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10章 夏の終わり

「また来たのか、お前……」

「何度だって来るぞ。ヴァンに勝てるまでな!」

 暑さが和らいだと思ったら急激に寒くなるのが、この朱の国だ。

 白の国や蒼の国には季節を四つに分けている地域もあるらしいが、この朱の国には夏と冬しかない。細かく分類する言葉もあるにはあるが、日常的に使われるのはこの二つだけだ。しかも、夏の方が圧倒的に長い。

 もうすぐ短い冬が来る。次にエリーがヴァンの元へ訪れたときはちょうど、それまでのわずかな数日間だった。日差しの和らぐ優しい時期。そのはずなのに、扉の先の光はあまりにも眩しく感じられた。


 エリーの眩しい笑みにヴァンは顔をしかめてみせた。自分がいつも通り振る舞おうとしていることに気がついた。一昨日、自分が襲撃されて、この手で人を斬り、死体を竜に食わせた。その事実が無くなるわけでもないのに。無くす必要もないだろうのに。それでも、その記憶を振り払うように、この日常に浸ろうとしている自分がいた。そして何故だか、エリーにその事実を知られたくなかった。

 ヴァンはエリーとの記憶を手繰り寄せ、五日前に現れた赤毛の男を思い浮かべた。記憶の中までも、青年は微笑を振りまいていた。

「今日は、兄者は一緒じゃないんだな」

 ヴァンの声色には嫌悪がこもっていた。まだ彼が訪れてから五日しか経っていないことに気がついて内心驚愕した。

「うむ、兄者は忙しい方なのでな」

 エリーはそれだけ答えて、いつも通り木剣を構えた。

 ヴァンも扉の傍に立て掛けてある木剣を取って家を出る。いつの間にか此処が定位置になっていた。

 扉を閉めながらヴァンが訊いた。

「エリー、あれがお前の兄なのか?」

「そうだ。俺の自慢の兄だ」

 鼻高々で答えるエリーに対し、ヴァンは呆れた。途端にエリーはふくれっ面になった。

「ヴァン、何だ、その顔は。行くぞ、いいな」

「ああ」

 ヴァンは木剣を上げてエリーの攻撃に備えた。

 エリーは徐々に距離を詰めてきた。

 ヴァンの間合いに入る直前、エリーは身体を左に捻って剣を隠すような体勢から、素早く一歩踏み出し、その勢いを使ってヴァンを突いた。

 しかし、ヴァンは後ろに大きく跳んでそれをかわす。

 エリーは攻撃の手を緩めず、ヴァンを後退させ続けた。

 路地裏から表へ出てしまいそうなところまでヴァンは追い詰められた。

 エリーはヴァンの右腕を狙い、渾身の力を込めて、剣を振り下ろした。

 その瞬間、ヴァンは右足を軸にして左を向くように回転し、路地裏の壁に身体を添わせた。攻撃を避けると、がらあきのエリーの背を叩いた。

 エリーは痛そうというより悔しそうなうめき声を上げて、左手で背中を押さえた。

 ヴァンは何も言わなかった。手合わせをしても真夏ほどは汗をかかなくて済むのが、ありがたい。微かな風が路地裏に流れ込んできて、身体を冷やしてくれた。

 やがて、エリーが背筋を伸ばし、大きく息を吐いた。

「俺の攻撃は一つもヴァンに当たらなかったな……」

 ヴァンはまだ黙っていた。言葉が見つからなかったし、見つけようともしなかった。

「なあ、ヴァン」

 エリーが真面目な顔をして、ヴァンに向き合った。こうして向き合うと、エリーはやはり子どもの顔をしている。その幼い顔の真剣な表情に、胸中を見透かされているような錯覚に陥る。心地が悪い。そんなヴァンの胸中など知るすべもないエリーは問いかけた。

