体どちらの姿を見てヴァンの家を特定したのか。そんなことはさして問題ではない。どちらにしろ、エリーが原因であることに変わりないからだ。直接的原因は兄者だったとしても、エリーが兄者を呼び込み、兄者が賊を呼び込んだことになるだけだ。
賊に襲われたと聞けば、もちろんエリーはそのことに気がつくだろう。そのとき、この子どもはどんな顔をするだろうか。
それを思うと、ヴァンはエリーに真実を伝えたくないと思ってしまうのだ。そして、そんな自分自身に驚いていた。
沈黙を守り続けるヴァンに、エリーはもう一度声をかけた。
「今日のおぬしはおかしいぞ」
ヴァンは声を喉から絞り出し、短く返した。
「かもな」
「何があったのだ?」
「なんでもない」
はっきりと言い切った。しかし、視線は地面へと落ちていた。視界に入る自分のブーツもエリーのブーツも薄汚れているが、元の質が違うことは一目でわかる。高級品で身を固める少女は、依然そっと言葉をかけてくる。
「無理強いはせぬが……気が向けば話して欲しい」
「話すことなんかないさ」
真実を知るのと知らないのと、どちらがエリーにとって幸福なのか。ヴァンは答えを出せず、そのために口を開くこともできなかった。
ついにエリーも黙り込んだ。大通りから流れてくる喧噪が、この世界の脈絡から二人を置いていくようだった。
「帰ってくれ。そして、もう此処には来るな」
ヴァンは平静を装って二度目の忠告をした。そして逃げるように自宅の扉へ向かったが、次は針を含んだ声を投げられ、足を止めてしまった。
「俺の知っているヴァンは、訳も分からぬことを命じたりはしない」
振り返ると、エリーは再びヴァンを睨みつけていた。今度は怒りが込められていた。その発言に対し、ヴァンは容易く反論できた。
「会ってたった数ヶ月のお前が、俺の何を知っている?」
エリーは小さく息を吸って、唇を噛んだ。こぶしを握り締めてうつむく。
ヴァンの口から放たれた冷酷な言葉は、家々の壁に跳ね返って、自身の鼓膜を揺らし、ヴァン自身も苦しめた。扉の取っ手に手をかけて、どうにか駄目押しの一言を吐いた。
「放っておいてくれないか」
だが、なおもエリーは食い下がってくる。
「何故だ?」
ヴァンにはどう答えるのが最良なのか、分からなかった。言葉が出なかった。
「答えてくれ、ヴァン。俺を納得させてくれ。おぬしはいつもそうだったではないか。俺を黙らせてくれ」
わずかにかすれたエリーの声に後ろ暗さを覚える。それでも言葉を見つけられず、ヴァンはうなだれることしかできなかった。
「今日は帰ってやる。だが、また来る」
遠ざかっていく足音は、普段よりも心なしか静かだった。冷ややかだが、たしかな熱を持った言葉を耳にして、ヴァンは自分の脆さを思い知った。取っ手にかけた手が、まるで他人のものになってしまったかのように感じられた。
朱の国は季節の変わり目。先ほどまで気にならなかったのに、路地裏に吹き込んでくる微風が、ヴァンには急に肌寒く感じられた。