「どうして、兄者に対してあんなに冷たいのだ?」

 何だ、そんなことか。ヴァンは安堵した。今のヴァンにとって兄者の存在は、そんなことにしか過ぎなかった。

 どうして。理由を挙げれば、いくらでも挙げられる。父との約束、貴族臭い態度、相手をするのが面倒くさい、ただ気に食わない、何となく嫌な予感がする。でも、そのどれもが、根本的な理由にはなっていないように思えた。答えないヴァンにエリーは追い打ちをかけた。

「こうやって俺の相手はしてくれているではないか」

 ただ純粋に不思議がっているだけのその言葉は、ヴァンの心に刺さった。心の奥から、今まで深く考えないようにしてきた謎が滲み出てくる。ヴァンにとっては、エリーの相手を続けている理由の方が分からなかった。

 何故、自分はこんな子どもの相手を続けているのだろうか。

 そしてその質問が心の表面に浮かび上がったとき、取ってつけたような解答も頭に浮かんだ。

 自分は、父と弟弟子を失った心の穴を、埋めたかったのだ。

 何でもいいから、埋めてしまいたかった。

 だから、こんな子どもと顔を合わせ続けていたのだ。

 それは後付けで、もっともらしいだけの理由に過ぎない。本当の理由は、自分にだってわからない。おそらく本当の理由なんてものはない。

  ヴァンはエリーから目を逸らした。

  きっと穴を塞げれば誰だって、何だって良かったのだ。

「お前の相手だって、したくてしてるわけじゃあないんだがな」

 そう吐き捨てた後、エリーの顔を見れなかった。一瞬間が空いたが、エリーは、黙りはしなかった。

「それは重々承知だ!」

 少女は強い口調でそう言った。

「だが、ヴァンに勝てるまで、俺は挑み続ける!」

 エリーはヴァンから離れて、木剣を構えた。

 ヴァンも木剣を構えた。そして、小さく呟いた。

「ああ……勝てばいいのか……」

「何か言ったか?」

「いや」

 ヴァンはかぶりを振った。そして、また手合わせが始まった。

 結果は、エリーの勝ちだった。

 しかし、エリーはその初勝利に喜ぶ素振りなど全く見せなかった。反対に、痛いほど強い怒りとともにヴァンを睨みつけた。

「手を抜いたな!?ヴァン、おぬし……!もう一度だ!」

「勝ったら来ないんじゃなかったのか?」

 ヴァンは、自分の口調の冷たさに驚いた。

「本気のヴァンに勝たないと意味がないのだ!」

 駄々をこねる子どものように、エリーは叫んだ。語尾が震えていた。

 怒りに燃える真っ直ぐな瞳の奥には、微かな哀しみが透けていた。

 それに気づいた瞬間、ばつが悪くなって、ヴァンはもう一度木剣を構えた。

 胸に激しい後悔の念が滲んだ。

 負けてやれば、エリーの訪問をやめさせる口実になると思った。お互いの身を危険に晒し、厄介そうな青年まで引き込んでくるこの関係に終止符を打てると。

 自分はこの少女を馬鹿にしていた。エリーは手を抜かれたことに気づかないほどの馬鹿ではない。それに何より、本気でぶつからない相手に憤怒するほど剣を大切にしている。

 何故自分は、こんな幼稚な策に出たのだろう。

 エリーはヴァンに背を向け歩いて行った。そして、振り返り剣を構えた。動きの一つひとつが丁寧だった。何かを堪えるように真面目くさった顔をしていた。

 エリーは自分に失望しただろうか。

 そんな思いがヴァンの胸を掠めた。

 そして、気づく。エリーの存在が、自分の中で大きなものになっていたことに。

 エリーが自分のことをどう思おうが知ったことではない。そのはずだったのだ。

 しかし今、ヴァンはエリーの中の自分について思考した。自分は、そんなことを気にするくらい、エリーのことを思っていたのだ。

 そうだ、俺は、この少女が大切なんだ。


 だったら、言わねばならない。

 ヴァンは構えた木剣を下げた。

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